はじまりの7月26日(2)
裕介の職場は市役所だった。
公務員として市役所で勤めることが裕介の幼稚園の頃からの夢だった。他の園児がサッカー選手や戦隊ヒーローを将来の夢に掲げる中、裕介のキラキラしていない夢はかえって際立っていた。周りの大人が心配しそうなものではある。しかし、他の園児と一切戯れることなく、毎日積み木でなんの変哲のない塔を作っては崩し作っては崩しを繰り返していた幼き頃の裕介を見ていた保育士は、決められた書類を決められた方法で処理していく市役所職員こそが彼の天職だと認めざるをえなかった。裕介自身、安定こそが人生の目的だと幼な心に思っていた。
大人になって無事夢を叶えた裕介だったが、市役所は決して楽園ではなかった。他の職場よりはマシなのかもしれない。ただ、裕介の心を乱す無粋な連中が同僚にいた。
「裕介おはよう。飲みに行こうぜ」
TPOを一切わきまえず、口癖である「飲みに行こうぜ」を連発する大和剛志に無粋さで右に出る者はいないだろう。
「お前、今来たのか?出勤時間を10分以上オーバーしてるぞ」
「阿佐ヶ谷に良いビアガーデンがあるんだよ。飲みに行こうぜ」
信じられないくらいに会話が噛み合わない。こいつと話すのは時間の無駄だ。裕介はデスクトップに目を落とし、イライラをぶつけるようにキーボードを叩いた。
「わりい、わりい。冗談だよ」
悪びれた様子もなくそう言った大和は、裕介の席から離れると自分の持ち場を通り過ぎて別の同僚の席に向かった。大和の誘いに乗るような愚かな同僚はさすがにいないことを心から祈りたい。
市役所の業務時間がスタートしてからしばらくは快適だった。処理済みの仕事が一つ一つ積み重なっていくにつれて快感がエスカレートしていく。0.01ミリもズレることなく書類の枠内に判子を押せたときには小さなガッツポーズさえ飛び出す。
無論、市役所の利用者には良識に欠けたクレーマーや呆けた老人も多いのだが、彼らに合わせる必要はない。一方的に正義を押し付ければ良い。我々の仕事に対して彼らが文句を持ったとすれば、それは正義への無理解であり愚かさだ。そんな三流市民は淘汰されて滅びるべきだ。
しかし、昼休憩が明けてから少しずつ雲行きが怪しくなってきた。
午後1時になると同時に裕介宛に来た外線電話の声は脂ぎっていた。もちろん声に脂が浮くことはないので、裕介がそう感じたのは声の主と面識があり、ヌルヌルしたナメクジ顔が思い出されたからだ。
「裕介、元気か」
「ふざけるな。職場に電話を掛けてくるな」
「元気そうだな」
「切るぞ」
裕介の叔父である各務寛のギトッとした笑い声が受話器から執務室に大きく響き、同僚の何人かが裕介の方を振り向いた。早く切りたい。一刻も早く。
「用件は何だ」
「まあ、そう焦るなよ」
「用件は何だ」
再び叔父が笑い出したので、裕介は慌てて受話器を手で塞いだ。
「苦しい……手を離してくれ」
裕介は受話器を握る手にギュッと力を入れた。
「んぐ……首を締めないでくれ……死ぬ……」
手元にあった棒状の文鎮を持って受話器に振り下ろそうとしたところで、裕介はようやく正気に戻った。叔父の余興に付き合っている暇などない。
「早く用件を言え。5秒で切るぞ。5、4…」
「実は今月、ゆきほの誕生日なんだ。プレゼントを阿佐ヶ谷で買いたいんだが、お前に選ぶのを手伝って欲しくて」
「3、2、1……」
「おい、裕介」
「0」
叩きつけた受話器は電話台の上でワンバウンドした。生憎、裕介にはゆきほという名前の義理の叔母も姪もいない。おそらく叔父が今入れ込んでいるキャバ嬢の源氏名に違いない。
大きくため息をついてからあたりを見渡すと、同僚、さらにはカウンター越しに利用者の目までもが裕介に集中して注がれていた。どうやら下らないことでヒートアップしすぎたようだ。
「まあ、そうイライラするなよ。嫌なことがあったときには飲んで忘れようぜ」
裕介は肩にかかった大和の腕を薙ぎ払う代わりに、大和の脇腹に肘打ちを加えた。本当にイライラする。
この後も幾度となく叔父から電話がかかってきた。その度に裕介は仕事を中断し、暴言を吐きかけて電話を切らなければならなかった。




