湖竜の子と松茸焼き(後編)
少年が森に一人で入るのはいつものことであった。
彼はその集落の生まれではない。
物心ついた時には、ここより大分遠くにある、上質な石材の取れる谷を中心に構成された、大きな町で暮らしていた。
そこが、竜と人の争いの主戦場の一つとなり、追われるようにして母方の実家があったこの辺りまで避難してきた。
それから、もう何年も経ち、少年もこの町での生活、仕事を覚えているところであった。
けれど、心の奥底では、ここは自分の郷里ではないという思いが、ある。
それはあったはずなのだ。決して彼の足ではそこまで行けないけれど、思い出の中の、石を切り出す音、活気ある石工達の声、あの集落の郷土料理の刺激の強い酸味臭。太鼓の音。それは、今は夢幻をみていたかのように、どこにもない。
大きな水の流れ、それに連なる恵み。違う土の色。
そんな違和感を、隠しきれず、彼はどこか集落の他の子どもたちから浮いていた。
いつも、一人で森の中に入り、山草、茸の類を収穫していた。
その集落は、隣り合う二つの地方を行き来する旅人が通る時に、必ず通過しなければならない地理状況から、一宿一飯を求める者も多い。
そんな人々への食事を手配することで、土地も財産もない彼の家族は生業を立てていた。
忙しくしていると、色んなことを忘れられる。
自分が考えても仕方がないものを。どういう答えを出せばいいのかわからないことを忘れられる。
さて、彼の予定では、そろそろ特産品とでも言える、非常に香りのよい茸が、ある特殊な針葉樹の根元に育成する頃だ。
これは他の山菜採りを務める大人や子供にも教えていない。
彼の秘中の場所にある。
それを採って、高値で売ったり、高級品として夕食に出すことで得られるいつもより多めの臨時収入は、彼の父母や妹の生活に非常に助かるのだ。
たまにその場所を突き止めてやろうとガキ大将がくっついてくることもあるが、途中でへばってしまい、仕方ないので介抱して水をくんできてやることもあった。
誰かを助けてやることは、好きだった。
別に、感謝されたいわけではない。
善行をしている時の集中は、それ以外の都合が悪いことを全て忘れていられる。
そんなことを口走った時、この集落で出会った、唯一自分の話を聞いてくれる聡明な女の子は「嘘つき」と非難した。
それがどういう意味か、わからないし、そういうことも忘れたくて、仕事に没頭していた。
だからか、いつもなら、近くに野生の獣が現れないか、気をつけながら歩いているはずなのに。
それが、叢から出てくるまで、まったく気付かなかった。
獣か鳥かわからない、甲高い、けれど弱弱しい。
人間の子供よりも小さい、傷ついた、竜の雛を見た時。
かつて、自分達を追い立てた竜を思い出した。
森に入り、犬のように這い蹲り、地面のにおいを嗅ぐ妻に声をかける。
「南空、どうだ? わかりそうか?」
外套を羽織っただけで、手袋も靴も履かないで地面に四つん這いになっている娘は絵面として非常に危なかったが、妻が着替えを探すよりも何よりもその竜の雛を見つけることを主張したため、そのまま飛び出してきたのである。
「わかるぞ、ギアリャンデと同じにおいがする。こっちじゃ」
すると飛び上がり、森の中へと駆け出していく。
慌てて追いかける剣士の方が靴も履いており、長躯である。
なのに、どんどん娘は先に進み、なんとか引き離されないようについていくので精一杯である。
そもそも、傾斜もひどく、きっと大人でさえ途中でへばってしまうような道のりで、途中で何度水を求めたくなったかわからない。
それほどの時間も立たずに、娘が止まったことに安堵し、追い付いて、水筒に口をつけた。
おそらく、その場所は集落からそれほど離れていないが、そこだとわからなければ気づかないような入り組んだ、わかりにくい場所である。
娘の人間離れした鼻がなければわからなかっただろう。
剣士は、娘に声をかけようとした。
立ち尽くす、娘に声をかけようとして、彼女が何かを注視しているのに気づいた。
近づき、その視線を追う。
そこに、目当てのものはいた。
傷を負った、小さな竜の雛。
そして、それを介抱し、傷の手当てをしてやる、小さな男の子。
「これは……、君は、集落の子か?」
少年は、その一組の異邦人を見て、怯えていた。そして、自分の腕の中にいる竜の子を慌てて背中に隠した。
嗚呼、と思いながら、剣士は優しく語りかける。
「大丈夫だ、俺は君の家族から頼まれて君を探しに来ただけだ」
「殺さないで」
少年は、ただそう言った。
それが何を、という意味なのかは、シチュエーションがはっきり物語っている。
「わかっている。俺達は、その、それを親元に返したいと思っている」
近づいた。そして、しゃがみ、目線を合わせる。
「危害を加えるつもりはないよ」
できるだけ、優しく言ってみたが、それでも少年の警戒はとれない。
そのやりとりを、渋い顔でみていた娘が、やっと声を出す。
「旦那様、貴様は見るからに冒険者であろう。一般人から見たら竜を狩る者じゃ。信用しろと言うのが無理じゃろ」
それを言われて、言葉に詰まる剣士であったが、しかし他にどうすればいいのかわからない。
しかし、きっと頼れということだろうと思い、妻が少年に何かうまいことを言ってくれるのを期待する。
しかし、何か思い詰めた娘は、少年を見下ろし、その背に隠された異物を見据える。
「小僧、ぬしがそれの手当てをしてやったのか」
その声は、何故か返事をしなければならない、という気分にさせた。
おそるおそる少年は頷いた。
「そ、そうだよ。山に入るから、薬は、持って歩くことにしているから」
「それは、何故怪我を負っていた?」
「わからない。でも、すごく濡れていたから、河に流されていたんじゃないかって。ここのすぐ上に、両岸が岩で上がれない流れが急になってるところがあるから、そこでぶつけまわったのかも」
「……何を食わせた?」
「え?」
「そのチビ助から、人の匂いがしすぎとる。何を食わせたのだ」
「……僕の昼飯を、半分こして。何を食べるかわからなかったけれど、見せたらがっついたから」
「そうか……」
そこまで聞いて、少し哀し気に訊いた。
「小僧、なんで見捨てなかった。竜じゃぞ? 犬猫のように懐くとでも思ったか? 危険とは思わなんだのか?」
何故、そんなことを訊かれるのかわからないと言った顔をしていた少年が、答えに詰まるのを見て
「いい、後は我がなんとかする。ほれ、おぬしはそれを置いてさっさと森から出ていくがいいぞ」
「おい、どうしたんだお前。そんな言い方したら」
夫の言葉にも耳を貸さずに、娘は少年にずかずかと近づくと、彼を押しのけ、背中に隠していた状況をまったく飲み込めずにいる竜をむんずと掴んだ。
少年は驚く。
「や、やめてひどいことしないで」
「触るでない。これ以上、竜を汚すな」
そのいい草がわからない。
「お前、どうしたんだ」
相棒の乱暴な態度への違和感から、なによりも困惑してしまっている剣士が娘を問い詰めると、娘も何か焦る様にその場を離れようとする。
三者三様の混乱。
人間の子供から得た愛情で、まどろみの中にいた竜が、その場の不穏を感じ取ったのだろうか。
それはぐずるように、何かに呼びかけるように。
空に向かって、嘶いた。
その、甲高い声が森に響いて。
反響は、青い空に抜けていく。
あまりの声量に、耳を塞いだ剣士が、聴覚が戻ってくるのを確かめて、妻に訊いた。
「馬鹿でかい声だな」
「まあ、親を呼ぶ雛の声じゃからな」
「……なあ、それって湖竜のことだよな」
「そうじゃ」
「親に助けを求める悲鳴ってやつ?」
「そうじゃ」
「いや、そうか」
「何か気になることがあるなら全部言っておけ」
「お前が乱暴にひったくるからその雛怯えたんじゃないか?」
「……言うな」
「なんでそんなに慌てたんだ?」
「この雛は、人間に抱きかかえられ、人間の薬を体に塗られ、人間の手ずから人間の食事を口にしてしまった」
「……お前だってそうだろ」
「これは湖竜ギアリャンデの子じゃぞ。バリバリの教条主義の石頭の。こんな、生まれたばかりの雛が、人間のにおいをここまで染みつかせてしまったら。あやつは、きっとこの雛を殺しにくる」
「……は?」
どういう意味か? と聞く暇もなかった。
あの嘶きは、どうやら目的地に響いたらしい。
そして、それは即応したのだろう。
天を揺るがすような、竜の叫びが、きっと、大水系全てを震わせた。
「やばいの。奴が飛んでくるぞ」
「……。どうする? 俺は、戦えばいいのか?」
怒りを帯びた竜が、飛来するということ。
それは、何年も前に、何度もあったこと。
でも、ずっと昔に、おらわせたはずのこと。
それを、もう一度繰り返すか。
剣士が、無意識に剣の鞘に手を伸ばす。
勝てるだろうか? と疑問が一瞬よぎる。
いや、その前に。
俺は、今の俺は竜と戦えるのか? 今更、戦うという選択肢を、選べるのか?
その迷いは、心の揺れは、既に娘に届いていた。
「仕方ないのお、ほれ、旦那様」
竜の雛を、押し付けるように渡された。
「どうするんだ」
「どうするもこうするも、もう十も数えぬうちにやつはここまでくるわ。子の悲鳴なんぞ聞いてブチ切れとるだろうからのお。ちょっと頭冷やさせてくるだけじゃ」
「俺も」
「なんじゃ、俺も行って、一緒にぶっ殺してくれるんか?」
「……そうじゃ、そうじゃないんだ」
「わかっておる。すまん、今のはいい方が悪かった。まあ、あれじゃ」
娘は、外套を脱ぎ去った。
裸身を晒し、風もないのに灰色の髪が大気にたなびく。
金色と銀色の瞳は、彼を見ない。
「竜の揉め事に、貴様を関わらせたくないんじゃよ」
飛んだ。
集落の人々は見た。
世界を震わせるような、地震のような大きな吼え声がしたと思ったら、ずっと果てにある大きな湖の方角の空に、その影が現れるのを。
それは、ずっと昔から、伝説の頃から存在する影。
人間を、畏れさせ、恐怖させ、追い立て、そして追い払ったはずの影。
翼と、角と、爪と、炎を纏う怪物。
湖面をそのまま持ち上げたような青き鱗が、美しく陽光を反射させる。
そして。
この世全てを糾弾するような、怒りの声。
『どこだ、我が子をどこにやった!』
それが、自分たちに向けられていると、距離を隔てても人々は理解し、一瞬で恐慌にかられる。
悲鳴をあげて逃げ出すよりも速く、竜が飛来する。
終わる。
全てが終わる。
森の上まで移動した竜の怒りが炎となって集落に向かって吐き出されるより前に。
『させるか阿呆がっ』
集落の人々は見た。
まったく、別の、しゃがれたような、けれど、人の美しさを感じる器官を直接打つ、声。
灰色の鱗をした竜が、森の中から飛び上がり、青い竜に体当たりをしたのだった。
そのまま、二体の竜はもみ合いながら空中へと跳ねる。
『貴様、まだおったのか。何故邪魔をする……。まさか、貴様か! 貴様が我が子を人間に引き渡しおったか!』
『頭を冷やさんか大馬鹿者。んなことするか。第一、我がお前の巣を訪ねたのは子がどっか行ってからじゃろがい。なんならもう見つけて保護しておるわ』
『……っ?!』
『じゃが、よく聞け。落ち着いてよく聞け。生まれたばかりのお前の雛は、きっと勝手に巣から離れて、河にでも流されたんじゃろうの。けがをして、衰弱して、死にかけておった。だからの、たまたま、見つけた人間の子供に助けられた』
『……そうか』
『本当に、ただの善意じゃ。ただ、弱ったものがおったから、自分にできることをした。それだけの話じゃ。竜も人も関係のない、それだけの、この天地の狭間にただあっただけの善じゃ。だからの』
『そうか、ならば。あの子は私の手で、殺さねばなるまい』
『だから、マジでわけがわからんのじゃその理屈』
青い竜が、灰色の竜を投げ飛ばし、おもむろに火を吐く。
その炎の魔法は灰色の竜を包み、苦しめる。
『ここは俺の領土だ。己の領土を離れたお前のそのちっぽけな魔力で私の炎に勝てると思うな』
『しゃらくせえわ! 我の夫婦愛から得た究極魔力、舐めるでないわ!』
灰色の竜が叫ぶと、炎は掻き消えた。
『……領土を捨て人間と旅をしているというのは、本当のことであったか』
『悪いか』
『いや、もはやお前は終わった竜だ。何をしようと、私の看過するところではない』
『はんっ』
『だから、私のすることにもかまうな。我が子は、あの松林の中にいるのだな』
『おい、やめろ。我の話を聞け』
『不毛だ』
『不毛でなぞあるものか』
急下降しようとする青竜の進行方向に身を挺して止めに入り、灰色竜は空で踏ん張る。
『やめろ、無意味だ』
『無意味なわけあるか。貴様、なんで我が子が人間に助けられただけでそこまで自分の子ではなくす? 古い竜は何故そんなことをするんじゃ!』
『……』
『答えんかい! 竜は、そんな命をつまらん尺度で弄ぶ種族なのか!』
『……幼い内から、人のにおいに、人の心に触れてしまった竜は、いつか人間のために死ぬことになる』
『……は?』
『我々は、他者の心を食んで生きる。複雑で、美しく、悪しき心を持つ人間に絆されてしまった竜は、いつか人間のために命をかけて、そして人間に陥れられて死ぬ。古来より、竜はそういう生き物なのだ。いくら畏れられても、恐れられても、どんなに力の彼我の差があろうとも、我らは人に関わってはならぬのだ。古来よりの領土を、守るため。自然の調和の化身としての役目を果たすため。なのに、今や人は神より殺竜刻印を与えられて、竜を己の力で殺せる存在となったのだ。竜は、もう簡単に死ぬ。』
『そんな、そんなこと』
『今のお前がそうであろう。ちっぽけな人間一人のために、全てを差し出した。お前も、いつか、その心に殉じて死を選ぶ』
『そんなことない! 我は、あれと共に生きるのだ。生きてもいいと、決めたのだ』
『私には、竜の在り方を全うさせる責務がある。竜が死ねば、自然はそれだけ弱くなる。生きねばならぬ。そのためには、人の干渉は、何が有ろうと避けるし、我が血脈は、代々に渡って、人の心とは触れん!』
『そんなこと、そんなこと! そんなことのために、我が子を手にかけるんか! 恥ずかしくないんか!』
『恥辱でしかないわあっ!』
空中でもみ合う竜の一体。
灰色の竜が大地に叩きつけられた。
そして、己に助けを求める悲鳴をあげた、誰かがいる森の中を見る。
彼の可視領域は、確かにそこにいることを知る。
そして、そこにおのが子以外の気配も感じ取っている。
一つは、人間の子供らしき息吹。きっと、竜などというものを、恐怖でしかないものに手を差し伸べた優しき子
そして、一つは、きっと。かつてあの戦いに関わらなかった自分が知ることのなかった気配。
構わない。
竜は全てを断ち切るように、深く息を吸い、炎の息を吹き付けた。全ては灰となるはずだった。
なのに、炎は森を焼くことはない。
まるで、炎は断ち切られたように、霧散する。
そのような現象を竜は知らない。
あれと戦った経験のない竜は知らない。
近づくよりも前に、森の中からそれは現れた。
人間の中では、背の高い。
剣を佩いた、堂々たる姿。
竜を前にして、怯えるでも虚勢を張るでもなく、対等にそこに立つ姿。
英雄のそれでもって、そこに在る。
それが、天より飛来した聖剣の気配。
それの所持者となった者の気配。
『噂には聞いていた。あの痴れ者が、よりによって竜殺しと夫婦となり、旅をしていると。何を血迷ったかと嗤ったが、今ならわかる気もする』
剣士を、見つめる。
『あれは、命数を使い切った竜に引導を渡すために、竜を殺せるものを連れまわしておるのだな。お前が私を、殺す者か』
「全然ちげーよ」
呆れるような声で。
「全然違うんだよ。あいつは、そんな、他人に答えを押し付けるために旅なんかしていねえ」
剣が抜かれる。
刀身に、不規則な紋様が施された、不思議な剣。
竜の鱗を、軽々と切り裂く。竜という存在を否定するために存在する剣。
それを掲げ、剣士は竜の嘆きを否定する。
「人の子が、竜の子を助けた。ただ、慈悲の心を以って。因縁が、それを許せぬと言う。ならば、そうじゃないと言うのが、俺の旅だ。多分、できることなんてそうそうないさ。それでも、やること、やれること全部してから、祈ることにするよ」
『その芝居口上、どこで習った。もはや竜と騎士の物語なぞこの天地にありはせぬわ。それとも、贖罪とでも言うのか。さんざん殺してきた同胞達への』
「罪滅ぼし、なんて言える身分じゃないんだろうけどな。それでもこんなに急に腹を決めなきゃならなくなったなら、腹を括るしかなくなった」
『ふん……ならばどうする。私を殺すか? そうしてこの不条理を断ち切るか』
「芝居がかってんのはあんたの方だろ。そうじゃない。俺の話を聞いて欲しい。話し合う余地くらいあんだろ」
『ない』
「ある。あんた後ろ見てみたか?」
『何を』
青い竜は、そこで目の前の剣士に集中しすぎていたことに気付く。
いつの間にか飛び上がっていた灰色の竜に、再度体当たり。
地面に、抑えつけられる。
「ほらな。こっちは二人がかりだぜ。しかも、子供まで人質だ。こうなりゃ俺らの話、聞くしかないんじゃねえか? なあに、とって食おうって話じゃないさ」
ふてぶてしく笑って見せた剣士を見て
『我が夫ながら、悪趣味じゃのお』
灰色の竜は、呆れた声を出した。
青い竜は、少年に訊いた。
『竜が、怖くないのか』
少年は答えた。
「怖い。僕の故郷を焼いたのは、竜だから」
『なのに何故、我が子を助けたのか』
「わからないよ。そんなの、なんでかなんて」
善行だけが、少年の苦しみを忘れさせてくれる。そんな矛盾を上手に言葉にできないし。
その心を、感情を食してしまった青い竜に、それ以上の言葉なんて、付け加えようもなかった。
青い竜は、人の姿に戻ったかつての仲間に訊いた。
『旧友よ、私は一体どうすればよい。我が子でありながら、私はこの子を手にかけずにはおられんだろう』
「竜にとって物心ついた時からの生き方は変えられん、か……。いっそのことこの子に……いや、なんでもない」
人が竜を育てることは、できないだろう。
物心つく前に人の心の味を覚えてしまった竜の情緒は安定しない、そんな竜を湖にはおいておけない。
いっそどっかの支流にでも隠れ家を作ろうかという話も出ていたが、いくらなんでも人間より小さい幼竜を一匹では暮らさせるわけにはいかない。
少年が「僕が世話をする」と、強い眼をして提案したが。
その目の輝きこそが、竜の恐れるものである。
湖の竜は、賛成しなかった。
そこで、剣士が言った。
「んまあ、あれか。それなりの分別がつくくらい大きくなるまで、信用できる誰かさんのところに預ければいいってことだろ?」
「となるとのお、やはり、今の御時世で、信用のおける竜となると大紅蓮公をおいて他になし、という訳じゃよ」
『意味がわからん』
遠い遠い、岩山の中腹にある、暗い昏い、闇の洞窟の奥。
赤い竜が寝そべる前に、小さい竜は寄こされた。
『何故、俺が湖竜の子の面倒なぞ見ねばならん』
「貴様、他者の面倒みるの好きじゃろ」
『得意なだけだ。好んではない。第一、つまらん意地などすてて奴が自分で育てればいいだけのことだろう。自分の子だろ』
「奴とて、己の在り方を見詰め直す時間も必要じゃろ。それにおそらくこの世に残る最後の大竜域を守るとなれば、色々なこともある。頑なに一緒におるだけが親子の形ではないと思うんじゃ」
『それっぽいことを言うな。俺もどちらかというと、既存の竜の在り方に疑問を持っていたクチだ』
「我がなんか竜の世間体から浮いておったのも、お兄ちゃん面した誰かさんの影響、結構大きいと思うんじゃよなー」
憮然とした赤竜は、自分の眼のまえで屈託なく見上げてくる雛竜を見て、ため息を吐く。
『……全く。ここに置くのは、自分で餌が取れるくらいまでだぞ』
そして、ふてぶてしい妹分の横で、図々しい義弟のような存在に眼を細める。
『せめてどちらかはブレーキ役になれ、夫婦そろって無茶苦茶をされたら、こっちはどうしようもないぞ』
大して悪いとも思ってなさそうな顔で、剣士は謝った。
赤い竜が、洞窟の入口で覗き込んでいる誰かに声をかける。
『リック、敷き詰めるような枝や葉を集めてきてくれ。さすがに湖竜の雛にこの山の気温は冷える』
「合点で」
「あれ、あの時のズッコケ三兄弟よな。なんぞ、あいつらを結局受け入れたのか」
『人里もそれなりに近いからな。人間の小間使いがいると、便利なんだよ』
「かー、竜の世も変わったのお」
『お前が言うな。人間と結婚するような竜なぞ、お前しかおらんわ』
「なはは」
『まあ、楽しくはやってるようで、何よりだよ』
「そりゃのお!」
娘が、剣士にかきついた。
「よくしてくれとるよ」
剣士が、頭をかいた。
「あ、そうそう。これ、湖竜からの手土産な。なんか、あっちの方で採れる珍しい茸らしくての。焼くと旨いらしいぞ」
『こ、これ松茸じゃないか。ううむ、焼き加減が難しいが、まあ俺にかかれば』
「我としては鍋で食いたいんじゃが」
『馬鹿、香りを楽しむんなら焼きに決まってるだろ』
「貴様、意外と俗じゃの」
「なあ南空、竜って茸喰うのか?」






