ヘロー、アゲイン。両手と呼ぶにはずいぶんと違和感のある、勝手気ままにさまよった左の手と右の手。
はじまり、はじまり。
両手と呼ぶにはずいぶんと違和感のある、勝手気ままにさまよった左の手と右の手。
先生が、僕をイジメていた連中に陥れられたらしい。
それも、傷害事件や教員免許剥奪なんかじゃなく、殺されたみたいなんだ。
「センセー、死んじゃって、残念だよなー」
「残念だよなー」
「ノイローゼだったから、しょうがないよなー」
「しょうがないよなー」
連中はなんて馬鹿なことをしたんだ。と思った。
大体、頼れる者がいないことを知って味わう絶望よりも、頼れる者がそこいるからこそ現れる、ひと時の安心を装ったいびつな形状の不安の方がよほど人の心を蝕むんだ。
拠るべき柱がいつ朽ち果て、いつ蹴折られてしまうのか。その必然の未来を見て見ぬふりをしながらすがっていることしかできない自身の内に棲む静かな悪魔は、喪失感から来る瞬間的な激しい慟哭を遥かに上回る呪いをかけてくる。
連中はそれを分かってなかったのか。呪いが解けてしまうんだぞ。
先生が無知な連中に殺されたことを酷く惜しんだ。
横並びになった先生たちの今後の学校生活に関する様々な注意に対して、クラスメートは全員揃って「はい」と答えた。
校長先生が体育館の鉄筋を響かせて話すことには、学校生徒の全員が「はい」と口を揃えた。
それを見て、先生たちは「よくわかっている」とお互いに顔を見合わせ頷いた。
生徒たちは、先生の暗喩的な表現を「よくわかっている」。だからきっと、みんな国語の成績に「とてもよい」の評価がつけられるだろう。
生徒たちは、どの意見をとれば多勢の中にいられ、どの立場にいれば利益を被るかを「よくわかっている」。だからきっと、みんな算数の成績に「とてもよい」の評価がつけられるだろう。
先生たちは、テストの点数で成績をつけているわけじゃない。
授業を通して、先生にとって望ましい生徒になっているかどうかで成績をつけているんだ。そしてその評価基準はとてもわかりやすい。頭が良くなくても、常識を持ち合わせていなくても、情緒が安定していなくても、隣人に優しくなくても別にいい。要は、先生の握るコントローラーの操作を受信しやすいように、常に電波が3本立っていればそれで十分なんだ。
あの先生はそうじゃなかった。他の先生がこぞって持ち歩く腐乱臭のするコントローラーを持っていなかった。砂嵐ばかりの試験電波を大音量で発することもなかった。
『そんな難しい顔して、タクロー君は何タクロんでるんだい』
世代間交流にオヤジギャグを積極的に導入していた。
『そんな賛成ばっかりだと、先生酸性雨に溶かされちゃうな』
連中の口裏合わせで僕のトイレ掃除の当番延長が決定されかけた時、場を白けさせることで決議を回避するという荒業をやってのけた。
その響き渡る大声が、道徳の教科書よりもわかりやすく単純な自他共愛が、意外なほど文理の整合のとれた人間論が、世の中のくだらなさをまとめて抽象したようなオヤジギャグが、イジメられていた僕を相手にしてしまえる性格が、僕の気を引きつけ、連中の気を退かせた。
コントローラーを持たない無沙汰な両手は、運悪く僕を掴んでしまった。
そうして彼は死んでしまった。
自殺してしまったそうだ。
殺されてしまったようだ。
「まぁ、確かに…瞬間的な暴風雨で、吹き飛んじゃうことだってあるのか」
僕は屋上にいた。このまま心に吹き荒れる嵐に乗って、世の中から飛び立ってしまうことも可能だった。
胸の屋根裏に空いた穴から豪雨が押し入って、溢れて、こぼれた。連中みたいに渇水するよりはマシだと思えた。
けれど、震えるダムは決壊寸前で、
油の切れた頭は回転をひどく遅め、
両手を伸ばして、でも空を切って、掴むものは、なくなって、
『ヘロー』
「そんなぁ」
だから、振り返ってその姿を目にした途端、不本意ながらもすっとんきょうな声を上げてしまったその理由は、十二分に説明できた。
「え、えええええ、なんで」
「なんで」
連中は声を揃えた。音楽の授業の成果だろうか。
「え、えええええ、なんで」
「なんで」
先生たちも声を揃えた。この人たちも、誰かのコントローラーの操作を受信しているんだな。と思った。
直後、連中は先生によって速やかにグループ構成員を特定され、即日解体された。
その際イジメ以外にも多くの犯罪行為を行っていたことが暴かれ、結果、クラスで連中に反発していたグループや他学年の組織、教職員組合、PTA、教育委員会、マスコミといった数多くの団体あるいは個人が、自己の欲深さを追求する旅へと出発した。
先生はその文理の整合のとれた人間論によって権力の渦を看破し、自他共愛によって守るべき生徒を守り、諭すべき生徒を諭し、響き渡る大声で世界に心地いいジャミングをかけた。
そして、
『生きててよかったけど、クビはトブかもなー。そしたら妖怪首無し先生だ』
と笑った。
『イジメの実態を掴むためにな、何人かの先生や保護者に協力してもらって、死んだフリしてたんだ』
屋上でそう聞かされた。
『ホントなら、先生がもっとしっかりしてればこんな大事にはならなかったんだけど…ごめんな。まぁもう大丈夫だ。心配かけたかな。それともソースかけたかな』
「何それ、英雄気取りなの」
『その通り。知ってるか。ヒーローってな…』
くだらなくて無意味で屁理屈なうんちくが始まる。と思った。
『…その昔、今の先生みたいに突然復活して困ってた人を救った奴がいてな、そいつが何食わぬ顔で【ヘロー】って言いながら出てきたから、【Hero】って言うようになったんだそうだ』
「だから先生も真似して言ってみたの」
『あぁ。真似してやってみた』
「くだんないね。そもそも、【Hello】が【Hero】の語源なんて、聞いたことないよ」
『まぁ…先生による新説ってやつだな』
「先生は親切な奴だね」
『お前、上手い事言うようになったな』
ニヤニヤと笑う。こんな表情、擬音語でも使わないと形容できやしない。
先生は僕の両手を掴んだ。
僕は柱に身を寄せた。
拠るべき柱は、「賛成雨」で溶けてしまったはずだった。
『世の中、捨てたもんじゃないだろ』
「中身の方が美味しいんでしょ。皮が美味い食べ物なんてそうないよ」
『そうそう。だから世の【中】をジューシーにする方向で考えないとな…ってお前、ホントに上手い事言うようになったなぁ』
それは、ある教師の影響。
その事を伝えたら、僕の成績は「とてもよい」になるのだろうか。
よく分からない。よく分からなくなった。
温かくて、よく分からなくなって、安心した。
今はよく分からなくてもいいんだということは、分かった。
「…………」
『どうした』
「……ヘロー」
『…ヘロー』
「…ヘロー」
『ヘロー』
「…………」
『………』
「ヘロー!!」
『ヘロー!!!』
こだました!
(おしまい)




