9話
神国ラクラシアといえば――と聞かれると大多数の人間は神殿学園を思い浮かべる。
各国より素養のある女子を集め、騎巫士を育成する一大教育機関。人類最強の騎士フラン・ベルジュールが設立した世界を救うための学校だ。
しかし、当然ながら国家そのものが学園であるわけではない。全体的な割合で言えばそうでない部分のほうがもちろん多い。街と神殿が一体化したこの国の都市は神殿都市とも呼ばれ、他国の巡礼者や観光客も多く訪れる。
ダリル・セクエンティアの屋敷もまた、そんな神殿都市の一角にあった。
街の中でも交通の便に優れた一等地だ。屋敷の作りも瀟洒で、中身だってそれに見合うだけの高価な調度品が置かれている。
「そろそろか――いや、いかんな。少し落ち着かねば」
室内をクマのようにウロウロしていたダリルは、一度大きく息を吐き、客室の椅子に腰掛けた。
背を預けると使い慣れた感触に心が安らいでいくのを感じる。
と、ほどなくして部屋の扉を叩くノックの音が響いた。
「失礼します」
そう言って部屋に入ってきたのは目つきの鋭い銀髪の少女。
ダリルの一人娘、シルヴィアだ。
見た目的には少女でも、実際には二十半ばを超えている。巫力によりほとんど年を取らない娘との年齢差は年々開いていく一方だ。
「お父様、言われた通り例の生徒を連れてきました」
言われて視線を向けると、シルヴィアの後ろには小さな人影があった。
頬を包むように垂れる柔らかそうな黒髪、黒曜石のような艶のある黒い瞳。年の頃は九か、十か、おそらくそのくらいだろう。中性的だ。整った容貌を持つ子供にありがちな話だが、まだ性的に未分化で少年にも少女にもどちらにも見える。
だがもちろん、巫力を持ち学園に通う以上、男であるはずはない。彼女が娘の話していた件の少女――ニクスだろう。
「ご苦労さま。シルヴィア、君は下がっていなさい」
「ですがお父様――」
「これから大事な話をするのです。わかりますね?」
「――はい」
不満がありありと見える表情で、シルヴィアは部屋を後にする。
どうも人間の精神は肉体に引っぱられるきらいがある。歳を重ねても彼女の精神は若いままだ。父親としては嬉しいような困るような、複雑な心境である。
「失礼。急なお呼び立てになり申し訳ない。おかけください」
「はい。それでは」
答えて、堂々と長椅子の中央に腰掛けた。
まだ小さいので足が少しだけ床から浮いている。
一瞬娘の小さい頃のことを思い出して微笑ましく思ったが、軽く頭を振って振り払う。
「私はダリル・セクエンティア。神殿の信仰科に勤めています」
「ニクスです。信仰科と言うと、シルヴィアさんと同じですね」
「私は国の神殿の信仰科、娘は学園の信仰科なので厳密には違う組織ですが、やっていることはおよそ同じですね」
平時は女神に関する研究、有事は信仰に反する者の取り締まり。
他国においては衛兵とか騎士団がやるようなことも、ここでは信仰科の仕事である。
「ところで、娘からはどのくらい話を聞いていますか?」
「詳しいことは何も。今朝方シルヴィアさんが僕の部屋に来て、『これからアタシの父親に会ってもらうぞ』と言われて、馬車に乗せられて、気がついたらここでした」
「それは――」
娘の拙速さに思わず苦笑する。
「すみません、娘はどうもせっかちな性質でして。私に似たのかもしれませんが」
「まあ、学校はお休みでしたし、特に予定もなかったので大丈夫です。それで、僕に何かご用でしょうか?」
その表情に怒りが含まれていないことに安堵しながら、ダリルは要件を切り出す。
「ニクスさんは記憶喪失だそうですね」
「はい。自分の名前と基本的な常識以外、個人的に体験してきたであろうことが、どうも欠落しているようです」
「なるほど――」
だとすれば、やはり。
ダリルの心臓が早鐘を打つ。
「――これは小耳に挟んだ話なのですが、ニクスさんは入学試験のとき、女神像を見て『シア姉さま』と呼んだそうですね」
「ああ、はい。気づいたらそう口にしていました」
それを聞いて、ダリルは興奮に震えた。
女神の真名がシアであるということは、信仰科で神学に勤しむごく一部のものしか知り得ないことだ。それを常識と考えるレベルで知っていたのだとしたら。そして女神シアを姉と呼んだのなら――
いや、待て。
逸るな。落ち着いて確証を取るのだ。
「女神像がそれほど知り合いに似ていたのでしょうか? 貴方の知っている『シア姉さま』という人物に係わることで、何か覚えていることはありませんか?」
「残念ながら何も。ああ――しかし、そうですね。そこから僕の素性をたどれるかもしれませんね」
「――それは少し難しいかと。シアという名前はありきたりですから」
「ですか」
ニクスは残念そうにうつむいた。
「お望みであればこの国のシアという名前の女性をすべて調べることもできなくはありませんが――ご期待される結果は出ないような気がしますね」
「そうでした。僕はたぶんこの国の出身ではないんですよね。ククルさん――学友にも色々と調べてもらったんですが、僕が今使っている言語はこの大陸では使われていないらしくて」
「――そうなのですか」
これは、さすがに決定的だろう。
過去の歴代最高記録を桁違いに更新するほど女神シアから愛されていて。
知られていないはずの女神の真名を知り、姉さまと呼んで。
女神が人類に授けたという七大祭器の、未知なる八つめを持ち。
人類が使っているいかなる言語とも違う言語で会話している。
「ちなみにですが、トウガ――という名前に聞き覚えは?」
「トウガ――トウガですか。記憶にはありませんが――なんでしょう、ひどく懐かしいような気もします」
「は、はは。やはりそうですか」
この世界を創った至高存在『翼持つ者』は四人姉妹だったという。
長姉、リーファ。
次女、キアス。
三女、シア。
そして末妹の名前がトウガだ。
やはり彼女は――地上に現れた女神トウガその人に違いない。
何の理由でこの大地に遣わされたのかはわからないが、人類が数千年恋い焦がれた相手が今、自分の目の前にいるのだ。
体の震えを止めることができない。
「ダリルさん、僕の素性に何か心当たりが?」
「少々。ですが、その記憶喪失にも、なにがしかの意味があるのかもしれないと考えると、軽々しく口にはできません」
女神が考え、行うことに意味がないとは思えない。
女神ほどの超越者を記憶喪失にする外敵がいるとも考えられない。
これはきっと意味があることなのだ。自分などが手を出していい事象ではない。
「でも、記憶がないと――過去がないと、ラディウスが咲かないのです」
「ラディウス? ああ、神与武器を産む花ですか」
「はい。僕がもらったラディウスは、なぜかずっと咲かなくて」
「――思うに、御身にはそれ以上の武器が必要ないからではありませんか?」
「必要ない?」
「私の愚考ですが」
至高存在である女神に、神与武器など不要なはずだ。
それでなくとも女神シアより直々に祭器も授かっているようなのだし。
「必要ない――確かにそうですね。そうか。火力としては魔法銃があるんだし、僕が欲しているのは攻撃力じゃないんだ。欲しいのは、人を傷つけない道具、それから移動するための手段――」
ニクスがそうつぶやいた瞬間、その体が淡く輝いた。
そして天井からひらひらと、純白の羽根が一枚、降りてくる。
「――咲いた。今、咲きました。はっきりとそれを感じました。ありがとうございます、ダリルさん」
「……ああ、はい。お役に立てたのなら、私としても、嬉しい限りですが」
落ちてきた羽根が机の上に音もなく着地するのを、呆然と見る。
儀式もなしに女神の羽根が降ってくるなど、聞いたこともない。
奇跡の現場に立ち会ってしまった。
「ちょっと花の確認をしたいので帰りたいんですが、まだダリルさんの用事を聞いてませんよね」
投げかけられた言葉ではっと我に返る。
そして不敬のないように答える。
「いえ、それには及びません。私の用件は済みました」
「あれ、確かに満たされている。ちょっと複雑で読みにくかったけど、結局僕に何を求めていたのですか?」
「貴方様が何者であるか知りたかった――というところでしょうか」
「つまり僕の正体が知りたくて、それもこれまでの会話でおおよそ見当がついて、けれどそれを言うことはできないと――そういうことですか」
「どうかご容赦を。我が一族は信仰のみに生きてきたことを誇りとしています。それを私が台無しにすることはできません」
「ですか」
簡潔な返答。
そこにとりあえず不快も怒りも浮かんでいなかったことに安堵する。
そして改めて、彼女が告げた言葉の中にひっかかりを感じた。
――『満たされている』
――『ちょっと複雑で読みにくかった』
それはダリルの心の中が、という意味に取れる。思わず冷たい汗が全身から吹き出す。
「その、もしかして先ほどのお言葉からして御身は――人の考えが読めるのですか?」
「そこまで高尚な能力ではありません。人の願望がなんとなく見えるだけです。それも薄ぼんやりとです。あまり役には立ちませんね」
「いえ、そんな――」
自分が俗まみれの愚物でなくてよかった――と、心の底から安堵した。
女神に卑俗な願望を見せてしまうほど不敬なことはない。
「と――すぐに帰られたいということでしたね。馬車を手配します」
「何から何まで助かります。何かまた僕に用事があれば呼んでください。可能な限り善処します」
「ありがとうございます。ですが大丈夫です。貴方様が生きてそこにいるという事実だけでも十分です」
「そうなのですか?」
「ええ」
代々信仰科に属し、女神の研究を続けてきたセクエンティア家。
女神の存在を疑い、女神とはもっと無機的で自動的なものだとする一派に反し、愛と情を持つ存在だと主張し続けてきた一族の思いは間違っていなかった。
それを保証されただけでも報われた思いだ。
「ふぅん。無欲なのですね」
少しだけ冷めた――無表情めいた顔をした後で、ニクスはぴょんと長椅子から立ち上がった。何か不機嫌そうな気配を感じる。
「し、少々お待ちを。ただちに準備します」
「お願いします」
ダリルは慌てて部屋を出て、屋敷のお抱え御者の元へ走る。
常らしからぬ主人の様子に屋敷の人間たちは驚いていたが、彼にはそんなもの些末しか思えなかった。
そうして部屋にはニクス一人が残される。
「――つまらないな。やっぱり、学園の女性たちの方がいいですね。人の願望は大きければ大きいほどいい。うーん……これは僕の性癖なんでしょうか」
だから、そんなニクスの独白を聞いた者は誰もいなかった。
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