塞翁が馬の7月26日(2)
馬券は場外で売っていた。スタンドに入る必要がなくて助かった。ギャンブル狂がごった煮になっているスタンド内に入ると裕介の人間の品格が何ランクか下がる気がしていたから。
馬券販売の列は、有人窓口から伸びているものと自動券売機から伸びているものの2つに分かれていた。
馬券の買い方が分からない裕介は、迷わず有人窓口の方の列の最後尾についた。
列に並んでいる間、周りの人間の会話の声量が気になった。無駄にデカい。あえて他人に聞かせようとしているのかと訝しむ。自分がこれから買おうとしている馬券の番号を披瀝し、自分の予想の秀逸さを誇示したいのかもしれない。仲間と連番しているわけでもないのに一人で大声で叫んでいる奴なんて絶対そうだ。いや、絶対は言い過ぎた。単に気が触れているだけの可能性もなかなか高い。
順番が回り、自動券売機の音声アナウンスとさして変わらないであろう無機質なトーンでお姉さんから呼ばれた裕介は、何をして良いのか分からなかったので、とりあえずカバンの中から500万円の札束を取り出すと、アクリル板の前の台に置いた。
お姉さんは、あたかも銀行強盗に脅されたかのように目と口を大きく開いて唖然とした。お金を出された側がこのような反応をするのは滑稽である。
お姉さんが言葉を失っているようだったので、仕方なく裕介が口を開く。
「5、13、11」
「馬券を買われるんですか?」
「はい」
「サンレンタンですか?」
「ん?サンラータン?」
「え??」
両者の頭の上に、どちらが大きいかは比べられないが、ともに大きなクエスチョンマークが浮かんだ。おそらくコロンブスが上陸した新大陸でインディアンと初めて鉢合わせたときも同じような状況だったかと思う。
時間も思考も停止したこの空白は、漁夫の利を狙う者にとっては格好のタイミングだった。
獲物に狙いを定めたトンビが翼を閉じて急降下する。
あ!と裕介が声をあげるのと同時か先か、目の前から500万円の札束が消えた。何が起きたかは分からなかったが、目は本能的に500万円の行く先を追っていた。
トンビ?
いや、ハゲタカ……
いや、ただのハゲたオッサンだ。
盗人は振り返ることなく懸命に走っていたため、顔は確認できなかったが、後頭部がハゲていたため、ハゲていることだけは確認できた。
「待て!」
裕介は反射的に盗人を追いかける。
落ち着いて考えれば、500万円を盗まれたところでどうせ夜にはリセットされるのだから追いかける必要はないし、むしろ逆上した盗人に隠し持っていたナイフで一突きでもされたら取り返しがつかない。
しかし、咄嗟の判断で裕介の足は動き出していた。
逃走劇は、馬券販売所の目の前の芝生であっけなく幕を閉じた。
盗人は右足が悪いようで、それを引き摺りながら走っていたため、幼稚園児のかけっこくらいの速度しか出ていなかった。これでは逃げ切れるはずがない。
さらに裕介の後方から刈るようなタックルによってうつ伏せに倒された盗人のポケットから落ちた金属ようの物体は、ナイフではなく、ワンカップのフタだった。
これらにより、計画的な犯行ではなく、500万円という大金を目にしたことによって突然出来心が涌いてしまった衝動的な犯行であることが証明された。




