魔女告発と拷問 ~魔女は感染する
医師のガット・リーエンが、その田舎町カナンに引っ越して来たのは、彼の本意ではなかった。彼の受け持った患者の一人が有力者の妻で、彼の治療内容に納得をしなかったその有力者に半ば追いやられるようにして彼はこの町にやって来たのだ。
彼はそれを不服に思っていた。彼は確りと権威ある医療技術を施した。彼以外の医師でも大差はなかっただろうし、誠心誠意患者に尽くしたつもりだった。確かに患者の、つまりその有力者の妻の容態は悪化してしまったが、それは致し方ないの事だ。何もしなければ、もっと悪くなっていたのかもしれないのだし。
患者の容態の悪化を受け、ガットを見限ったその有力者が秘密裏に頼ったのは、噂では魔術師であったらしい。否、フランスからやって来た女性で“占い病治し”と名乗っていたそうだが、いずれ大差はないだろう。その話を聞いてガットは憤慨した。
「魔術師に頼るなど、歴史と権威ある医療技術を何だと思っているのだ?! しかも、女だぞ?!」
ただ、偶然に決まっているのだが、実際にその魔術師は患者を治療してしまったのだという。それによりガットは立場を失い、医師を続けられなくなってしまったのだ。
だが彼は憤慨はしていたが、そこまで落ち込んでいた訳ではなかった。田舎町カナンには医師がおらず、住人達は自分を頼らざるを得ないと自信をもっていたからだ。田舎町ではあるが、自分は尊敬を集められるだろう。それはそれで悪くない。
がしかし、それは最初の内だけだった。しばらくが過ぎると、彼の医療は高額なだけで効果がないと町で噂されるようになってしまったのだった。そして、田舎町カナンの住人達は、彼がやって来る前から頼っていた近くに住んでいる白魔術師のマーナに再び治療を頼むようになった。ガットが憎々しく思っていたのは言うまでもない。
「また、魔術か! 忌々しい! 女なんぞに頼りよって!」
マーナは穏やかな性格をした30代の女性で、見た目も悪くない。少々痩せているが、不健康な印象は受けない。彼女は病人の治療を請われると直ぐに訪ねて薬を調合する。薬草の知識に長けているらしいが、占いの類は苦手であるらしい。
「いやぁ、やっぱりマーナさんの薬が一番ですよ」
ある家庭に招かれた彼女は、気分屋であるその家の主人からそうおだてられた。「あら? 偉いお医者様の方が信頼できるのじゃなかったのですか?」と彼女は返す。笑っている。
「あのお医者様は、都会の人だからな。きっと都会の人にしか治療が効かないのだよ」
その主人の言葉に彼女は呆れた。
「それでは、この町では役に立ちませんわね」
肩を竦める。もちろん、主人が冗談を言っている事は彼女も気が付いていた。分かっていておどけているのだ。そしてそんな彼女の様子は、どこか安心しているようでもあった。
実は、医師のガット・リーエンが引っ越して来て、仕事が奪われるのではないかと彼女は心配をしていたのだ。だが、これならば問題はなさそうである。
――19世紀以降になり、自然科学的手法が確立され、それが医療技術の発展に用いられるようになるまでは、ヨーロッパの医療技術は効果が怪しいものが大半を占めていました。2世紀に創始されたガレノス医学が権威を持ち、瀉血(血を抜き取る)といった医療行為が盛んに行われていましたが、もちろん、それで病気が治るはずがありません。体力の低下によって、却って悪化してしまっていたに違いないでしょう。
自然科学的手法に基づく医療とそういった古代からの伝統的な医療との差がどこにあるのかといえば、それは“検証の有無”です。自然科学においては、(地球物理学など、一部に例外はあるのですが)十分な検証が行われなければ、どんなに自明であるように思える理論でも正しいとは認められません。つまり、検証する為の実験や調査が必要になって来るのです。
この有効性は明らかです。例えば、実験や調査さえ行っていれば、瀉血に治療効果がない事は簡単に分かったでしょう。かつては猛毒の水銀が薬として用いられていて、服用した人は水銀中毒になってしまっていたのですが、これだって実験や調査さえ行っていれば防げていたはずです。しかも、こういった間違った考えは、数千年もの間信じ続けられていました。
では、何故、検証が行われなかったのかといえば、ガレノス医学が権威になってしまっていたからです。疑う事を禁止されていたのですね。自然科学の主義の一つに、“反証主義”という重要な考え方があります。これは平易に表現するのなら「反論(検証)できる構造を持った理論を、科学と呼ぼう」といったような主張です。
つまり、逆説的に思えますが、自然科学は“どんなに疑っても、正しいと認めるしかないからこそ信頼できる”のですね。権威と化し、疑う事を禁止された時点で、それは信頼するに値しないのです。それではどんなに間違っていても、明らかに被害が出ていても、生き残り続けてしまいますから。
――が、
それに対し、民間で伝統的に生き残って来た薬草などに詳しいいわゆる魔術師の類は、効果のある医療を施さなければ信頼されなかったはずです。結果、効果のある医術が生き残り易い事になります。それは決して近代自然科学のように体系化された研究ではなかったでしょうから綻びもたくさんあったのでしょうが、それでも当時の医学に比べれば遥かに信頼のおける医療であったと考えられます。
医療技術の権威化に染まっていない地方では、魔術師の類による魔術が、医療の中心であったケースも多かったのではないでしょうか。
ガット・リーエンは苛立っていた。
自分の医療行為が「効果がない」と馬鹿にされる一方で、白魔術師マーナの医療は大いに感謝されて高い評価を受けていたからだ。どうやら彼の治療に効果がなかったと思われる事により、魔術師の能力がそれまで以上に高く評価されてしまったらしい。
幸い読み書きなどを教える仕事を見つけられたお陰で彼ら家族が生活に困る事はなかったが、彼のプライドは著しく傷ついてしまっていた。
「精霊の力に頼ることなど、こんな田舎の魔術師にできるはずがありません。きっとマーナとかいうその魔術師は、悪魔の力に頼っているに違いありませんぞ」
だから、近所の知り合いにそんな彼女の悪口を言ってみたりもしたのだが、奇妙な顔をされるだけだった。
「彼女がそういう力に頼っているという話は聞きませんね」
何故だか話が通じていない。
“不可解だ。納得いかん!”
そんな町の住人達の反応を彼は不服に思っていた(もっとも、彼自身、悪魔の存在を芯から信じているという訳でもなかったのだが)。
悪魔が関わっている疑いがあるのなら、もっと警戒をしても良さそうなものなのに。
だからこそ、ある日、偶然隣町の者から「自分の町では、マーナは黒魔術師だと思われていますよ」という話を聞いた時、“やはり、あの女は悪魔と契約した黒魔術師だったのだ!とそう思ったのだった。
「あの女はうちの町には来ないでしょう? 黒魔術師だってバレているから来ないのですよ。うちの町では、代わりにウーライという魔術師が治療をしてくれています」
隣町の者はそう教えてくれた。他の魔術師の名前が出て来た事は多少は気に食わなかったが、それでも彼は嬉々として井戸端会議をしている近所の者達に「やはり、マーナは魔女だったのですぞ」とその話を伝えた。
が、反応はやはり芳しくはなかったのだった。
「その話なら知っていますよ」
などと一人が返す。
「マーナは隣町の人間に嫌われていましてね。確か薬をわけるのを渋ったとかそんな事があって、それで彼女は黒魔術師だって噂を流されてしまったんですよ。まったくのデマなんで安心してください」
他の者が、「彼女にも都合があるのに、言い分を聞かずに一方的に悪く言うだなんてあんまりですよ」と続けた。
ガットはその話に憮然となる。彼としては、これでマーナを追い出せると思っていたのだ。そして、また医者として自分が活躍できるとも思っていた。これでプライドを取り戻せると。
だから彼は近所の者達のその説明を聞いてもまったく納得していなかった。そして、少し考えると、教会の異端審問官に告発状を送ろうと思い至ったのだった。
“この町の連中は、きっとあのマーナとかいう女に騙されているのだ。いや、仮にそうでなくとも構わない。黒魔術師という噂があるのなら、それで言い訳は充分だ。魔女であると教会に訴えて追い出してやる!”
――女のくせに出しゃばるから悪いのだ。
そのように言い訳をすると、彼は早速告発の為の手紙をしたためた。いかに自分が敬虔なキリスト教徒であるかを強調し、“恐れながら”と恭しく語り、そして“魔女という社会悪を根絶する為に”とそれが義憤であると断った上で、“どうか、マーナというあの魔女に天の裁きをお与えください”と懇願し、更に“明確な証拠は隠しているかもしれませんが、拷問を行えば必ずや口を割ります”と念を押して結んだ。
“拷問”という点が重要だった。
拷問にかかった者は苦痛に耐え切れず、ほぼ確実に魔女であると自白するからだ。極まれにそれでも自白しない者もいるが、気が狂うか凄まじい責め苦によって死んでしまうかのどちからであるらしい。
まわりくどいその告発の手紙の内容は、確かに丁寧ではあったが、それだけにどこか言い訳じみていて、読む人が読めば彼の醜い嫉妬と自己弁護が感じ取れただろうが彼はそれを特に気にしなかった。“どうせ教会の連中はそこまで深くは考えない”。とにかく、彼はそれを匿名希望で教会に送った。匿名希望にしたのは、万一の事を考えて自分に累が及ばないようにという配慮である。
“魔女に狙われる危険がある為”と断っておいたので、匿名希望が怪しく思われる心配はないだろうと彼は考えた。いかにももっともらしく聞こえる。
教会が彼の告発の手紙を信じるかどうかは分からなかった。が、それでも動く可能性は大きいだろうと彼は考えていた。マーナがそれなりに美人で金も多少は持っていると強調しておいたからだ。
教会が行う魔女狩りの中には、女性の凌辱や財産目当てのケースもある。欲に目がくらめば、魔女だと信じなくても彼らはマーナを捕らえに来るだろう。
彼はそのように算段していたのだ。
――そして、彼が告発状を送ってから数日後、はたして異端審問官が教会から派遣されて来たのだった。
異端審問官は背が高く痩せていて、清潔そうな白い服を着た人の良さそうな男だった。名前はオリバー・セルフリッジというらしい。見た目など当てにならないと彼は承知していた。案の定、その男は直ぐに白魔術師のマーナを「魔女の疑いがある」として問答無用で捕らえてしまった。これから拷問によって、マーナは魔女である事を自白させられるはずである。
ガット・リーエンは上機嫌だった。
「カカカ! いいぞ、いいぞ! あの女はこれでお終いだ!」
日本語翻訳でウィッチは、“魔女”と書きますが、ウィッチには実は男性も含まれています。なので、この訳語には誤解を招くという問題があるのですが、それでも魔女に女性が多かった点は揺るぎない事実です。そして、魔女狩りの被害者の実に80%は女性である点を鑑みるのであれば、魔女狩りの原因の一つに“女性蔑視”や“女性差別”があった点は捨て置けないでしょう。
一部のフェミニスト達の“魔女狩り女性差別原因説”には誇張があると指摘されていますが、それでも医療という重要な仕事を女性が担っていた事を苦々しく思っていた人間が当時のキリスト教社会にいただろう点は想像に難しくありません。それが魔女告発に繋がったケースもあったのでしょう。
魔女として告発された者達は、多くが独身の中年から高年の女性であったそうです。彼女達は生活の手段として医療行為を行っていたと思われます。演出、または思い込みによる治療効果のアップを狙ってかは分かりませんが、その医療に“魔術”という説明を用いていたのではないかと思われます。
“魔術”という説明は非常に効果的に人々に作用しますが、同時に彼女達自身が恐怖の対象となるリスクを持っていました。その為“恐ろしい怪しげな術を使う人間”と思われてしまっていたのでしょう。
だからこそ、嫌われれば“黒魔術師”と恐れられる場合もあるのです。
“白魔術は天使や精霊の力を借り、黒魔術は悪魔の力を借りて行われる”などといった説明がされたりもしますが、民間における区別は非常にシンプルで“人気者が使えば白魔術、嫌われ者が使えば黒魔術”といった程度の扱いだったそうです。
なお、女性を性的に凌辱する目的で魔女狩りを行ったとされるケースもあります。前述したように、魔女狩りの被害者は中高年の女性が多かった訳ですが、ピエール・ド・ランクルという判事は、少女や若い女性ばかりをターゲットにし、性的な拷問を行う事で性欲を発散させていたと言われています。また、金銭目的で行われた魔女狩りもあり、マシュー・ホプキンスや職業的魔女狩り人バルタザール・ロスが有名です。が、これらは極一部の例外に過ぎません。テレビ番組などで取り上げられたりする事もありますが、慎重に受け止めてください。
町の住人達が不安そうにしている。
ガット・リーエンはマーナを心配していると考えていたのだが、どうもそれだけではないようなのだった。
拷問の苦痛から逃れる為、町の誰かが仲間の魔女であるとマーナが虚偽の証言をする可能性に彼らは恐怖していたのだ。
「ふーん。大変だな」
そんな町の者達の懸念を感じ取ると、彼は半ば他人事のようにそう吐き捨てた。上流階級とは言わないが、それでも彼らに比べれば随分と高い地位にいる自分には関係がないと高を括っていたからだ。
が、ある日、それが誤りで、甘い考えだと彼は思い知らされる。
いつものように読み書きを教え終えた帰り、彼は突然捕まってしまったのだ。教会の依頼で動いている警察官だと彼らは名乗った。そのまま彼は町の教会に連行された。
“チッ! あのマーナとかいう女め! 私を道連れにするつもりだな”
マーナは拷問で仲間の魔女を自白するように言われ、余所者である自分を犠牲にと選んだのかもしれない。
ただその時点では、彼はそれほど心配はしていなかった。身分を明かせば、それで許されるものだとばかり思っていたのだ。
尋問の為にか、彼は暗い部屋に通された。椅子に座らされ、手が縛られる。手は椅子に結ばれていて立ち上がる事ができない。目が慣れて来ると、部屋の中に何者かがいるのが分かった。
「初めまして。僕は異端審問官をやっているオリバー・セルフリッジといいます」
そうその何者かは名乗った。
「実は、先日魔女の容疑で捕えらたマーナという女性が、あなたを魔女の仲間だと告白しましてね。それで失礼ながらお招きさせていただいたのです。
――もっとも、彼女が魔女であるという確証は得られてはいないのですがね。今のところ、彼女自身の証言以外に証拠はありません。自白が信頼できる証拠と言えるかどうかは議論になっていますしね。彼女を捕まえたのも、告発状が送られて来たからで、その告発状が信頼できるかどうかも分かりません。なにしろ匿名希望でしたし」
ガットは落ち着いた口調でそれに返した。理性的に、できる限り動揺せずに応えるのが肝要だ。こちらの自信たっぷりの態度によって、相手は“自分の方が間違っているのかも”と疑うものだからだ。
「そのマーナという女については、私も多少存じております。隣町では黒魔術師であると知られているので、善良な人物が彼女の罪を告発したのでしょう。罪を自白させるという点において、拷問は有効です。恐らく、その自白は正しい。
が、私が魔女だというのは偽証です。敬虔なキリスト教徒である私を貶める為に嘘を言ったのです。
私は医者をしておりまして、訳あってこんな田舎町で暮らしてはいますが、元は都心に住んでおりました。調べてもらえれば分かります」
これで相手の態度は急変するはずだ。たじろぐかもしれない。彼はそう予想していた。が、セルフリッジという男は少しも動揺する様子を見せず、
「ええ、その点については既に調査済みです」
と、告げたのだった。
――調査済み?
ガット・リーエンは訝しく思う。静かに男は続ける。
「あなたはかつては医業を生業にしていましたね。ただ、医療ミスを責められ、この町に引っ越して来ている」
それを聞いて彼は慌てた。
「それは調査内容に誤りがあります。私は医療ミスなど犯してはいません。確かに依頼主との間に多少は齟齬があったが、私自身に落ち度はまったくありませんでした」
そんな彼に対し、男は不気味なほどに穏やかな口調で返した。
「そうですか。そうですか。それは運が悪かったですね。
……ただ、まぁ、そんな事はあなたの魔女疑惑にはあまり関係がありませんが」
「関係がない?」
それを聞いてガットは憤慨した。
「“関係がない”とはどういった了見ですか? 社会的に信頼のおける立場にいるこの私が、悪魔と契約している魔女であるはずなどないではないですか?」
ガットが言い終えると暗い部屋の中はシンと静かになった。大きな声の反響が急になくなった所為で、余計にその沈黙は印象的に感じられた。しばらくの間。オリバー・セルフリッジは暗闇の中でゆっくりと首を左右に振った。
それはまるで暗闇をかき回しているかのような仕草だった。
「この世の中に疫病のように広がる魔女の感染は、身分が高くとも関係なく進んでしまうものなのですよ」
容赦なくそう言う。
「1590年にエディンバラ近郊のノース・ベリックで起こった魔女裁判では、拷問によって次々に魔女が判明していき、学校教師や船長が捕まり、裁判官の娘、市参事会員の妻といった人々までが罪状認否を問われました。そして、挙句の果てには、国王のいとこのボスウェル伯フランシスが魔女の首謀者として名指しを受けすらしたのです。
地位が高いからといって、魔女ではないという証拠には一切なりません」
苛立たしげにガットは言う。
「魔女であるという証拠にもならんだろうが!」
オリバー・セルフリッジはまったく動じない。
「それはもちろんその通りです」
暗闇で分からなかったが、恐らくは笑っている。
「だからこそ、これからそれを判断するのですよ。もちろん、最終的には裁判にかけられる事になりますが、その前に取り調べです」
「取り調べ? 断っておくが、私は医者だ。身体のどこかにある痣などが悪魔との契約の証などというのは誤りであると知っているぞ?
そんな痣など誰にでもある。あなたにだってある。私に調べさせてもらえば、直ぐに見つけてやろう!」
穏やかな声のままでオリバー・セルフリッジは応えた。
「もちろん。そのような事を魔女の証などにするはずがありません」
その言葉にガットは安心をする。それならば無理矢理に自分が魔女だとでっち上げられる心配はないだろう。
が、それから男はこう続けるのだった。
「僕の取り調べ方法はただ一つ。拷問です」
彼は目を見開く。
「――は? 拷問?」
「あなたも先ほど、罪を自白させる点において拷問は有効だと仰られていたではありませんか」
暗闇の中で、楽しそうに笑う男の顔が見えた気がした。
「いや、それは……」
言いよどむ。
「あなたが無罪であったのなら、耐え抜けるはずです。敬虔なキリスト教徒であるあなたならば、見事成し遂げられると僕は信じています」
男は言うと、隣の部屋へと続くドアを指し示した。
「あちらの部屋に拷問機具を用意してあります。さぁ、行こうではありませんか! あなたが誠実な人間である事を拷問に耐え切る事によって証明してください!」
キィッ とドアが開く音が聞こえた。恐怖が襲う。
“冗談じゃない! 拷問など受けたら殺されてしまう!”
瞬間、彼はほぼ条件反射的に口を開いていた。
「違う! あの女が魔女であると告発状を送ったのはこの私だ! 医者の仕事を奪われたのが悔しくて、魔女として訴えたのだ!
だからあの女の証言はまったくのデタラメだ! あの女は魔女ではないし、私も魔女の仲間ではない!」
しばらくの沈黙の間の後、
「やはり、そうでしたか」
と、異端審問官オリバー・セルフリッジは言った。同時に、部屋の窓を開けたようだ。光が入る。
「隣の部屋をご覧ください」
見ると、隣の部屋の出入り口にの近くには魔女の嫌疑をかけられ、拷問を受けているはずの白魔術師のマーナの姿があった。
黙って彼を見つめている。
魔女狩りが盛んに行われたのは、一般的に思われているような暗黒の中世と呼ばれた時代ではなく、中世末期から近世にかけてだと言われています。
つまり、ルネサンス以前のキリスト教支配下における異端蔑視に主な原因の根本を求めるのは誤りであるのかもしれないのですね。
そして魔女狩りが盛んに行わていた時代にあっても、決して全ての魔女狩りが肯定されていた訳ではなく、「死刑ではなく、追放が妥当」といった意見や、そもそも魔女の実在性に疑問を投げかける意見もあったらしいです。
だからこそ、キリスト教会が冷静になるように呼びかけ、魔女狩りを抑制しようとする動きもあったし、作中でも述べたように拷問に反対する人々もいたそうです。そして、メディア等ではあまり取り上げられませんが、魔女裁判が行われても無罪になるケースも実は少なくなかったのだそうです。
また魔術が寛容に受け取れられていた場合もあったという証拠もあります。ジョン・ディーという魔術師は、占星術の観点から女王の戴冠として適している日取りの相談を受けているそうですし、神聖ローマ皇帝ルドルフの相談相手にもなっているらしいです。国王だけでなく、時には教皇にもそのような姿勢が見られました。魔術に対する見解で有罪判決を受けた者に赦免を与えた事もあったし、なんと教皇自身が魔術を行った事すらもあるのだそうです。
あの万有引力で有名なアイザック・ニュートンが錬金術の研究を熱心に行っていたことから「最後の魔術師」と経済学者のケインズによって形容されたという有名な話がありますが、その時代の常識では決してそれは異常な行為ではありませんでした。
そもそも、万有引力の法則ですら、発表当時は超自然科学的なものだと思われていたらしいのですがね。
つまり、それは“魔術の類”が、当時のヨーロッパにおいて必ずしも完全否定されていた訳ではない事を意味しています。
ところで、実は魔女狩りには娯楽としての一側面もあったのだそうです。その為、戦争が起こると、社会に余裕がなくなるからか、魔女狩りは行われなくなったのだとか。
当時は処刑が娯楽の一種で、公開処刑の際には売店なども出て、ちょっとしたイベントだったようなのですが、或いは魔女狩りはそれに近い感覚だったのかもしれません。
もちろん、善良な人達が、そのような行いを肯定的に受け止めるはずがありません。魔女狩りに反対していた人達が一定数あったという話には説得力があるのではないでしょうか?
「――つまり、あなたは魔女狩りをする為ではなく、むしろ抑える為に異端審問官に任命されたというのですか?」
オリバー・セルフリッジという異端審問官の説明を聞き終えたガット・リーエンは、目を白黒させていた。
「はい」と笑顔でそれにオリバー・セルフリッジは返す。
「実は教会内部には、そもそも魔女の存在自体を疑っている人もいるのですよ。
女神信仰をご存知ですか?
ディアナ、ヘロディアス、ホルダ、ペルクタといった女神を信仰する文化が様々な地域にありました。それら信仰では、これら女神に夜間騎行する女性がいると信じられていたのですが、これが魔女の原型の一つではないかと言われています。
この信仰はキリスト教から見れば異教徒で、だから怪しく思われていた向きもありますが、必ずしも反キリスト的なものではなかったのではないかと少なくとも僕は考えています。何故なら、地域の宗教とキリスト教が結びつき、混ざり合った信仰を、純粋なキリスト教だと信じてしまっている人達もいるからです。
魔女として訴えられる人間の中には、自分達はキリスト教に適った悪魔追いの儀式を行っているつもりだったというようなケースもあるのですよ。つまり、単なる知識不足ですね。もちろん、これら人々に罪があるとは思えないし、魔女であるなどというのはもっての外です」
そのいかにも人の良さそうな異端審問官の説明に「うーむ」とガットは唸った。自分の知っている魔女のイメージとは著しくかけ離れていたからだ。
オリバー・セルフリッジは緩やかに笑っていて、その笑顔からは不気味な気配など微塵も感じ取れなかった。彼を安心させる為に笑っているように思える。或いは、部屋を暗くしていたのは、自分に敵意がないことを悟られないようにする為であったのかもしれない。
「誤解で魔女として捕まってしまうだけならまだマシです。これに拷問による自白の強要が加わると、事態は最悪の展開を迎える可能性すらもあるのです。
言うまでもないでしょうが、拷問による自白の強要によって、魔女として捕まってしまった人が苦しみから逃れる為に“仲間がいる”と言えば、犠牲者が増えてしまうのですよ。そして、同じ様にその次の犠牲者も架空の仲間を拷問によって自白させられ、次々と犠牲者が増えていく……
つまり、拷問によって“魔女の感染”が起こってしまうのです。その感染が広まっていけば、犠牲者は数百人の規模にまで達してしまう事もあるのです。
“予防しなくてはならない”と、考えるのも当然でしょう?」
説明を終えると、彼は隣の部屋から入って来ていたマーナを見つめた。
「あなたとしては、このマーナという女性を魔女に仕立て上げるだけのつもりだったのでしょうが、あなたが行った行為はそのような危険性を孕むものだったのですよ」
それを聞いて、ガットは項垂れる。マーナに対しての後ろめたい気持ちもあったし、自分の無知を恥じる気持ちもあった。それからふと思い付いてこう尋ねる。
「……しかし、どうしてあの告発状を送ったのが私だと分かったのですか?」
隣町の者達にもマーナは黒魔術師だと思われているのだ。自分だと特定はできないはずだと彼は疑問に感じていたのである。
「それは簡単です。あの告発の手紙の中に、“悪魔と契約した魔女”といったような記述があったからです」
ガットは不思議そうな顔を見せる。
「それが何か?」
「はい。そもそもそこからあなたは勘違いしていたようですが“悪魔と契約して魔術を行使する魔女”という観念は民衆の間にはそれほど浸透してはいないのですよ」
その言葉に彼は目を大きく見開く。
「は?」
しかし、それから直ぐに思い出した。自分が「精霊の力に頼ることなど、こんな田舎の魔術師にできるはずがありません。きっとマーナとかいうその魔術師は、悪魔の力に頼っているに違いありませんぞ」と町の者に言った時、奇妙な顔をされたのだ。町の者が“悪魔と契約する事で魔女となる”という話を知らなかったのなら合点がいく。
「あなたはキリスト教の教育を受けていたから“悪魔との契約によって魔女となる”という観念を当たり前だと思ってしまっていたのでしょうね。
こういう点を考えても、マーナさんが魔女であるはずがないと簡単に分かると思います。何しろ、“魔女”という概念自体に根本的に齟齬があるのですから」
そう語り終えると、オリバー・セルフリッジはゆっくりとマーナに視線を移して尋ねた。
「さて。どうしますか? あなたに対するの虚偽の告発への罪を問うこともできますが」
すると、彼女は憐れみを伴った視線をガットに送りつつ答える。
「本来なら罪を問いたいところですが、やめておきます。この方にもご家族がおられるのでしょう? ご家族には罪はありません。それに、恨みを買い、また魔女という噂を流されてしまうのも嫌です」
それを聞くと、ガットは「すまない。ありがとう」と言って目に涙を浮かべた。そんな彼に向けて彼女は言う。
「その代わり、私が魔女などではないと誤解を解く事には協力をしてください。隣町の人達も説得して欲しいです」
それに彼は何度も頷き、「分かった。約束しよう」とそう言った。それを受け、オリバー・セルフリッジは安心したような表情を浮かべると窓の外を見た。
「良かった。これで一件落着ですね」
窓の外はとてもよく晴れていて、その小さな田舎町を明るく照らしていた。
少し考えれば、“拷問”という取り調べ手段に問題がある事くらい簡単に分かるのではないかと思います。死の危険すら伴うあまりに惨い拷問であるのなら尚更でしょう。作中でも述べましたが、実際、拷問が認められていた当時もその有効性を疑問視する声はあったのです。当たり前ですが、苦痛から逃れる為に偽証をしてしまうかもしれない。
ですが、それでも“拷問”は当時の社会において有効な手段として認められていました。そして、結果として“魔女の感染”という現象を引き起こし、魔女恐慌の一因になってしまったのです。
当時の人達が特別愚かだったと決めつける事はできないでしょう。昨今でも、まるで拷問のような警察の取り調べの被害に遭ったという話は聞きます。一度そういった取り調べを録音した内容がニュース番組で流れた事があったのですが、「罪がない事を証明しろ」という詐欺に等しい恫喝をする声が入っていました。
“ない事の証明”は非常に困難でできないのが普通です。だからできなくてもそれは当り前なのです。そして、“ない事”が証明できなくとも“ある”ではありません。もしそれで“ある”となるのなら、幽霊も宇宙人も存在する事になります。
ですから、この尋問の内容は極めて不適切なのです。
実は“ない事の証明”を求めるのは詐欺の手段の一つなのです。ネット上でも、人が騙されているのを面白がってか、そのような論を展開する人が時折いるので気を付けてください。
この小説では、何も“拷問”だけが問題だと訴えている訳でありません。明らかに間違っていて、しかも社会に悪影響を与えるような事でも、人間は正しいとしてしまう生き物である事を我々は肝に銘じるべきだと訴えているのです。
2022年8月に大いに話題になった旧統一教会の事件でも、多額のお金を稼げるような頭の良い人が、人心コントロールの術中に嵌り、とんでもない内容を信じ込ませられてしまうケースが多くありました。
安全性など確かめらるはずがないのに、福島原発事故前までは、多くの人が原発は安全なのだと信じ込んでいました。
人間には“宗教を信じる本能がある”と主張する学者もいます。社会の多くの人が信じていると、同調してそれを信じてしまうという特性は、或いは人間の生物的な性質によるものなのかもしれません。
“魔女狩り”という現象は、人間という生き物の性質を考える意味で非常に重要です。我々は、我々自身について、まだまだ多くを学ばなければなりません。そうでなくては、人間社会に数多くある問題を乗り越えることなど決してできないでしょうから。
もしかしたら、それこそが、我々の中の悪魔を退治する、本当の意味での魔女狩りなのかもしれません。
参考文献:魔女狩り ジェフリ・スカール、ジェン・カロウ 岩波書店