第一章 26 あの夢
これほど深い眠りに落ちたのはこの世界に来て初めてではないだろうか。自分流で勝手気ままにやっているが、それでもこの世界で生きるために僕はずいぶん気を張っていたのだろう。日々、一歩間違えば命を落とすかもしれない世界の中に身をおいているのだ、それは至極当然の事かも知れなかった。強制的な眠りで僕はいつにない深い眠りの中にいた。
そして、この世界に来て初めて「あの夢」を見ていた。
またあの日の光景だ、幾度なく見てきた、見続けてきた夢だ。僕の脳裏にこびり付いて消える事のない光景。中学一年生の夏休み、僕は学習塾が企画した夏季の学習合宿から9日ぶりに帰宅した。比較的裕福な家庭に育った僕の周りには争いごとなど皆無であり、日々穏やかに暮らしていた。だが、その日、いつも僕に優しく微笑んでくれる母の顔には笑みはなく、明らかに殴打されたような痕跡があった。母は9日ぶりに会う僕に俯きながら「おかえり」とだけ言った。
「どうしたの?なにがあったの?」
僕の問いに母は嗚咽を漏らしながら泣いていた。
僕には2つ下の妹がいた。カオリと言う。僕は泣きじゃくる母をリビングに残したまま2階のカオリの部屋へ向かった。部屋の扉は開いたままで、カオリはベッドに寝そべり、天井を見つめていた。そう本当にただ天井を見つめていた。
「カオリ……?一体何があったの?」
カオリは僕の存在を認めると、笑いながら泣いた。
「お兄ちゃん……、もう私達このお家に住めないみたいだよ……。だから私、忘れないようにお部屋の中を眺めていたの。天井の模様こんな風だったんだね。いままで気が付かなかった……。」
「どういう事?お父さんは?」
カオリはゆっくりと上半身だけを起こして僕を改めて見据えた。
「お父さん……、詐欺にあったんだって……。たくさん借金が出来ちゃって……、だからもうこのお家には住めないんだよ……。お兄ちゃんがいない間にお父さんとお母さんたくさんケンカして……、お父さんがお母さんを殴ったんだよ……。」
あの、温和で限りなく優しい父親が、母を殴った?考えられなかった………。
「私お母さんの味方して、お父さんにたくさん意地悪な事言っちゃったの……、そしたら、さっき、お父さんね………。」
夢でいつもこの時の妹のセリフは音を失う。小さくうごく彼女の口元はまるでスローモーションを見るうように、ゆっくりと、ゆっくりと動く。
大概、僕はこの時点で目を覚ます。今回も例外なくそうだった。
寝起きに僕は大きく溜息をつく。
生きるのにどこか慎重で、どこかで人を完全に信じることが出来ず、金銭に対して圧倒的に保守的で、それでいてあえて無謀な場面に進んで飛び込む向こう見ずさを内包している。自分の事を客観的に見れられるほど達観も、諦観もしていないが、おそらく僕と言う人間はそんなどうしようもなく矛盾した存在なのだろう。そしてそんなどうしようもない人間が形成されたのは、あの夏の日の夕暮の出来事が境であった事は間違いないだろう。
ゆっくり瞼を開けると、そこにはツボミさんが心配そうに僕を見つめていた。ツボミさん越しに見た天井はどうやら僕の部屋である事を示していた。
「だ、大丈夫か?タカキ君……。その少しうなされていて、しかも……。」
僕は涙を流していた。この夢を見る時は大概そうだ。心が何メートルも沈みこんで哀情の気圧で押しつぶされそうになるんだろう。
「昨日は……その、悪かったな。セイラちゃんも悪気があるわけではないと思うのだ。私も取り乱してしまって……。」
僕はベッドに腰掛けて、僕の顔を覗き込んでいたツボミさんの手を引き強く抱きしめた。
「えっ?タ、タカキ君?あのっ!えっ?」
「ごめん、ちょっと辛い夢見た……、後で殴ってもいいから、少しだけこうしていて……。ごめん、わがまま言って……。今は少しだけ……。」
抱きしめられて震える少女に申し訳ないと思いつつ、僕はそんな彼女から少しだけぬくもりを貰う。何が解決する訳でもない事も分かっているのに、僕はそうせざるを得なかった。
数分の沈黙。ツボミさんが僕を強く抱きしめた。
「ねぇ、タカキ君……、もとの世界へ帰りたいと思うかい?」
「……。どうだろう…考えた事なかったな……。」
思いがけない質問だった。実際のところどうなのだろう。僕が泣いていたのを帰れないからだと思ったんだろうか……。
「前の世界では結構キツイ境遇で生きていたからね……。今の方が幸せなのかもしれない……。」
「そうか……。」
僕は落ち着きを取り戻し、ツボミさんから離れようとした。ツボミさんが思っていた以上に僕に強く抱きついていた。僕の挙動に気が付き、彼女はすぐに照れながら僕から離れた。
「ありがとう、ツボミさん…。ごめんね、急に抱きしめたりして。でも。おかげで元気を取り戻したよ。」
「い、いやいや、お役に立てたのなら結構、結構。うん、いつでも使ってくれたまへ。」
「はは、ありがとう。それじゃあ、とりあえず一個貸しって事で。」
「うん、じゃあ、私が辛い時はタカキ君の胸を借りるとしよう。一個貸しだ。」
心が晴れ晴れとして暖かな気持ちと裏腹に、僕は後頭部にズキズキと鈍痛を感じていた。かわいらしい太陽のような笑顔の少女の手刀は、凄まじく強烈なのだと改めて感じていた。かなり痛い。




