紫煙燻ぶらせる鎧竜の墓守(後編)
慌ただしい夫婦 (?) を助けた次の日。
取引のあるレストランに向こう一か月分の炭を届け終わり、帰ってくると、昼食の時間などとっくに過ぎている。
食事など取らなくたって死にはしないからか、たまに忘れてしまうこともあるが、己が何者であるかを忘れないために、必ず食べ物を口にいれることにしている。
しかし、今日はまだ帳面の整理が残っているので、それが終わってからゆっくり食べようと思い、籠を降ろすと手を雑に拭いて小屋に戻る。
壁の衣装かけに着ている難燃服をかけると、前掛けだけの姿になり、先代から譲り受けた、樫のがっしりとした椅子にどっかと座る。
帳面と木炭筆を取り出して、今日の収支と注文を記入し始めた。本当は全部頭の中に入っているが、記録として残すことそのものが大事なのだと知っている。いつか、ここに自分のように誰かが住み着いた時、それが役に立つ。あの爺がしていたように。
炭の需要が、高まっていた。
厳しい土地を耕すことは大変な作業であったが、一つの目的に動く時の人間の威力はすさまじく、いくらでも伐採された木材は蓄えられている。
そのまま薪ととして使った方が早いし、暖も取れやすいのだが、人々は炭を好んだ。
しかし、いくらなんでも使い過ぎだ。去年に比べて、6割近い増加。
商人の中には彼女の作る炭の品質に眼をつけて、流通させないか? と商談を持ち掛けられたこともあったが、それも断った。
いくらなんでも、皆元気になり過ぎだった。
木を伐り過ぎている。
そのことをどうやって開拓組頭や商工会に伝えるか、悩むところであった。
また、もう一つ。そろそろギルガ団も解散させねばならない。
暴走する若者をまとめ上げさせるために若党を組織させただけだ。もう、いっぱしの労働力として、働くことに生きがいを見つけさせてやるべきだろう。
しかし、あの熱意を実績に結び付けるにはまだまだ貫目の足りないギルガに、そこまでの差配ができるのか。
手助けを、してやるべきだろうか。
木炭を木切れに挟んだ昔ながらの木炭筆を空中でくるくるとまわしながら、明日から自分がしなければならないことに思いを馳せていると、突然鴉の鳴き声がした。
窓の外を見やると、西の空が赤い。
夕暮れ。
彼女が最初に思ったことは。
「ああ、昼飯を食べ損ねた」
そして
「でも、夕飯を2食分食べれば帳尻は合うだろう」
やはり、どこか彼女も抜けている。
まだまだ、人間らしさを学ばなければならなかった。
難燃服に袖を通して、小屋の外に出る。
まだ、陽は傾いた、といったところで夜までの猶予がある。
この時間が好きだった。
明るいけれど、どこか斜めの差し込む陽光が、物悲しささえ含んで世界を照らす。
火山からは、噴煙がゆっくりと、零れ出すように漏れている。
手前の小屋からは、炭の原料となる薪を乾かしている時にでる白い煙。
視界を反転させ、見下ろす町からは、夕食を作る各家庭からあふれる炊事の煙。
外に出したテーブルとイスに近づき、やはり勢いよく座る。
彼女は、椅子の座り方を五年前まで知らなかった。
唯一参考にしていたこの炭焼き小屋の前の主である老爺がそうやって座る粗い性格をしていたから。
人間はそうやって椅子に座るのだと、理解してしまっていた。
最近、ギルガでさえもうちょっと静かに座ることに気付き、もしかして自分は間違えているのだろうか? と疑問も持ち始めたが、最初に身に着いた癖は中々に抜けない。
ふと、視界をまた別のところに移す。
向こうの林の方でも、何か煙が上がっている。
開拓組の誰かが、夕食の準備をしているのだろう。
最近は森の奥深くまで切り開いている。帰るまでの時間も勿体ないので、泊りがけの班もあるという。
かつて、あの辺りは鎧竜の領土であった。
人間が踏み入ることも許されずそこに生える針葉樹木の下には、絶品の香りを放つ茸が生息していたものだ。
彼女は、食べたことはないが。
そして、人間達もそれに気づかずに伐採してしまった。
「教えてやるべき、だっただろうか」
益体もないことを口にして、自嘲の笑みを浮かべて、腰に下げた煙管入れから煙管と煙葉を取り出す。
管の先に葉を詰める。
この作業も、随分と手馴れてしまった。前は首を傾げながら詰め込み過ぎて火が付かず、しけった煙が出るだけだったが、今は眼を瞑っていても流れるように適量の葉を詰めて、そして、管の先に息を少し吹きかける。
煙草に火がついて、吸い口の方から煙を吸う。
何もしない時間が欲しかった。
何も考えない時間。
炭屋の真似事を始めてから、何かを考えないことはない。
それは炭作りのこと、町の人間のこと、炭売りの爺との会話、そして、以前の自分のこと。
ただ、こうして譲り受けた煙草を愉しむ時だけは、それだけを思う。
煙のことを思う時だけ、それで頭をいっぱいにした時だけ、すべてが靄の中に消えてくれる。
老爺は、それを見越してこれを譲ってくれたのだろうか。
けれど、靄はすぐに晴れる。
煙草が燃え尽きたのだ。
さて、夕飯を食べなければならない。けれど、今日はもう一服の時間が欲しくなった。
何故だろう。
そうか、きっと考えてしまうからだ。
あの二人のこと。昨日、手を貸したあの二人のことを。
きっと、あれは。
そして、丘を登る人影を見た。
いよいよ陽が傾いて、ようやく空が紅く火が点きだした頃。
赤光を浴びながら、その剣士はやってきた。
「まさか、本当に来てくれるとはな。夫婦そろって、律儀な性格だ」
丘を登り切り、庭先に並べた椅子の一つに深々と座る小女に、背の高い剣士は、まず一礼をした。
「訪問が遅くなり申し訳ない。先日は助けていただきありがとうございます。これは、町で買ったものですが、よろしければ」
剣士が渡してきたのは、町の産物である葡萄酒であった。
産地の者に産物を渡してどうするのかという思いもあるが、女は普段そういうものを飲まないし、そういった約款を全く知らないので、ありがたく頂戴することにした。座ったまま受け取り、銘柄を見る。それは女にとって、まあ、それなりに一番口に合うやつである。
「ありがたく頂戴いたします。なぜ、オレがこれを好むと?」
「ギルガ君に訊きました」
「さいでございますか」
意外と、図太いらしい。
「俺と妻は、今夜にもここを発ちます。その前に、お会いしておきたかった」
「細君はどちらに?」
「下で待っています。惚気と思われてしまうかもしれませんが、俺が他の若い女性と話をすると機嫌を悪くして、余計な横やりをいれてきますので、失礼ながら俺一人で、ご挨拶に伺いました」
「惚気ですね」
なんだか恥ずかしそうな顔をした剣士を見て、見た目よりも年若いのかと訝しむ。
しかし、随分と早い出発である。もしや、
「オレが早く出ていけといったからですか?」
「いえ、目的がなくなりましたので」
「目的、ですか」
「ええ、俺達は鎧竜ズィリーンに会うためにここまで来ました」
「……」
どこまで、本気なのだろう。どこまで、わかって言っているのだろう。
「妻にとって、幼馴染のヴァルシャモンを除けば、一番の理解者であったと。友人であったと。誰よりも思慮深く、人間を庇護し、竜域より人々を見守る心優しき竜であったと」
「……」
「人竜戦争が始まっても、決して戦いに賛同せず、人々との距離を保ち、静観していたと。小規模な噴火が起きて、あなたの魔法だと恐怖に駆られた人間が、その力を恐れて軍勢を送り込んでくるまで、じっとしていたと」
「……それ以上は、いいよ」
とても、優しい声色だった。
「……あなたのことを、妻に伝えるべきか迷いました」
「ああ、そうか。アレは私のことを完全に視界に捉えていなかったの。警邏に追われて逃げてそれどころではなかったよね。いや、まさかあの山のような図体のズィリーンが人化したらこんなちっぽけな女になるなんて、思わないか。でも、この真っ黒な腕と脚を見たらすぐにわかるよね。土と炭で誤魔化してるけれど、こんな黒鱗色の肌、人化に失敗した竜でないと出せないもんね」
「……」
「もしかして、私の口調が急に変わったから驚いてる? ふふ、普段はね、ここに住んでいたおじいさんの真似をしてるの。私がまだ竜の姿で暮らしていた時から、お友達だったのよ。他の人達が私を畏れて、守り神として遜っていた時も、ただまっすぐに私の相手をして、敬意を払ってくれていた。私が剣雄に斬られて、火山に落ちた時も、ただ一人助けにきてくれた。その時の火傷が原因で、おじいさんは」
「その時に、人化してこの小屋に身を隠すようになったのですね」
「ええ、傷がとても深くて、私と土地を繋ぐ縁にさえも切り込みをいれた。完全な人化に失敗したし、竜に戻ることもできなくなった。そんな私におじいさんはこの炭焼き小屋で生きることを提案してくれたの。おじいさんには、昔嫁ぎ先で亡くなった娘がいた。私がその人に成り代わって、ここで炭売りを継ぐことにしたの」
「ギルガ君からも、同じ話を聞かされました。ある日、嫁ぎ先から出戻ってきたらしいと」
「まったくあの子、そんなこと人にぺらぺら喋っちゃうなんて」
「いえ、妻が羽交い絞めにして無理やり吐かせたので、やはり妻は、火山の鎧竜はまだ生きていると、信じてるらしくて。でもギルガ君もあなたを姐御としか言わなかったので、妻はまだあなたの名を知りません。多分、気づいてないのだと思います」
「だったら、あなたが迷う必要はないのに。私が生きてるって教えてあげたら、あの子、風より早く駆け上ってくるわよ」
「……」
「でも、そんなことをしたら、正体を隠してひっそりと生きている私の正体がバレてしまうんじゃないかって心配している?」
「……」
「大丈夫よ、この山の竜がズィリーンという名前だと知っていて、まだ生きている人間は二人しかいないわ。あなたと、私の体を斬った剣雄だけ。私と竜を結びつけることはない。連れてきてあげて」
「ありがとうございます」
「もうすぐ、陽が暮れるわね。やっぱり今日は泊まっていって。大した食事も出せないけれど、ううん、ぜひお客様を招く時の食事を、教えて欲しいから」
「はい」
「あなたも、随分と変わった人ね、そんなに畏まらなくてもいいのに。死にかけの竜なんかに、そんなに」
「あなたは、尊敬に値する方です。まだ、自分にできる形を見つけて、人間を護ってくれている。俺達は、あなたを追い詰めただけなのに」
「もしかして……、そっか。あなたも最初は気づかなかったのね。そっか、だって私も気付かなかったもの」
剣士は、黙って剣を抜いて見せるしかない。
多くの竜の鎧を切り裂いてきた、剣雄の剣。
奇妙な紋様、殺竜刻印を刀身に刻んだ、聖剣を。
「あなたは、死んだのだと思っていました。大事な何かが切れる手応えがして、もう生きてはいけないだろうと思って……だから、あなたの名前を最初に耳にした時、全部わかって、どうしようか一日迷いました」
「私を斬った冒険者、あなただったのね。そっか、そんな事情があったら、アレに言うのもためらうか、ごめんね」
「あなたが謝ることなんて、何もないのに」
「アレも、あなたが竜殺しだとわかった上で受け入れたのだろうけれど、あなたの苦しみをちゃんとわかってあげられてるのかしら。昔から、こうと決めたら見境なくなるところあるから」
「あいつは、俺のことをすごく大事に思ってくれています。俺の全てを見届けてくれる覚悟で、一緒にいてくれるんです」
「あら、ここまできて惚気、やるわね」
「……」
「ちょ、真顔で黙りこくられたらちょっと困っちゃうから……。ほら、私の旧友を呼んできてあげて」
「はい」
顔をぬぐいながら踵を返す剣士に、最後に。
「ねえ、最後に。二人きりでいられる最後に、一つだけ訊かせて」
「なんでしょうか」
「あなた、竜と人のどっちの味方でいる気? この旅を続けるということは、これからあなた達は、人を憎む竜にも会うのよ。今も人を殺すことだけを生きる理由とした竜に出会った時、あなたはどうするの? 竜殺しであるあなたは、それを決めなければならない」
「……二人で決めます。俺達は、そうやって生きると決めたから」
そうして、背筋を伸ばして丘をおりる剣士。
それを見下ろしながら、女は煙管に煙草を詰め終える。
手馴れてしまったなと思いながら、筒先に息を吹き替える。竜の吐息は煙草に一瞬で点火し、流れるように吸い口を咥える。
煙を吸う。
吐く。
煙が、全てを隠してくれる。
嘘を吐くのにも、慣れてしまった。
「あんな発破をかけるような性分でもなかっただろう、オレは」
本性を隠す。
「竜は人なしでは生きられないんだよ。オレも、旧友も。オレが恨むとしたら、こんな世の中になっちまったことそのものさ。それでも、人と竜が共に歩む道はないものかと、探さずにはいられないんだ」
これから来るであろう、かつての友を想う。
「お前は、どんな生き方を選ぶと言うんだ。竜殺しなぞを伴侶として、何を幸せとするんだ。あの戦争で最も多くの人間を殺した邪竜よ」
待ちかねていたかのように、剣士の手を引っ張って、丘を駆けのぼる陰影が見える。
竜の可視領域で、それをはっきりと捉える。なんて、朗らかに。
陽が稜線に姿を隠し、反対側から月が昇る。
世界は、きっと今夜も繰り返す。