未完成婚
「ごめん……なんかうまくいかなくて……」
新婚旅行先のホテル、薄暗い部屋に僕の困惑した声が洩れた。
「大丈夫?……」
由衣に心配するように訊ねられ、僕はがっくりとうなだれた。
由衣と僕はお互い三十四歳のときにお見合いで結婚した。晩婚ということになるのだろうか。ともに内向的な性格で、いい出会いに恵まれなかった。
営みを持つのはその夜が初めてだった。出会いから結婚まで短かったし、恥ずかしがり屋の由衣に無理に関係を迫りたくなかったのだ。
今の時代、婚前交渉がないのは珍しいのかもしれないが、結婚した以上、いずれは「する」わけだし、焦る必要はないと思っていた。
そして新婚旅行で訪れたプーケットのホテルで念願の初夜を迎えたわけなのだが――
まさかの妻のアソコが硬すぎてアレが入らない。結局、新婚旅行中は一度も結合に至らず、帰国後、再び営みにチャレンジしたが結果は同じだった。
ネットでいろいろ調べるうち、一つの病名にたどり着いた。
腟攣縮(Vaginismus:ワギニスムス)――腟の外、三分の一の部分の筋層に反復性、または持続性の不随意攣縮が起こり、性交を障害すること。
ようは、ペニスの挿入を想像したり、いざ挿入しようとすると、腟の周りの筋肉が痙攣して腟が固く締まり、挿入できなくなる病気らしい。
僕たちは話し合った結果、二人で病院を訪れた。
「恐らく奥さんはワギニスムスだと思われます」
診察を終え、白衣の女医はそう言った。
恐らく、というのは、内診台で触診をしようとしたが、外陰部に触れただけで痛みを訴え、膣への挿入は指、膣鏡ともに不可能だったので、まだ確定診断には至らなかったのだ。
「先ほど、私が触診をしたとき、奥様は外陰部への接触に痛みを感じられましたが、これは恐怖や嫌悪からくる身体的反応で、現実的な痛みではありません」
「精神的なものということですか?」
僕が訊ねると、女医はうなずいた。
「行動療法だけで解決する場合も多いですが、緊張や恐怖感が強い場合、専門の心理士によるカウンセリングなども組み合わせて治療していきます」
病院を出ると、夫婦ふたりで並んで歩いた。
婚姻関係にあっても性行為にいたらない夫婦のことを「未完成婚」と呼ぶらしい。自分たちは不完全な夫婦なのだと思い知らされた気分だった。
「ごめんね……シンちゃん、私がこんな身体で……」
申し訳なさそうに詫びる由衣を僕は慰めた。
「病名がわかったんだからいいじゃないか。これから二人でゆっくり治していこうよ」
その後、由衣は病院に通い、ダイレーターによる腟の拡張訓練、行動療法など、様々な治療を試した。だが、妻のアソコは堅牢な要塞のように閉ざされたままだった。
結婚して三年が経ち、僕たちは三十七歳になっていた。年齢的なものを案じてだろう、親からは何度も「子供はまだか?」と催促をされていた。
子供ができない理由に僕は口を濁した。妻のアソコが硬くて入らない、などと言えるわけがない。それに妻の肉体に問題があることが知れ、両親が由衣を責めないか心配だった。
「私みたいな女のこと、石女って言うんだって……」
ある日、由衣がぽつりとこぼした。
「子供が産めない女のこと……昔は離婚されたりもしたって……」
僕は押し黙った。なんと言えばいいのかわからなかった。
「シンちゃんが子供を欲しいなら……誰か別のひとと……」
か細い声で言う由衣に、僕は絞り出すように言った。
「……子供のいる人生だけが幸せとは限らないよ……」
子供が欲しくないかと言えば嘘になる。だからといって、それを理由に由衣と別れ、別の女性と結婚するのは何かが違うと感じていた。
正月になれば、友人や親類から子供の写真付きの年賀状が届いた。それをじっと見つめる妻の顔にはどこかさみしげな色があった。
三つ目の病院で結果が出なかったとき、僕たちは治療を止めた。「もういいんじゃないか」と僕から言った。結婚から六年、二人とも四十歳になり、何かをあきらめなければならない年齢だった。
病院からの帰り道、たまたま立ち寄ったペットショップで、僕たちはチンチラゴールデンの子猫を買った。
小さな段ボールが大のお気に入りだったので「小箱」と名付け、ペットが飼育できる中古マンションを分譲で買った。
一階の部屋で、小さな庭がついていた。昼間は野良猫が庭を横切るように散歩をし、ベランダにはモンシロチョウがやって来た。
「ねえ、小箱が外に出せ出せって騒いでるわ」
窓にガリガリと爪を立てる猫に、由衣が困ったような顔をした。
「ベランダまでならいいんじゃないか。でも目を離さないでね」
こうして日差しが差し込むベランダで、一匹の猫と夫婦ふたりがのんびり過ごすのが週末の恒例になった。
由衣は庭にハーブや野菜を植えた。
「モッコウバラがきれいに咲いたわ」
うれしそうに庭で剪定をする妻の姿をベランダの椅子から僕は見ていた。足もとでは猫がうずくまって昼寝をしていた。
「バラを写真に撮ってネットにあげたら? みんなが喜ぶよ」
「うん、でも小箱の写真の方が〝いいね〟の数が多いんだよね」
「まあ、ネットじゃ猫は最強のコンテンツだからなー」
結婚から十年、僕たちはともに四十四歳になっていた。平穏で静かな暮らしに僕は満足していた。その間、一度も二人の間にセックスはなかったが、僕はもうしかたないものだとあきらめていた。
もちろん、子供のことをすんなりあきらめられたわけでもない。代理母での出産や特別養子縁組のことは一通り調べた。だが、お金の問題も含め、いろいろハードルが高かった。
食卓で子供の話題がのぼることもあった。
「ね、いつか里親とかなら、やってみてもいいかもね。夏休みの間だけ子供を預かる短期里親とかもあるんだって」
市役所でもらってきた里親のチラシを由衣は見せてきた。
「子供を預かるとなったら、このマンションだと手狭だから、もう少し大きな一軒家とかに引っ越した方がいいのかなぁ……」
そうやって淡い夢を語り合うことはあったが、現実に里親をやることはなかった。二人だけの静かな暮らしに慣れてしまい、変化を受け入れるのがつらい年齢にもなっていた。
そうやって仕事や日々の生活に追われるうちに、時間はあっという間に過ぎていった。
やがて猫の小箱が腎臓病で死んだ。息を引き取ったのは早朝だった。小箱が大好きだったピンクの毛布に亡骸を包み、僕たちは寄り添うように窓辺に座った。
「小箱がウチに来たときのこと、覚えてる?」
由衣に訊かれ、僕は思い出すように笑った。
「覚えてるよ。ペットショップで仔猫用のケージを買ったんだけど、こいつ、すぐ飛び出してさ……」
囲いだけで天井がないタイプだったので、ジャンプすれば飛び出せた。
「シンちゃん、すぐにケージをオークションで売ってたよね」
由衣は笑いながら膝の上に抱いた猫に視線を落とした。小箱は閉じ込められるのが大嫌いだった。ベランダに出せ出せ、と何度催促されたかわからない。
由衣が優しげな顔で言った。
「ねえ、小箱を庭に埋めてあげましょうよ」
早朝、僕はスコップで庭に深い穴を堀り、ピンクの毛布に包んだ猫の亡骸を埋めた。
やがて僕たちは五十八歳になり、お互いの頭には白髪が目立つようになっていた。結婚から二十四年の月日が経っていた。
ある日、会社から帰ると、由衣から「話があるの」と言われた。
「私、乳癌みたい――」
ステージ4。乳癌の中でもタチの悪いトリプルネガティブと呼ばれる希少タイプで、骨、肺、肝臓などに転移し、すでに手の施しようがなかった。
病院のベッドで酸素吸入器をつけた由衣はいつもより体が小さく見えた。
「ごめんね、私みたいな女と一緒になっちゃって」
「由衣が奥さんで良かったよ」
「私が死んだら――」
「そんなこと言うなよ」
「誰かいいひとを見つけて一緒になってね。私、化けて出たりしないから安心して」
化けて出てくれるならうれしい、と僕は思った。ずっと由衣にそばにいて欲しかった。僕たち夫婦には子供がいない。猫の小箱もいない。由衣がいなくなったら、僕は独りぼっちになってしまう。
ただ生きていて欲しい――その願いもむなしく、それから半年後、由衣は亡くなった。ちょうど結婚二十五年目を迎える数日前だった。
葬儀が終わった後、机の引き出しの中に由衣からの手紙を見つけた。
『シンちゃんは私がご飯を作っても、お茶を淹れても、お掃除をしても、いつも、ありがとうって言ってくれたよね。
私が、なんでそんなにありがとうって言ってくれるの? そんなに大したことをしてないのに……って言ったら、由衣がそばにいてくれてありがとうって言ってるんだよって。
今度は私が言う番だね。シンちゃん、いっしょにご飯を食べて、たくさんおしゃべりして、いろんなところに行ったね。ありがとう。私、シンちゃんの奥さんで本当に幸せでした。
成仏なんてせず、これからもシンちゃんのことをずっとそばで見守ってるよ。独りじゃないから安心してね』
涙がぽとりと手紙の上に落ちた。
僕たち夫婦はこの二十五年間、一度もセックスをしなかった。世の中ではそれを〝未完成婚〟と呼ぶらしい。
でも、僕はそうは思わない。子供がいることだけが人の幸せでないように、セックスがないからといって、僕たちが不幸だとは思わない。
誰がなんと言おうと、僕たちは夫婦だった。二人の間には愛があり、幸せな日々があった。それを「未完成」だなんて絶対に言わせない。
手紙を握りしめ、僕は絞り出すようにつぶやいた。
「ありがとう、由衣。僕も幸せだったよ」
(完)