この夢の話を
忘れたことを忘れて、忘れたことを忘れている。
その日、妹はいつまで経っても起きなかった。私が『怜菜』で、妹が『惺菜』。名前から察しが付いているかもしれないけど、私達は一卵性の双子として、生まれる前から高校生になった今までずっと一緒だった。今までこんなことはなかったし、惺菜はちゃんと起きれる子。こんなに魘されていて、心配になった私は病院に連れて行った。
「――『夢魘症』で間違いないでしょう。」
先生が言うには、その病気は“悪夢に魘されて永遠に眠り続ける。”のだとか。つまり文字通りの『永眠』であると。そして、“治す方法は存在しない。”と。精神的に弱っている人がかかる傾向にあるらしく、他に分かっていることは“このまま何もしなければ惺菜は食事を取れずに死んでいく。”ということだけ。苦しそうに魘されていて、思わず手を握ったけど、何も変わらずに何も知らない私は何も出来ない。
それから毎日病室に通って、お父さんともお母さんとも、お爺ちゃんともお婆ちゃんとも相談して、いつか治せる時が来ると信じて延命治療をしてもらった。私のわがままだった。高校に行く気になれず、病院に寝泊まりして一日中ずっと、眠気に耐え切れず気絶するまでずっと、魘され続ける惺菜の声を聴いていた。これがなくなったらただ眠り続けるだけで、そうなってしまったら本当に死んでいるのと変わらない。でも、毎日見ていれば分かる。だんだん魘されなくなっていっている。
この日は病院を出て散歩をしていた。“このままだと怜菜さんの方が体調を崩す。”と、お見舞いに来た少し歳下のいとこに言われてしまったから。歳上と同年代は言えなかったのに、慕ってくれてる弟妹だからこういうことを言えるんだろう。気を使わせてしまった。そうして久しぶりに外へ出て散歩途中、ふとスマホの内カメラで自分の顔を見てみた。当然酷い顔をしていた。同じ顔なのに、惺菜の方が酷いはずなのに、私の方がずっと嫌な顔だった。無意識に鏡は見ないようにしていたけど、多分、魘されることがなくなったら惺菜が自分に見えるんだと思う。まだ大丈夫だと思いたかっただけで、とっくに私は限界だったんだと。
散歩の目的地があるわけではなく、運動や外の空気を吸って気分転換するのが目的。なのは分かっていても、一人で歩いているとどうしても惺菜のことを考えてしまう。旅行に行ったり、絵本を読んだり、遠足とか、勉強を教えたりもしたし、学校にはいつも一緒に通ってた。私を“お姉ちゃん。”って呼んでくれた。そんな今までの思い出が引き出しから溢れてくる。気付けば同時に涙も。それを拭って、何か別のことを考えようと辺りを見回し、真っ先に目に入って来た神社へ行ってみた。
神社はさびれてて、正直ぼろかった。それは関係ないけど、“選択肢を間違えた。”とも思った。ここに来てやることなんて一つしかない。それをしないために選んだはずなのに、やっぱり無意識の中で惺菜のことを考えてしまっている。でもせっかく来たんだから願っておくことにした。この神社がどんな神様を祭ってるのかは知らないけど、どんな神様でもどうでもいいから、惺菜を助けたかった。
“お願いします。神様。惺菜をたす”そこまで言ったところで、顔面にぶち当たったもこもこに願いの言葉を遮られた。しりもちをついた私は慌てて謎のもこもこの方を見てその正体を探ろうとしたけど、本当に謎の生物だった。かろうじて生き物なのは分かる。イヌか、タヌキか、はたまたネコ科。顔立ちはネコっぽい。
「来れたか?」
もこもこが喋った。夢のような状況を、私は現実だとはっきり理解できた。だからこそ言葉に詰まる。しかし詰まったままではいられないから、どうにか“あなたは?”と、質問を投げかけ答えさせる。
「主と同じ、私は夢だ。名の話なら無い。それより、私は『魘魔』と言う化物を追う為ここへ来た。心に当たりはあるか?人間の娘。」
もこもこはそう私の質問を終わらせ、自分の事を始めた。
「“魘魔”では伝わらないか?こちらで“夢魘症”と呼ばれるものの原因なのだが。」
やっと知っていることが出てきて、私は焦って声を発する。“惺菜を助けられるの?”と。いきなり迫る私を不可解に思ったようだったけど、もこもこはすぐに答えた。
「可能性はある。それは主の何だ?」
“妹。”この時の私はこれ以外の答えを知らなかったから、疑問を抱かず躊躇わず答えられた。
私はもこもこをリュックに入れて、病室で夜を待った。お父さんとお母さんをなんとか説得して今夜だけは惺菜と一緒にいられる。そして今夜で惺菜を助ける。そう自分に誓って夜を待った。夜の理由は知らない。もこもこが“その方が都合が良い。”と言ったから、それに従っているだけ。惺菜を助けられる可能性に縋れるなら、私は多分何でも良かった。たとえそれが夢だとしても。
夜になり、面会時間が終わり、医者も看護師も来なくなった頃、リュックからもこもこを出す。もこもこは惺菜の様子を少し診た後、私に向かってこう言った。
「私は助けない。」
気持ち悪い暗い感情が渦巻いた。“落ち着け。”と、心の中で言い聞かせた。こういう時こそ冷静にならなければならない。そういうのは惺菜が寝たままになった時、全部やり終わったはずだから。私はもこもこの次の言葉を待った。
「主が助けろ。」
“なぜ?”の答えはあるんだと思う。でも私が聞きたいのはそんなことじゃない。“どうすれば良い?”と、そう聞いた。
「主に妹の夢へ入ってもらう。そこで妹を探し、起こせ。魘魔には捕まるな。」
惺菜の手を掴み、瞼を閉じ、意識が消える。そうして私は悪夢の世界へ踏み込んだ。
目が覚めると、崖と海に挟まれた曲がりくねった道路を走る自動車の後部座席で私は寝ていた。起き上がろうと手をつき、気付く。何か薄くて硬いものが座席に置かれている。それは一冊の絵本で、私はそれに見覚えがあるような気がした。けど、絵本を見ようと起き上がった私は視界に入った光景に焦り、再びそれを元の座席へ投げ置いてしまった。運転席に誰も座っていなかったから。
運転の経験は勿論ない。ハンドルを操作すれば良いことは知っている。だから急いで運転席に移り、ハンドルを握った。ブレーキだと思うペダルも踏んでみた。でも、まるで私の意思なんて関係ないように、どれだけ回しても踏み込んでも車は勝手に進んで行く。それどころかどんどん速くなってもいる。そしてついに曲がり角に差し掛かり、ガードレールを突き破って車ごと私は海へ落ちた。衝撃も痛みもなく、ただ怖い。恐怖で呼吸が加速していた。それでも惺菜を想えば恐怖を我慢できた。それに、惺菜はもっとずっと長くこの恐怖を味わわされている。もし悪夢が私に向けられたことで惺菜の負担が減っているのなら、その方が良い。その方が嬉しい。そう思えば楽になれた。少し落ち着けた私は急いで窓を開け、水面を目指して浮かび上がる。
水面から顔を出すと、そこは私と惺菜が通っていた小学校のプールだった。プールサイドに上がって不思議に感じる。さっきまでは確かに水の感覚があったのに、水から出た今、体も服も全く濡れていない。海からプールに繋がったことと合わせて、やっぱりこれは夢なんだと再確認する。前後の事象の繋がりがあるようで無い、途切れ途切れの記憶の断片。その中に私は立ち入っている。
プールから離れ、校舎へ入る。人のいる気配がしない。一年生の教室前で中に誰もいないことを覗き込み、中庭を挟んで反対側の職員室にもここから見える限り人はいない。もう一度一年生の教室を除いて時間割を確認する。どうやら今の時間は全校朝会らしい。私は校舎を後にして体育館に移動した。
でも体育館にも人はいなかった。ただ、人の代わりに巨大な目が体育館を覗いて何かを探していた。使い古したお気に入りのおもちゃのような、画用紙いっぱいに記した絵の具を布で拭いたような、そんな目が、何かを。そして理解できないことに、なぜか私はそれが大きなドラゴンだと分かっている。同時に、絶対に捕まってはならないものだとも、直感で。
ドラゴンに見つからないようこっそりと校舎へ戻り、惺菜を探して教室を周る。その間も目は変わらず、窓から時折覗かせる度に私は身を隠し、去るのを待って探索を再開した。一つずつ、少しずつ、ゆっくり、じっくり歩を進め、五年生の教室まで来て一枚の写真を見つける。記憶を辿って思い出すと、それは遠足に行った時の写真。小学校はクラスが一つしかなかったから、私も惺菜も同じ写真に隣同士で写ってる。懐かしさを感じる自分と、なんで覚えてなかったのか疑問に思う自分がせめぎ合った。この写真は思い出に残ってるのに、もっと思い出そうと引き出しを開けても、なぜか奥の記憶に届いてくれない。手を伸ばせない。なんでそんなとこまで押し込んだのか分からない。
校舎を探し終えて、結局惺菜は居なかった。まだ探してないところは校庭だけ。私は校庭に出て、そして当然ドラゴンに見つかった。夢中で走って目の前にあった寂れた小さな駅に逃げ込み、そのまま一番近くの蒸気機関車に飛び乗る。汽車は私が乗ってすぐ動き出し、私は急いで揺れる車内を前の方へと移動して行く。一つ進むごとに後ろでは轟音が鳴り響いた。焦らせられた。でも私の足は止められた。客席に一冊のノートを見つけて。
一番前の車両まで移動してノートを開く。惺菜の中学校のノートだった。私と同じ綺麗な字で、私と違って書き込んである。今まで何度も惺菜の勉強を見てあげてたのに、こんなノート見たことない。私に知られないようにしてた。多分、追い込まないために。
汽車は何もない開けた荒野を進む。私は前を背にして轟音が近付いてくるのを受け入れる。そして一つ前の車両がなくなり、次はこの車両の天井が剥ぎ取られた。更に、ドラゴンが火を吐いて汽車は燃やされる。炎を避けるため私は客席に身を隠し、その頃に線路は巨大な橋の上へと移って行く。底は霧がかっていて見えない。毎回のことだけど、でも私はこの光景を見たことがあった。昔、惺菜が読み聞かせてくれてた絵本の最後のページ。ドラゴンから汽車に乗って逃げる主人公。惺菜はこの絵本が苦手だったのに、私が好きだったから読んでくれてた。そうだった。あの頃はまだ惺菜がお姉ちゃんだった。
絵本では、主人公は無事に橋を進み逃げ切る。それが私の場合、橋は壊れて汽車ごと落ちた。それが悪夢だからだと思う。落ちて行く中で気を失ったのか、気付くと私は真っ白な世界で横たわっていた。得体の知れない、原因不明の恐怖の塊が常に精神を侵す世界。惺菜を起こす鍵は分かった。後は惺菜を見つけるだけ。なのにこの世界は今までの夢と違う。丸い、四角い、影もある。でも理解できない。怖い。その内私は膝をつき、うずくまって動けなくなってしまう。
歩きたいのに歩けなかった。進みたいのに進めなかった。それで恐怖に染められるから、動けなかった。そんな私を優しく抱き上げてくれた人がいた。
「怜菜。」
惺菜だった。声を聴いて姿を見て、恐怖が消えて。抱きしめたくなるのを我慢して私は聞く。“私がお姉ちゃんは嫌?”と。
「嫌じゃないよ。怜菜がお姉ちゃんになってくれるのは嬉しい。ただ久しぶりに名前で呼んでみたくなっただけ。」
本当は惺菜の方が先に生まれたお姉ちゃんだった。昔は、私は惺菜とおんなじなんだと思ってた。でも違った。惺菜は体が弱くてよく熱を出したのに、私はずっと元気だった。惺菜が頑張って宿題をやってても、私の方がテストで点を取れた。惺菜に私が甘えるから、惺菜は一人で泣いていた。惺菜の笑顔を私が奪ったんだ。惺菜を私が泣かせたんだ。そう思ったら私は惺菜を抱きしめていて、私がお姉ちゃんになっていた。そしてそう思い込めるよう、引き出しの奥に押し込んだ。
「あの時、“私は怜菜と一緒にいちゃいけない。”って思ったんだ。私は抵抗できる力がないから、なす術なく全部怜菜におしつける。そしたらいつか怜菜がパンクしちゃう。って。」
そう言って、惺菜が私の手を握る。
「私達が双子で生まれたのは、きっと助け合うためなんだよ。どっちかがどっちかを助けるんじゃなくて、どっちもがどっちもを助け合う。私はそういう関係が良い。怜菜はお姉ちゃんだけど、怜菜のお姉ちゃんは私だからね。いつでも甘えて良いんだよ。怜菜。」
私はやっと向き合うことができた。悪夢の世界に助けに来たのに助けられた。だから次は今度こそ、私が助ける番なんだ。分かってる。この惺菜はただの夢。起きたら消える幻。だけど惺菜が私のためにつくってくれた紛れもない本物の惺菜で、本心。そこは本物と変わりない。
魘魔は惺菜を捉えて放したくない。手放せば夢を支配できなくなるから。でもこの夢は元々惺菜の夢で、今私の目の前には夢だけど惺菜がいる。もこもこが言ってた“起こせ。”っていうのがこれで良いなら、もう対抗手段は揃ってるはず。そう考えて、私は“悪夢のところへ行きたい。”と惺菜に頼んだ。
辺りを埋め尽くしていた白は晴れ、よく知っている町へと変化する。私達の住む町へ。そしてそこには似つかわしくないあの絵本の敵役の姿をした、空へ届きそうなくらい大きい『悪い魔法使い』が見える。魘魔だとすぐに分かった。
「お姉ちゃん。私、今なら何でもできると思う。どうすれば、あの悪夢から惺菜を助け出せる?」
私は絵本のあらすじを思い出していた。物語の中で、主人公の勇者は悪い魔法使いを倒すのに『宝剣』を使う。それがあの魘魔を倒す方法。これは夢だから何が起きてもおかしくないし、逆に何にも関係性はない。多分割り箸でもあの魘魔は倒せる。大切なのは夢の主である惺菜が自ら対抗するということ。私はそのための勇気を与えるきっかけで、惺菜にとってのそれが私を助けることだった。二人だと思ってたけど私は独りで、惺菜は今までずっと、独りの私に手を差し伸べたがってたんだ。夢だとしてもそれが叶ったから、惺菜は勇気を持って悪夢に立ち向かうことができた。
惺菜は魘魔に宝剣を突き立てる。夢だけど、この世のものとは思えない悲鳴が響き渡る。しばらく続いた悲鳴が終わると魘魔は跡形もなく消えていて、かわりに惺菜が心地よさそうな顔で眠っていた。それを見つけた私はすぐに駆け寄ろうとしたけど感じたことのない強さの睡魔が襲ってきて、転びそうになったところを夢の惺菜に抱きかかえられる。もう、私がここにいる必要はないんだ。
「起きても覚えてられるかな。」
寂しそうに夢の惺菜はそう言った。それに答えられず口をつぐむ私を見て、答えは察した様子だった。
「惺菜を助けてくれてありがとう。助けに来てくれてありがとう。起きた惺菜が忘れてたら、その時はお姉ちゃんに話して欲しいな。この夢の話を。」
朝日が昇り始めて鳥のさえずりが聴こえてきた頃、惺菜は目を覚ました。因みに、私はその少し前に、夢から戻ってきたことを確認したもこもこに叩き起こされた。夢に入るのは疲れるから、さっさと栄養を取って休まないといけないらしい。私は飲み途中のカップスープを置いて目覚めた惺菜に“おはよう。体調はどう?”と聞く。
「おはようお姉ちゃん。良い感じかな。」
かなりやつれたけど元気そうにそう答える。だけどその後十数秒、ぼーっと何かを考えこんでいた。
「なんか、怖いけど怖くなかったような、そんな夢を見てた気がするんだけど、忘れちゃった。」
私には分かる。あれは消えて無くなる夢なんかじゃない。私はそれを覚えていられる。だから夢に入れる。
あなたが私に話してくれたように、思い出すことなんてなくても、私はあなたにこの夢の話をする。