12話
「今日から巫術の実践に入りますよぉ」
教壇に立ってそう宣告したのは教導科巫術担当のユニ先生だ。
ふんわりとゆるくウェーブする白い髪、紅玉めいた赤い瞳、そして小柄な体躯のせいでウサギのような印象を受ける。
ニクスが背伸びや台を使わず同じ目線の高さで会話できる数少ない人物だ。
もちろんその見た目の幼さとは裏腹に実年齢は教師をするにふさわしいものなのだろうが、外からそれを窺い知るすべはない。
「基礎と座学が長かったですよねぇ。でも必要なことだったんですよぉ。巫力の緻密なコントロールが巫術には不可欠なんですぅ」
という言葉通り、これまでに巫術の授業で教わったのは基礎的な知識と巫力のコントロールのみ。体の任意の場所に集中させたり、圧縮して質を高めたり、あるいは他の生徒の巫力を感じ取ったり――地味で単純な訓練が続き、実際生徒たちに飽きの雰囲気が漂っていたのは確かだった。
「まず巫術は大きく分けて三つある、というのは授業で何度も言ってきましたねぇ。じゃあそれはなんでしょうかぁ? 誰かに答えてもらいますよぉ」
その瞬間、ずばっと勢いよく手が挙がった。
お嬢様然とした金髪の少女、クレイ・グレイモアだ。
「それじゃあグレイモアさん~」
「はい。三つの巫術とはすなわち【浄化】、【回復】、【祝福】ですわ」
クレイの回答を聞きながら、ニクスもこれまで受けてきた座学の授業を思い出す。
【浄化】は巫力を放出して周りの瘴気の汚染を除去する術。
【回復】は巫力で生命力を活性化し、傷を治癒させる術。
【祝福】は巫力を肉体の一部に集約させ留め置き、運動能力や感覚を強化する術。
巫術というのはこの三つしかない。
「正解ですぅ。ちなみに【回復】と【祝福】は自分にかけるか他人にかけるかで要求される能力がぜんぜん変わってくるのでぇ、五つにわける分類法もあるんですよぉ」
自分の【回復】は得意だけれど、他人にはうまく【回復】がかけられない――なんていう者もいるし、逆もありうるという話だ。
だから神与武器の種類だけでは騎士と巫女が決まらないのだ。武器が弓でも、自己強化が得意で瘴獣の攻撃を避けたり受けたりしながら前衛として戦う騎士もいるらしい。
「なので今日はそのへんの適性も見ていきましょうねぇ。まずは自分以外への【回復】からですぅ。みんな花瓶は行き渡ってますよねぇ?」
各自の机の上には、いつぞやのラディウスのように、各々一つ花瓶とそこに生けられた花が置かれている。
しかしながらいずれも花は萎れ、葉は枯れかけている。すべてがそうなのは、当然意図的に弱らせてあるからだった。
「それじゃあ枯れかけの花に【回復】をかけていきましょうねぇ。イメージするのは水面に広がる波紋ですよぉ。優しく薄く、規則正しい巫力の波を花の中に起こすんですぅ」
ニクスはそれを聞き、言われたとおりにやってみる。
自分の手から優しい波紋を広げるイメージ。
巫力をコントロールし、生物の生命力を刺激し増幅する波を起こすのだ。
幸いにしてというべきか、ニクスは巫力の量だけでなく、緻密なコントロールも得意だった。神与武器を得るのが遅くなった分そちらに注力していたせいだろうか。
「ふーっ――」
肩の力を抜き、体を巡る巫力をそっと動かす。
優しく、優しく。
手のひらに生じた淡い薄桃色の光は、波のように濃淡を伴って教室に広がる。例えば音を見えるようにしたらこうなるだろうという、光の粗密波。
――変化が起きた。
枯れかけの葉がみるみる緑に変わり、へなへなと曲がっていた茎がしゃんと伸び、その先についている花もまた、瑞々しさを取り戻していく。
さらにもりもりと葉が増え、にょきにょきと茎が伸び、花瓶から根っこが溢れ出す。
「――やった」
ラディウスのときと違って今回はうまくいった。
そう思ってほっと安堵の息を漏らす。
と、
「うわっ」
「はえっ」
周囲から声が漏れる。
ニクスが手を止めて周りを見渡すと――教室内すべての花瓶の花が再生していた。
にもかかわらず、ほとんどの生徒は困惑の表情をしていて嬉しそうではない。
その理由がわからず首をかしげていると、ユニ先生が困った顔をして近づいてきた。
「すみません、ニクスさんには最後にやってもらうべきでしたねぇ……」
言われてよくよく観察すると、花瓶の花たちはニクスの席に近いほど旺盛に葉を増やして再生している。
「いやでも、まさか余波だけでこうなるとはさすがに思わないじゃないですかぁ……」
「ということは……やってしまいましたか。申し訳ない」
波のイメージの広がり方が大きすぎたのだ。
もっと収束し、局所的に起きるような波を作らなければならなかった。
己の未熟だ、ときゅっと口を結ぶ。
しかし、ユニ先生はぶんぶんと首を振る。
「ニクスさんは何も悪くありませんよぉ。【回復】は広くて困ることありませんしぃ」
「そうなのですか? 敵を回復してしまう状況とかもあるのでは?」
「あはは、それじゃあまるで人間同士で戦う事態を想定してるみたいじゃないですかぁ。そんなことありませんよぉ」
「――そう、なのですか」
そうなのか。
人間同士で戦うことはないのか。
自分の中の常識でもそうだっただろうか。そうだったような気もするが、全然違うような気もする。
けれどもそうか。種族の存続さえ危ぶまれる状況では、同種同士で大規模な殺し合いをする余裕がないというのは道理である。
「まあ起きたことはしょうがないのでぇ、他のみんなは日を改めてやってみましょうねぇ。で、自分に向ける【回復】についても似たようなことが起きるかもしれないのでぇ、ニクスさんは最後にやりましょう」
「わかりました」
「それじゃあみなさん、自分のナイフで指先を切ってみてくださいねぇ。怖いでしょうけど大丈夫ぅ、万が一切り落としちゃっても先生がくっつけてあげますよぉ」
こわ……というつぶやきが教室のどこかで漏れた。
みんな不安そうな面持ちだ。
お互いに言葉もなく顔を合わせ、誰も動こうとしない。
「――行きます」
そんな中、凛とした声で告げたのは、やはりクレイだった。
細身のナイフを右手で握り、そっと左手人差し指の先に刃を埋める。
手入れの行き届いた鋭利なナイフは音もなくぬるっと指先に沈み、遅れてドクドクと血が流れ出す。
「っ――【回復】!」
クレイの左手に薄桃色の光が生じ、勢いよく垂れていた血がぴたっと止まった。
彼女はナイフを置くとその手でハンカチを取り出し、血を拭う。
その下には傷の痕すらない。
「こんな感じで――よろしいんですの?」
少しだけひきつったような表情だが、それでも不敵にクレイは笑う。
「完璧ですぅ。さあさあ、他のみなさんも始めてくださいねぇ。見本を見せてくれたクレイさんに続いてくださぁい」
は、はーい、と元気のない返事が何重にも重なる。
やはり気は進まないようだ。しかし一人また一人と意を決して指先を切り、自ら【回復】をかけていく。中にはなかなか傷が塞がらず気分が悪くなる生徒も出たが、すぐに先生が代わって【回復】をかけて傷を癒やしていた。
そうしてニクスを除く全員が自己回復を試し、己の適性を把握したところで、再びユニ先生がニクスのもとに戻ってくる。
「それじゃあニクスさんもやってみましょうかぁ」
「はい」
ニクスは支給されたナイフを取り、そして躊躇なく指に当てた。
そのまま力を込める。
――だが、血は出ない。
「あ、ええと、やっぱり怖いですかぁ?」
「いえ、そうではなく」
ニクスは左手を机の上に置き、大きく五指を広げる。
そしてその中心、手の甲に――思い切り勢いをつけてナイフを突き立てた。
「ひっ――」
悲鳴を漏らした生徒がいた。
顔を逸らしたり目を瞑る生徒もいた。
そして、それ以外の生徒は目撃した。
――青白い火花を発して、手の甲がナイフを弾いたのを。
「先生」
「は、はひぃ、なんでしょうかぁ……?」
ぐるぐるとした目で混乱状態を告げるユニ先生に、ニクスは報告した。
「どうやら、僕の体にはナイフが刺さらないみたいです」