完全犯罪の7月26日(3)
失うものは何もないとはいえ、26年間愚鈍なまでに墨守してきた社会のルールを逸脱しようとしているのだと考えると、緊張で手が震える。震える手が徐々に超ミニスカートの女性の臀部に近づいている様子を誰かに見られたら、触れる前から現行犯逮捕されそうである。
裕介はすっかりこの女性が気に入っていたので、痴漢する前に逃してしまうことだけはどうしても避けたい。
裕介は思い切って、勢い良く手を突っ込むことにした。
指が柔らかいものに触れると同時に嫌な予感がした。
反射的に腕を引っ込めようとしたときにはすでにサラリーマン風の男に手首を強く握られていた。おそらくサラリーマンなので、以下、便宜上「サラリーマン」と呼ばせてもらう。
「この男、痴漢です」
とはサラリーマン。女性が勇気を出して被害を訴えるまでもなく、裕介の凶行は白日に晒されてしまった。
「え?どうしてそんなに早く分かったんだ?俺が痴漢だって」
思わず情けない質問をしてしまった。それくらいに何もさせてもらえなかった。
女性のキョトンとした顔を見ると、彼女もお尻を触られたことに気づいていないようだ。
「顔を見れば分かる」
「は?」
「お前は痴漢の顔をしていた」
「嘘つけ。本当のことを言え」
「この子のお尻をずっと見ていた」
「は?」
「あまりにスカートが短いので下着が見えないかなと思い、この子のお尻をずっと見ていた。そしたら、お前の手がお尻を触るのが見えた」
「なるほど。正直でよろしい」
突如として右頬に衝撃が走った。何が起きたかを理解するよりも先にジーンという痛みが襲ってくる。
「この変態」
侮蔑と悔しさが混ざった迫真の声だった。
裕介は発声者の方を振り返るまでもなく、全てを悟った。これが非力な女性が男性に対して肉体的にも精神的にももっともダメージを与えられる攻撃方法-ビンタなのだと。
「なんで俺なんだよ」
発言した側から、なんて馬鹿なことを言ってしまったのかと後悔する。
たしかに、会話の流れ的にはサラリーマンが女性のお尻を熱心に見ていたことが明らかになったタイミングではあった。しかし、手に感覚は残っていないとはいえ、実際にそのお尻を触ったのは裕介だ。
糾弾されるのは裕介しかありえない。女性の、親の仇を見るような目も、今の裕介にはふさわしい。
女性は一転して、遠距離恋愛をしている彼氏と空港で再会したときのような甘い目でサラリーマンの方を見た。
「変態を捕まえてくれてありがとうございます。今度、お礼します。後で連絡先教えます」
視姦をした人間と痴漢をした人間との歴然とした扱いの違いには言葉を失う。
しかも、裕介は「変態」と呼ばれている。「痴漢」と呼ばれることはやむなしだが、「変態」はさすがに言い過ぎではないか。それとも、「痴漢」と「変態」の差は裕介が考えているほどは開いていないということか。
「いえいえ、僕は紳士として当然のことをしたまでです」
おいおい。コイツ、女性のお尻を凝視していたくせに紳士ぶってるぞ。
「そんな。こんなこと普通の人にはなかなかできないことです」
女性は何かを思い出したかのように、小さく、あ、と声をあげた。それを合図に顔が徐々に赤らんでいく。
「そういえば、今日、テレビの星占いで、「運命の人に出会うかも」って言われたんです。きっと、あなたが運命の人なんですね」
「え?運命の人ですか?まいったなあ‥」
サラリーマンはまんざらでもなさそうに頭を掻いた。
というか、なぜ裕介はこんなこそばゆいやりとりを見せつけられているのだろうか。これは何かの罰か。
サラリーマンが鼻の下を伸ばしているこの隙に、手を振り払って逃げおおせてやろうか。
右腕にギュッと力を入れると、その倍くらいの力で握り返された。こいつ、鍛えてやがる。最近のサラリーマンはジム通いがステータスになっているから困る。
「おい、変態、下らないこと考えるなよ」
「変態って言うな」
「黙れ変態」
「黙れ変態」
二人は早くも異口同音でハーモニーを奏でる間柄になったようだ。
はじめての痴漢は失敗に終わった。
せっかくの獲物を漁夫の利によって奪われてしまうだなんて、こんなに屈辱的なことはない。




