26話
コンコンコン、と部屋の扉をノックする。
返事はなかったが、中に人の気配は確かにあって、だからニクスは扉の前で反応を待った。
少しして、扉が開く。
出てきたサーラの表情はやはり暗く、目は赤かった。
それでもニクスの姿を見て少しだけ表情を和らげた。
「キミか。さっきはすまなかったな。急に泣き出して、逃げ出して……みっともない」
「いえ」
「片付けも途中だったのにな。全部キミに押し付けちゃって」
「サーラさんは何も悪くありません」
「悪いよ。全部あたしが悪い。……まあ、それはそれとして、ありがとな。心配して来てくれたんだろ?」
「あ、いえ、その――はい」
心配していたのか、と言われると正直違う気がした。
もしも生命の危険があるなら心配するが、どう考えてもそういう状況ではない。とは言えそれを正直に言えば角が立つということくらいは、ニクスにも予測できた。だから曖昧にうなずいた。
そんなニクスの反応に、サーラはほんの少し口元を綻ばせた。
「立ったままじゃあれだよな。とりあえず上がってくれ」
「お邪魔します」
身を引いて部屋の中を指し示すサーラ。
ニクスは軽く頭を下げて、サーラの脇の下を通って室内に入る。
部屋の内装はニクスの部屋とほとんど変わらない。
赤い絨毯に大きなベッド、本棚、机と椅子、洗面台、衣装掛け、コルクボード――強いて違う点を挙げるとすれば、机の上に木細工のコップが置かれていることか。
「ああ、それか」
ニクスの視線に気づいたサーラが、机に近づいてそのコップを掴み上げる。
「うちの地元の日用品でな。ただの水を入れても香りがついて美味しく飲めるんだ。あたしにとっては水と言ったらこの味で、ラクラシアの水はそのままじゃキレイすぎて落ち着かない」
「ははあ」
ニクスも近づいていってコップを観察する。
削り方は少し荒く、表面がわずかにデコボコしているが、木目と合わせてそれが一種のデザインのようにも見える。
「飲んでみても?」
「え、まあ、いいけど――なんかちょっと恥ずかしいな」
サーラはぽりぽりと頬をかき、それから洗面台の蛇口をひねってコップに水を注ぐ。
「どうぞ」
「いただきます」
差し出されたコップを受け取り、水を口に含む。
爽やかな香気が口の中に広がる。味の薄い紅茶を飲んでいるような、あるいは森の中で深呼吸しているかのような、独特の香りと味。
「なるほど、これがサーラさんの故郷の味ですか」
「材料になるメノの木はこの辺には生えてないらしいからな。こっちに来て初めて、地元特有の文化だって知ったよ」
懐かしむようにサーラは目を細める。
「……もしかしたら、もうなくなっちゃうかもしれないな。メノの木なんてその辺にいくらでも生えてるもんだと思ってたのに」
「瘴気に沈んだら――ですか」
街に買い物に行ったとき、クレイが買ってくれた植物を思い出す。
あれはすでに瘴気に沈んでしまった国特有の花だと言っていた。そういうことが、世界中で起きているのだ。この学園がいくら平和に見えても、一歩外に出ればそういう現実が待っている。
と、サーラがニクスの手からコップを取り、残った水を一気に飲み干して息を吐く。
「悔しいな。けっこういい感じになってきたところだったんだぞ。これからだったんだ」
沈んでいくサーラの表情を見て、ニクスは自分が言葉選びに失敗したことを悟った。
彼女は明言を避けていた。故郷が瘴気に沈むことを認めたくなかった。それを明確に言葉にしてしまったのは、明らかな失敗だった。
「あたしの故郷はさ――」
コップを見下ろしながら、サーラが語る。
「貧乏な、何もないところだったんだ。だから領主もやる気なくてさ。ずっと変わらず、毎日を生きるので精一杯って感じの暮らしだった。けど、数年前に領主が変わって、それがどうも自分から志願してサナクラトスを選んだみたいでさ」
先の失敗から相槌を入れることもできない。
ニクスはただ黙ってサーラの話を聞いた。
「最初にワインを作ろうって言い出した。そんなに美味しいブドウはこの辺りじゃ作れないってみんな言った。そしたらワインにするブドウはそこまで美味しくなくてもいいんだって言われてさ。ワインの味はブドウの出来よりもワイン造りの知識が大事だとかなんとか言って、実際言う通りに作ったら美味しくてさ。ほんの五年で名産品ができちゃったんだ。すごいだろ?」
サーラの視線はコップから天井へ、何かを思い返すように遠くを見ながら続ける。
「それでみんなだんだんやる気になって、新しいことしようって言い出して、その日を生きてやり過ごすんじゃなくて、明日することを考えるようになって、あたしは神殿のテストに受かったから、そんなみんなを守れるようになろうって思って――」
ぽた、とコップに雫が落ちた。
涙だった。
「全部が全部いい方向にうまくいってると思ってたのに――なんでかなあ、なんでこうなっちゃったんだろう」
「サーラさん――」
彼女の涙を見ると胸が苦しくなるのはなぜだろう。
わからない。女神は自分のことを器だと言っていた。やはり自分は人間ではなくて、人間の心を完全に理解することはできないのだろう。
だが、それでも――彼女の涙の理由、その欠片くらいは理解できた気がする。
だから問うた。
「――サーラさんは、どうしたいのですか?」
「え――」
一瞬驚いたようにこちらを見て、それから何かを堪えるように言葉を紡ぐ。
「……そんなの、決まってる。サナクラトスに帰って、そこにある全部を守りたい。瘴気を払って、瘴獣を倒してやりたい。でも、それをするにはあたしは弱い……今のあたしには、到底そんな力はないんだ……」
「ですか」
で、あるならば。
自分のやるべきことは決まった。
「……ごめん。なんかもう愚痴しか出なくて。あたしは自分をもっと図太い人間だと思ってたのに」
「いえ。サーラさんの話が聞けてよかったです」
自分の中でふらふらしていた羅針盤の針が、今明確に一方向を指している。あとは進むだけだ。窓の外の太陽を見る。まだ高い。他の生徒は授業を受けているだろう。都合がいい。動くべきは今だ。
「じゃあ、僕はそろそろ行きますね」
「そっか――いや。あたしも、もう少ししたら授業に戻るよ。授業を受けなきゃ強くもなれないしな。だから、その――先に行って、先生にうまいこと言っておいてくれないか?」
「それはできません」
「……だよな。うん、大丈夫だ、自分で説明する」
そんな会話をして別れる。
サーラの部屋を出る。
そこからニクスが向かったのは、もちろん教室ではない。
学園から街へ向かうゲートの近く。生徒の立ち入りは原則禁止されている場所。鉄道の格納庫だ。広く、薄暗く、舗装された地面には鉄の道が作られ、その上にあのとき見た黒い車が何両も鎮座している。
「……あんまりよく考えていませんでした。どれをどう動かしたらいいんでしょうか」
大国と繋がっているとは聞いたが、どの線路がどの国と繋がっているのか、まずわからない。それからどうやって動かすのかも、もちろんわからない。
「どれに乗って、どう動かすのか――」
「――サナクラトスに行くなら、あれよ。ウォルガン行きのB221号」
「え」
かけられた声に驚いて振り返る。
そこに立っていたのはククル・リンデンカンだった。
「終着まであれに乗ってから、あとはその延長上にサナクラトスがある。北を示す緑の不動星を目印にするといいわ」
「ククルさん、なんでここに――」
「泣きながら走るサーラの姿が見えたから。その理由と、それを受けて貴方が何をするか、それを考えたら自明よ。まあ、ここを選ぶかどうかはわからなかったけど、男の子って竜と機械が好きだものね。勝算は高いと踏んでいたわ」
すらすらと説明されれば、なるほどそうかと思うものの、そもそも授業中のはずの彼女がなぜここにいるのかについては答えられていない。
「それと動かし方だけど、そんなに難しくはないわ。運転席に備えつけられた球体に羽根を補充して、レバーを引くだけ。止まるときは逆にレバーを押す。それだけよ。当然今は羽根が入っていないけれど、貴方の巫力ならたぶん動くんじゃない?」
「ですか。やってみます」
そのくらいならなんとかなりそうだ。
示された車に乗り込んで、運転席を確認する。球体とレバーはすぐに見つかった。
ほっと息をつくニクスに、ククルが告げる。
「――無理そうならさっさと戻ってくるのよ。物理攻撃が効かない貴方が死にはしないと思うし、貴方の巫力なら勝算は十分ありそうだけど、戦いに絶対はないんだし」
「ククルさんは行かないんですね。少し意外です」
「鉄道に興味はあるし、行けるものなら行きたいけれど――国の立場があるから」
「なるほど。僕にはそういうの、ないですからね」
国から派遣されてきている以上、あまり安易な行動はできないということか。自分の行動の責任が、自分ではなく国に行く――そうなればやはり思うようには動けない。
過去のない自分だからこそ、ここで自由に動けるのだ。
「逆に言うと、かばってくれる後ろ盾もないから、戻ったら死ぬほど怒られると思うわよ。それでもいいの?」
「自分のすることが、学園の人たちの意に反していることはわかってます。しょうがないです。そのときは怒られます」
「そう。ならもう何も言わない。健闘を祈るわ」
「何から何まで、ありがとうございました」
「そこで過去形はやめて。イヤな想像をしちゃうじゃない」
それは意外な言葉だった。
理詰めのククルらしからぬ、非論理的な感情の言葉。
「――ほんと、無事に帰ってきてよね。貴方の体、まだ調べ足りないんだから」
「善処します」
左手を球体に当てて巫力を流し、右手でレバーを手前に引く。
すると車両全体を淡い桃色の光が包み、車輪が回転を始める。
ゆっくりと、鉄道は走り出した。
目的地のサナクラトスは、まだ遠い。




