ぬるま湯の7月26日(2)
ライブの最後の一曲が終わると、うさ美はしばらく無言で中空を見つめたあと、その話を切り出す。
「みんな、今日は私の歌を最後まで聞いてくれてありがとう。私は幸せ者です。ただ、この幸せを味わえるのも今月いっぱいかもしれません」
「えーっ」
という悲鳴を文字にしたヲタクのスケッチブックが掲げられる。他の聴衆はやはりシャツの首元からチラチラ覗くグランドキャニオンに夢中で、うさ美の声は届いていないようだ。
「期待に応えられなくてごめんね。でも、私の家は貧乏で、パパとママは私に、ストリートミュージシャンなんてやってないで、バイトしなさい、と言ってくるの。お前は歌が致命的に下手クソなんだから、早く諦めろ、って」
うさ美のご両親が健全なセンスを持っていることは否めない。
しかし、時には真実よりも優しい嘘の方が薬になることもある。それに裕介のようなうさ美の歌の理解者もいるのだから、娘の夢をもう少しの間見守ってあげてもよいのではないか。うさ美が生きている間には厳しいかもしれないが、きっと3世紀後くらいにはうさ美の前衛的な歌に聴衆の理解が追いつくことだってあるだろう。
「やめないでー」
と例のフリップ。裕介はイラッとくるのだが、対照的にうさ美はそれをに呼応して目に涙を溜める。
「いつも優しい言葉ありがとう。でも、うさ美にも生活があるんだよ」
うさ美は、顔面同様に透き通るような白さの腕で目の水晶を拭うと、今度は無理やり笑顔を作ってみせた。
「でも、私にも一つだけ希望があります。一つだけ、私が来月以降もストリートミュージシャンを続けられる道があります。それは、7月中に私の自主制作のCDを目標枚数の100万枚売り切ることです」
もはや絶望しかない。
なぜそんなに目標を高く設定してしまったのか。
なぜ音楽業界全体がCDが売れないと喘いでいる中、一端のストリートミュージシャンがミリオンヒットを狙っているのか。解せない。気の迷いとしか思えない。
背景にはCDの売り上げでご両親の借金を返したいとかいう泣かせる話があるのかもしれないが、さすがに身の程を知るべきだ。水着写真集ならば需要はあるだろう。しかし、うさ美の歌声を家に帰ってまで聴きたいと思う人間は、残念ながら、ほとんどいない。
「だけど、まだ今のところCDは6枚しか売れてません」
うさ美の顔色がまた曇り出す。
現実は残酷だ。特典で水着プロマイドを付けるようにアドバイスしようかとも思ったが、残されたリミットは今日を除いて5日しかないのだからもうあとの祭りだ。
「頑張って☆」
と書かれたスケッチブックを持ち上げたヲタクの口元は相変わらずニヤついていた。
頑張って☆、じゃないだろ!お前、ヲタクだろ?ヲタクだったら私財を全てを投げ打ってでもCD買えよ!ネットゲームに課金してる場合じゃないだろ!あなたが死んでも当社は一切の損害賠償責任を負わないことに同意します、みたいな誓約書を書かされる怪しいバイトを掛け持ちして、うさ美のために稼げよ!
「困難なミッションであることは分かってる。でも、私、最後まで諦めないから。私を助けてくれる白馬の王子様が現れるのを待ってる」
白馬の王子様、というよりは、パパやパトロンを待ってる、という方が的を得たたとえだろう。
目標到達までの残りCD数は、99万9994枚。
CD1枚が1000円だから、一人で買うとすれば、9億9999万4000円必要な計算である。贅沢一つせずにせっせと貯蓄をしてきた裕介の貯金をもってしても桁が足りない。悔しいが、裕介にはどうすることもできない。
とはいえ、タイムループを濫用している限りは引退のXデーは訪れない。裕介にできることといえば、この悠久の時間を使って、うさ美という奇跡を目に、耳に焼き付けることくらいである。




