眞神の祈り
祈りこそ人のなすべき最上崇高な行為。
彝 ー眞究竟眞實義ー 掌篇之輯#5 第五輯
聖なる眞神山を登るしかない。
僕は韋究とともに逝った。
石段を踏む。踏むたびに清澄な空気が沁み入り、自然とともに在ると、唐突、晰裂劃断に觀ずる。將に、清明躬に在れば氣志神のごとし。そういう實感であった。實感として、實在だった。不分明な僕の感覺であっても、それでしかないと考えた。
「この岩山って、何だか人工のオブジェみたいだろ?」
韋究が言った。確かに觀ぜられる。
この山は、山と言うよりかは、一個の巨石(まあ、岩か、巖と言ってもいい。それらの違いは僕には定かではない)。
まるで、正立方體、極太の角柱のようでもある。六つの平滑な面が立方形を做す。巨石が垂直に聳える。立面は垂直、頂上と底とは全くの水平に平行する。
垂直に切立つ巖壁面の全ては、東西南北に正確に向いている。
石。一個の石。
それは凄まじいまでの威嚴を湛えていた。
壯嚴が地響きのように大地を激震し、天穹に鳴り渡るかのようであった。
偉容の崇高さは途方もなく、その聖の聖なる神聖さは恐ろしいほどに儼然と聳え、人間の根源の畏怖を揺さぶり、神の偉大さに生命の根底にある恐れを呼び覺まさせる。
存在が放つ巨魁さは、大宇宙をも壓倒、凌駕するかのようであった。
あたかも、眼前に太陽神アメン・ラーが燦然とあらわれたかのように。
夜陰も日影もなく遍照する絶対の太陽である大毘盧遮那佛の空前絶後の光の潮の氾濫が横溢の眩さで網膜を射抜くかのようであった。
存在が言葉にも概念にもならぬ無数の言語を以て、思惟・思考や諸考概を收まらぬ氾濫を起こす。超絶弩級の壓であった。
存在は摩訶不思議だ。一體、何であろうか。わかりようがない。わかり方がない。
いや、そもそも、わかるとは何か。わかったから何だと言うのか。まるで、ナミブの沙漠だ。無すらもない。だから、存在なのか。何もわからない。不可思議でしかない。喩えようもない。妙義としか言いようがない。
何もわからない。どうしていいのかもわからぬ。ただ、祈ることしかできない。積極的努力がそれしかない。こうべを垂れて、意地面子も我執執著も棄て、清く明かし素直な心髓精神魂魄を以て。
こんな世迷いごと、現実主義の諸兄ら、実利主義の諸氏らには、バカらしい限りであろう。ましてや、金銭財産や権力や名声や所有占有など私利私欲の亡者である愚連の輩には。
全ては自然発生的で、そうでなければならない決定的な根拠の不明な、實質・實體のつかめない、實觀としてはただインパクトでしかないもの、諸概念・諸考概・想起・意識とかいずれも措定でしかないものでしかなく、感覺に因る効果丈であって空疎としか感じられない、五蘊の結ぶ現象でしかないものであるが、たとえば事故や戦争や怪我や病気や涸渇や飢餓や躬體への攻撃が現に苦痛を生むのであれば、金銭や所有や名誉・権力の愕然たる喪失が心破る苦しみを生むのであれば、己の死や家族の死が悲歎で魂を裂くのであれば、それは正しく現実である。
心なき非にして儼かなる現實であって、それ以外の何者でもない。切實がリアル。峻嶮と聳える絶壁。義も意もない。ただ、無慈悲・無情・無条件に凍嚴。
それを重んじることがリアリティ。誰もが何よりもそれを優先せざるを得ない。勝てないからだ。
だが、實質・實體として實のないものであることも事實。それも他ならぬ我らの此の感覺に於いて。
ただし、それもこれも、我らが眼に觀えるがままだとすれば、という仮定の話。何もかも、仮定、架空、もしもの話。
魂魄は足掻き藻掻くばかりで、知は何處にも如何樣にも收まることを得ず、奚ぞ遂げんや、境地境涯・かたち・何だかの結論。
無余依涅槃や阿耨多羅三藐三菩提など夢の夢のまた夢の夢。
思惟を超越した睿智でもなくば。
頂上は鏡面の水平であった。まさしく立方。垂直に屹立する黒い巨石のその天辺には、靡く龍旗のように横長の、大磐が載っている。それも石(又は、岩か、巖)であるが、眞神の御山の〝屋上〟の面積のほとんどを占有し、かつ、東方向に大きくはみ出していた。眞神山が垂直と水平と直角とで構成されている人工物のような象であるのに比べ、この黒石は純粋なる自然石の姿、尖った起伏や鋭い凹凸、又亀裂などがある。対照的であった。
想い込みでしかないが、最初、僕には山全体が一字の漢字〝彝〟に視えた。頂上にある、自然形の石が、異形の、デフォルメされた、偏旁の「彑」、又は「彐」(けいがしら、いのこがしら)に觀ぜられた。尤も、漢字の彑は横にずれて右にはみ出したりはしていないが。
「ちょうど、頂上に巨大な磐代(神の依代)が載っているのが見えるだろ?」
そう言われて、僕は黙って頷いた。何かを感じ取っていた。
韋究の表情が少し硬くなる。自虐的な皮肉の微苦笑を浮かべながら。
「イタルが窮究極のパフォーマンスを演じたステージさ。古代の眞神の神聖な祭祀の場だ」
僕は震えた。あそこが彼の死んだ場所なのだ。炎となって炸裂した場所だ。常軌を逸している。炸裂、まさに狂ったかのように奔放な炸裂だ。僕は韋究の言葉に対して、何も応えられなかった。
ただ、山は儼然と聳える。一つの石であるその山は。
〝あらぬ〟は概念や意識や考概の対象ではない。その俎上に上がるもの、想いに浮かぶもの、劃かれるもの、思考に定義される一切は、〝あらぬ〟ではない。だから、〜ではない的な定義もできない。そら、これも。
漆黒の正立方體の大巖(若しくは石)の高さは地中に埋まっている部分も含めれば、五百二十四メートル、東西南北に正確に向かっている縦横奥行きの各辺もまた五百二十四メートル。
古代エジプトの長さの単位である一キュービットが五十二・四センチメートルであることを想うと、不可思議の觀に撃たれる。ちょうど一千キュービットだ。
その上に立つ磐代も、高さは四十四メートル。縦横五百二十四メートル。
彝之イタルはあの四十四メートルの磐代から飛んで、眞神の頂上に墜ちて死したのだ。燃え裂けながら。古代の祭祀が行われた場所で。
震えが止まらない。何か恐ろしいものを見てしまったかのように。
現實的に考えても、もし、勢いが余って、さらに下に墜ちていたら。それもあり得なくない。〝屋上〟の面積は磐代が占有するせいで残された面がとても狭い。實際、東側が〝屋上〟から、大きくはみ出したりしていることを考えれば、磐代の面積的な大きさは〝屋上〟の面積以上だ。
麓は激しい渓流で、眞神山にぶつかって、一旦、二つに裂かれ、互いに左右を廻って再び合流し、まるで、天然の環濠だ。
飛沫を上げる怒濤は岩に砕け、轟音で場を、空間を、時間をすらも裂いていた。
僕らにできることは祈りでしかないだろう。
次輯は解脱した佛陀は、なぜ、死したか。