発掘の7月26日(1)
ピ、ピ、ピ、ピ、ピ……
裕介は本来ならば迎えるはずのない朝を迎えた。
黒く重い水が、目を口を耳を鼻を塞ぎながら、裕介を底へ底へと引きずろうと襲いかかってくる光景を鮮明に覚えている。先刻まで裕介がいた地獄のような世界は悪夢ではなく現実なのだから当然である。愚妹の狂気に触れたことは、フィクションではない。
タイムループは裕介に不死身の能力を与えたのだろうか。否、おそらく違う。
裕介の命を救ったのはタイムリミットだ。気絶した後、絶命の直前に19時32分が訪れ、裕介を死の淵からいつものベッドへと引き揚げた。
運が良かった。愚妹の殺意の発露が少しでも早ければ、もう二度と目を覚ますことはなかった。まさに九死に一生だった。未だに体は小刻みに震え、呼吸の乱れも収まらない。
「お兄ちゃん、おはよう」
信じられないことに、まるで鵠沼海岸での惨劇などなかったのように晴れやかな声だった。実際に愚妹にとってあの日はなかったのだから、仕方がないといえば仕方がない。
とはいえ、無垢な笑顔の裏側には奈落の闇があり、胸の裡にはイカれた心中計画がたしかにある。
テレビに映し出された鵠沼海岸の熱戦は彼岸への入り口であり、リビングの中央で座椅子に腰を沈めている女は妖怪玉藻前。罠だ。絶対に関わってはならない。
愚妹を避けるようにして家を出た裕介だったが、仕事に行く意欲は既に消失しており、行く宛てはどこにもなかった。
立ち止まって考える。普通の人は何も予定がない日をどのように過ごしているのだろうか。
都会は誘惑で溢れている、とよく言われる。
飲食店が、風俗店が、娯楽施設が隙間なく並んでいる。派手な看板や装飾を疑似餌とし、行き交う人々を飲み込もうと口を開けて待ち構えている歓楽街。
もっとも、早朝でほとんどの店舗が準備中であることをさて措いても、裕介の心が誘惑に向くことはなかった。我慢をしているつもりはない。そもそも魅力を感じないのだ。
依存症という言葉がある。タバコ、酒などの嗜好品を繰り返し消費する内にその魅力に取り憑かれ、自分の力では誘惑から抜け出せなくなる病気だ。
とはいえ、どんな依存症患者であっても、初めからその対象に強く惹きつけられてるわけではない。むしろ、初めて吸うタバコ、初めて飲む酒の味は苦く、美味しく感じないのが常。
裕介はあらゆる快楽について処女だから、快楽の魅力が分からない。快楽に依存するための最初の一歩が踏み出せていない。
結局、街の中を彷徨い歩いたり、公園のベンチで木々を眺めている内に日が赤らんできていた。
こんな1日は無駄そのものだ。このままだとダメだ、と思った裕介は、引っ掻いただけでささくれができそうな古びたベンチから立ち上がった。
-そうだ。駅前へと向かおう。
具体的な目的があるわけではないが、駅前ならば人も多く、店も多い。何か裕介の心の琴線をくすぐるものがあるかもしれない。




