衝撃の7月26日(5)
裕介はレジャーが嫌いだが、一旦決まった予定を変更することはもっと嫌いだ。
弾かれて跳ね返ったメンコのように勢いよく立ち上がった愚妹は、胸倉をつかみかかる勢いで裕介に詰め寄った。
「どうして?延期してよ?せめて中止してよ?」
「なんでだ?」
「だって、今日は私の誕生日なんだよ!私が主役なんだよ!」
「だからどうしたんだ?」
愚妹は歯を食いしばりながらピョンピョンとジャンプをした。きっと愚妹なりの地団駄の踏み方なのだろう。この様子だけ見ていたら海水浴に行けるくらいの元気はありそうだが、しばらくして愚妹は空気の抜けた風船のようにぐしゃりと倒れこんだ。
夏場だから毛布を掛ける必要もないし、床には絨毯が敷いてあるから布団まで運んであげる必要もないだろうと判断した裕介は愚妹をそのまま放置して、親父と母親が待っている車へと向かおうとした。踵を返した裕介の後ろ髪を引いたのは、死にかけの蝉の最後の羽音のようにか弱いキリキリ声だった。
「お兄ちゃん、10年後ね」
「は?」
「10年後に私を鵠沼海岸に連れて行って」
もう一度、「は?」を繰り返そうとしたところ、右足首に激痛が走った。青虫のように這い寄ってきた愚妹の牙が剥かれたのである。
「痛っ!何すんだよ!?」
「うをにーひゃん、ふぅーめんぎょょ◯×△◆……」
お兄ちゃん、10年後に鵠沼海岸に連れて行って、の意だと思うが、口の中に裕介の踝を含みながら話しているのでモゴモゴしている。というか、言葉を発するために口を動かすたびに歯が当たって痛い。
ゾンビウイルスではないので、噛まれた傷口から風邪菌に感染することはないだろう。しかし、愚妹は噛む力を徐々に強めていっており、八重歯が刺さっている部位からは血も滴ってきた。愚妹の歯が折れるのを待つ前に裕介が折れるしかなかった。
「分かった」
「分かった」
10年前に裕介が発した言葉はこの一言だけである。しかも、シチュエーションを考えれば任意性は甚だ怪しい。愚妹の行動は強要罪に当たりそうだ。
にもかかわらず、愚妹はこの一言を金科玉条の福音のごとく大切に胸にしまっていた。あんなに忘れっぽい愚妹の脳みその中でも、裕介がした「約束」だけは、あたかもタイムカプセルに入っていたかのように埃を被らないままだった。
愚妹は、裕介にも「約束」を思い出してもらうべく、「約束」からちょうど10年後の今日、裕介の邸宅に押しかけて、録画した宮本佐々木ペアの試合を見ていたのだ。
裕介に鵠沼海岸の映像を見せて記憶喚起させることが目的であるため、裕介がリビングに入ってくる直前にこれみよがしにブルーレイプレイヤーの電源を入れていたのだろう。だから、裕介が早朝にリビングを訪れたときにも昼前に訪れたときにも同じように宮本佐々木ペアの試合が流れていた。
これが事のカラクリだ。愚妹の分際で策を弄するとは何たることか、とイラつく気持ちはなくはない。
「ねえ、お兄ちゃん、約束通り、私を鵠沼海岸に連れて行って」
愚妹の目は丸10年蓄えた光でキラキラと輝いていた。




