25話
――涙。
その言葉の意味は知っている。
人間が感情の高ぶりから滲み出させる体液。
だが、人間がそのときどんな感情を抱いているのか、今のニクスにはわからない。限定された記憶の中にない。
だからだろうか。
気づけば足は礼拝堂に向かっていた。
学園に来て最初に入った建物。入学テストの会場。サーラに連れられてやってきて、今の生活に至った最初の一歩目。
そして、自分が涙を流した場所。
「――今でもあれは、自分のこととは思えませんが」
確かに存在を揺さぶられる衝撃を受けた。
魂の揺れを検知した。だがそれはどこか他人事で、衝撃を受けたのは自分だけど自分ではないという、そんな矛盾した感覚を覚えている。
それでも自分にとって涙という経験はここにしかなく、すべての手がかりはここの女神像にしかない。
人は、どんな気持ちのときに涙を流すのか。
ニクスはただそれが知りたかった。
一歩ずつ礼拝堂の奥へと踏み入れ、陽の沈みかけた暗がりの中でそれを探す。
あった。
背にしたステンドグラスからわずかな光を受けて、浮かび上がるように鎮座する女神像が。それと対峙する。
自分より遥かに背の高いそれを見上げ、顔を凝視する。
伏せられた目。控えめな鼻。幼い顔つき。それを守るように内向きに巻く髪。一枚布を巻き付けた体。何かを抱くように伸ばされた手。
ズキン、と衝撃が湧き上がってくる。
内側から。自分の手出しできない領域から。自分という存在にヒビが入るような感覚。間欠泉が吹き出すように、知らない感情が心を満たし染め上げる。
――シア姉様。
あのとき思わずつぶやいた言葉が、胸のうちに湧き出してくる。痛みや苦しみというほとんど経験のない感覚が全身を侵していく。
あのときはここでサーラが引き止めてくれた。
だが、サーラは今ここにはいない。そしてニクスも、ここで引き下がるつもりはない。もう少しで湧き出そうなのを感じる。眼球に抑えきれぬ情動が溢れ出して、凝縮して、それになりそうなのを感じる。
「もう少し――」
目を閉じて、その感覚を内側から手繰り寄せる。
出処を探る。分析する。泣くというのがどういうものなのかを理解するために、ニクスに残された処理能力のすべてを使って己の内を探求する。
――音が消えた。
空気の匂いがなくなった。海に面する学園を包む潮風の匂いが、一瞬にしてしなくなった。味も変わった。空気中に含まれる成分が、どれも検知できなくなった。
ニクスはゆっくりと目を開く。
そこは真っ白い空間だった。
礼拝堂から一歩も動いていないのに、知らない空間に移動している。
「ここは……?」
周囲を見渡す。白い。大地も空もない。自分が何に立っているかもわからない。とにかく色のついていたすべてを白に染め上げたような世界で、それでも自分以外で残っているものが、必然ニクスの目を引いた。
それは無数の扉だった。
部屋はない。仕切りはない。壁もない。ただ開いた扉だけがそこに立ち、向こう側の白を空虚に覗かせている。きっとそこには本来何かがあったはずなのに。
「なんでしょう、これ……」
歩く。見回す。あるのは開いた扉のみ。
歩く。見回す。そこには空虚な扉だけが残されている。
歩く。見回す。景色は変わらない。
――いや、一つだけ、開いてない扉があった。
一番奥の奥。一番大きな扉。木でできているような、石でできているような、見ようによっては金属にも漆喰にも見える、不思議な材質の扉。
ニクスはそっと手を伸ばし、扉のノブを掴んだ。
回す。ひっかかりはない。鍵はかかっていない。そのまま引っ張り開けようとしたところで、扉の向こうから声がした。
「ノックくらいしなさい。無礼者」
驚きで手が止まる。
「――どなたか、いるのですか?」
「いるのですか、とは不敬な。いるに決まっています」
ドアが向こう側から開かれ始め、ニクスは扉に押されるようにして後ろに下がる。そこでノブを放し、さらに一歩下がる。
開いた扉の向こうに立っていたのは少女だった。
あるいは幼女と形容するべきか。年齢が一桁くらいに見えるからだ。ひどく小柄で黒い長髪をまっすぐに伸ばした幼女。そいつが尊大に胸を張り、ニクスを睨むようにして立っている。
そして、告げた。
「頭が高いです」
「……そんなこと、初めて言われました」
まずもってニクスより背の低い者がほとんどいなかった。その上で相手の頭の位置に不満を述べるほど偉そうな態度の者という条件が加わっては、当然のごとくゼロだ。
だがひとまず、ニクスはその場に座って頭の位置を彼女よりも下げる。
すると彼女は腕を組んで満足げにうなずいた。
「よろしい。この女神トウガに拝謁する名誉を許します」
さらりと告げられた言葉に、ニクスは思わず目を見開く。
「女神――様、なのですか?」
「そうですよ。尊び敬いなさい」
と偉ぶる幼女。
だが、どうにも神聖な雰囲気など欠片も感じない。
「はあ。なんだか思ってたよりだいぶ俗っぽいというか、親近感のある感じですね」
「だいぶ切り詰めていますから。女神としての全部を持ち運ぶ器は創れなかったので、器に合わせてダウンサイジングせざるを得なかった。必然、精神構造も人間よりちょっと優れている程度に留まっています。言っておきますが、姉様たちならこうして会話するだけで精神が吹っ飛ぶくらいには超越者なんですからね」
「それは――助かりました」
「尊び敬いなさい」
「ありがとうございます、女神様」
「なかなか素直ですね。感心です」
うんうんとうなずいて、それから続ける。
「色々と予想外の状態ではありますが、こうして姉様の膝下まで来られたのはお前のおかげでもあります。女神としてはお前の望みを一つくらい聞くのに吝かではありません」
「女神様でも予想外なことがあるんですね」
「そっちに反応するんですか。まあ、そうですよ。一番の予想外はお前です。お前に今自我があるということが一番予想外で――言ってみれば一つの奇跡です」
「僕の自我が?」
反射的に頭に手を当ててみる。
特に何も起こらない。
「ええ。お前は記憶を失っていると思っているみたいですが、実際には逆なのですからね。まさかこうなるとは、あのときは思いもしませんでした」
「え――」
自分は記憶喪失ではない?
本当はその逆?
どういう意味だろう。この状態は喪失ではないということなのか?
「というわけで、優しくも寛大な女神トウガが、お前の質問に一つだけ答えてあげます。何が知りたいですか? お前が経験してきた過去? お前の正体? この世界の成り立ちでも、お前と私の関係でも、何でも教えてあげますよ。私は優しい女神なので」
混乱は冷めやらぬ。
思考がまとまらない。
それでもここで一つ、何でも知ることができるというのなら――
「――サーラさんが泣いた理由を、知りたいです」
一番に出てきたのはそれだった。
「はい? あの娘が泣いた理由?」
「です。それを教えてくれませんか?」
途端、女神は不満そうな顔をした。
それこそ、予想外の反応だ。
「ダメですか?」
「ダメというか――そんなの、私にわかるわけないではありませんか」
「えっ」
女神様は何でも知っている、というわけではないのか?
そんな疑問が表情に出てしまったのか、彼女は答える。
「だって、姉様に会うために不要な機能はほとんど削ぎ落としてしまったのですから。人の願いを聞き届ける機能は、もう微かに器のお前に残っているだけです。ので、その――それが知りたいなら、本人に聞くしかないですね……」
「そうですか」
「えとその、他にはないのですか? この女神トウガに聞きたい真実は。今なら出血大サービスで質問を二個にしてもいいですよ?」
脳裏で反芻されるサーラの涙。
「ここから出るにはどうすればいいですか?」
「え、それが質問ですか?」
「はい。早く戻って本人に聞くことにします」
「戻ろうと強く思えば戻れるはずですが――いやいや、それよりそんなことに貴重なチャンスを使ってしまっていいのですか? 女神様から直接真実を知るチャンスなのですよ?」
「気持ちはありがたいですが、僕は急ぐので」
「待って! 待ちなさい! あと一つ!」
戻ろうと強く意識した瞬間に、世界の白さがぼやけていく。
その手を女神が一瞬掴んだが、すぐにすり抜ける。
その顔に焦りが見える。
「じゃあそれです! 腰につけている魔法銃! お前は確かそれについて思い出そうとして失敗していましたね! その銃の銘は『フルードマキナ』! かつてお前たちが集めた四つの魔法銃の一つで、それを使うには姉様の力ではなく私の力を流し――」
聞こえたのはそこまでだった。
急速にすべてが遠ざかっていき、はっと我に返ったときには、ニクスは元通り礼拝堂の女神像の前にいた。その像の顔は、先程の女神様によく似ていると、今なら気づける。
「フルードマキナ――」
別れ際に聞いたことを思い出す。
懐かしい響きがする。四つの魔法銃。そうだ。確かに四つあった。
クラッドマキナ。
フルードマキナ。
ブレイズマキナ。
ストームマキナ。
そして、その四つを使って――
「っ――」
その先は思い出せない。
思い出せないし、今はどうでもいい。
「それよりも――」
サーラと話がしたいと思った。
彼女を理解したいという思いが、ニクスを突き動かす。
「サーラさんの部屋は――確か二十五番、でしたね」




