妖蟲の誘い
屋敷の廊下に戻ると、なんとなく中の様子がおかしかった。
どこがどうという理由は不明だが、さっきまでとは明らかに何かが違う。
廊下に顔を出した三人は口に出すまでもなく、それを悟った。
特にただ一人の住人である沙巳子には顕著に理解できたようである。
「……何かおかしくない?」
「ちょっと静かすぎるかな」
こらえきれずに言う沙巳子に、ひかりが応える。
小夏が一歩前に出て、バールのようなものを構える。
先程、ひかりに預けておいた値打ちモノっぽい長弓は背負っている。
何が起きても対応できるように、神経を尖らせた。仮にも彼女は武人の端くれだから、少女であっても油断はしない。
むしろ、自分たちの身にとてつもない危険が迫っているであろうことをヒシヒシと感じ取っていた。
こめかみ辺りの血管が腫れ上がったかのように痛くなってくる。
嫌な予感が渦巻いていた。
(なんだろう、これ。怖い……のかな? ううん、ちょっと違う)
自分の後ろを警戒して歩く、親友二人の様子を伺う。
どちらも蒼白な表情をしている。
沙巳子に至っては実家だというのにまるで遊園地のお化け屋敷でも廻っているかのような悲壮な顔色だ。
彼女たちも感じ取っているのだろう。
得体の知れない何かの存在を。
「外に出ようか?」
「そうだね。靴も履きっぱなしだし、このまますぐに国道まで駆け下りようか」
「……ナッツーの案に賛成」
三人は今度はひかりを先頭にして、そのまま外に出ることにした。小夏はしんがりを勤めることになる。
幸い、靴は地下に行った時のままの土足状態だ。
三和土からすぐに飛び出せる。
長い廊下を曲がると、すぐに玄関に突き当たる。
だが、彼女らの逃走はそこで止まった。
玄関のガラス扉を突き破り、黒くグロテスクな丸いものが顔を出していた。
二本の尖った触角がワイパーのように回転し、赤い二つの眼らしきものが輝き、何かを探し出すかのごとく蠢いていた。
しかし、小夏たちの姿を見て止まる。
獲物が罠にかかったことに気づいたかのように。
吐き気を催すほど汚穢な外見には見覚えがあった。
それはムカデのものに酷似していた。
ついさっきとほんの少し前に三人の少女がそれぞれ潰した覚えがある多足類の生物。
しかし、それはただの多足類のものではありえない。
なぜなら、彼女らを嬲るように睨んでいる怪物の頭はどう小さく見積もっても1メートルを優に超えているのだから。
触角の長さは小夏の身長以上、ムカデ特有の大顎と小顎は人間を一噛みにできそうなぐらいに圧倒的だった。
すでにこれはムカデではない。
巨大な怪蟲であった。
そして、怪蟲は妖獣でもあった。
沙巳子の住み慣れた家は一転して悪夢の舞台に変貌を遂げた。
『……オマエセタノスエカ』
上下の顎は動かない。
しかし人の言葉で口を利いた。
間違いなく。
最高潮の恐怖が荒く少女たちに襲いかかる。
そいつは確かに人語を解し、そして語ったのだ!
「せたのすえって?」
「……わ、たしのこと?」
蟲が喋る。
かろうじて聞き取れた単語が与えた衝撃は大きかった。
ただでさえ巨大な蟲がいて、それが人語を解すだけでなく、沙巳子について言及したのだから。
この悪夢には思考する力があるかの如く。
しかし、蟲はそれ以上を一切何もしゃべることなく、ずるりと扉から覗きだした頭をさらに前に突き出した。
ガラスとスチール枠製の扉は紙のようにたやすく吹き飛ばされ、天窓が破壊されたうえ、木の廊下に散々な穴が開く。
妖蟲の巨体にどれほどの重みがあるか、それだけでわかる。
そして、頭だけであれほどの大きさだ。
全体の大きさを考えれば、玄関の外からも続く胴体はどれほどの長さに達するものであろうか。
あまりの冒涜的で幻想的な光景に誰も身じろぎもしない。
「きゃあああああああ!!!!!」
粘着剤のような静寂を突き破る悲鳴が響き渡る。
沙巳子のものだった。
普段の落ち着いた深窓の令嬢然とした彼女が、ここまで取り乱すことはないというぐらいに頭を横に振り、自分の身体を抱きしめ、壁に寄りかかるまで倒れこむ。
沙巳子自身わからなかったが、彼女を襲ったのはただの恐怖ではなかった。
腹腔からわきあがるどす黒いまでの負の劣情。今までに覚えたことのない魂をヤスリで削る痛み。そして、思い出す。
祖母が死んでから彼女の周囲にまとわりついていた否生物の視線の正体を。
こいつが彼女を狙っていたのだ。
逃げたい、でも逃げられない。
彼女がそんな諦観に縛られたとき、聞き覚えのある破裂音が轟渡る。
同時にキンと金属音。
小夏はひかりの持つ拳銃が火を放った音であり、黒光りする甲羅のごとき表皮に弾丸がはじかれたものであると悟る。
ひかりは持ち前の負けん気でもって恐怖に立ち向かったのだ。
しかし、結果は良好とは言えない。
こんなに至近距離で撃ったのに効果がないなんて!
無力さを味あわされただけだった。
再び、カンと何かが頭部の革によって弾き返される。
沙巳子とひかりがはっと隣に目をやると、小夏が背負っていたはずの弓を手にして矢を放ったあとだった。
小夏もまた決意を一瞬にして固めたのだ。
一度決意したのなら、戦わないことなど誰ができよう。
そんなことは論外だ。
戦わなければ生き残れない。
死ねばあいつの餌になる。
ならば背筋を伸ばして前をにらみ続けるしかないではないか!
見とれるほどに美しい姿勢だったが、私服のままでの残心は珍しかった。
いつのまに弦を張ったのかはひかりたちにも不明であったが、この場においては一瞬の早業といえた。
そして、五メートルも離れていない場所であったが、急いで構えて放った矢が無意味に跳ね返されても、小夏の眼光は衰えない。
(なら、次は目だ)
改めてもう一本をつがえようとした時、ひかりが怒鳴った。
「逃げるよ!!」
無意識的なものであったのか、状況を理解しきったのか、自分でもわからなかったが、立てかけておいたバールのようなものを全力で投げつけ牽制すると、空になった手で沙巳子の二の腕を掴む。
力の限り引っ張りあげ、勢いをつけて逆方向へ駆け出す。
ひかりはすでに逃げ出していた。
拳銃が効かないとわかったのなら、無駄弾を射つような真似はせず、振り向きせずに逃げ出す。
逃げ出す方向は小夏とアイコンタクトで決めていた。
ありえない異常な事態においても意思疎通を交わすことが問題なくできたということが、彼女たちの命を救う結果となる。
奇襲を受けた場合には反撃せずにまず逃げろ、と各国の軍隊では教えられるのだが、それを無意識に実践していたといえよう。
廊下の端まで加速し、さらに奥へと逃げ込む。
ムカデの怪物は彼女らを追う素振りは見せなかった。
もしかしたら興味がなくて見逃してくれたのかもしれない。
しかし、さっきの言葉とここが勢多家の屋敷であることからしても、あれが沙巳子に関係がないものと断定することは不可能だ。
あのムカデは必ず彼女たちを遅かれ早かれ追ってくるだろう。
確実に言えることは、小夏たちが足を止めたとき、彼女たちの生命が終わるに違いないということだけだ。
信じられない現実を目の当たりにしたうえ、命からがらの全力疾走で息も絶え絶えの中、ひかりが次の行動について口を開いた。
「どこに行く?」
「わかんない。逃げなきゃいけないことだけしかわかんない」
「裏口は?」
「……うちの出口は玄関だけだよ」
「お勝手口とかは?」
「あるけど、全部、玄関前の門に行かなきゃならないよ。繋がっているから」
そうすると、結局、あの大ムカデの脇を通らなくてはいけないわけだ。
ガチャガチャと無数の音が居間の方からも響いてきた。
襖を開けて視界を確保すると、居間のソファーの上に先ほどの1メートルサイズのムカデが三匹たかってこちらに鎌首を上げていた。
すぐに寄って来る気配はないが。少なくともあの巨大なやつから逃げ出すだけでは足りないということはわかる。
この屋敷は人外の生物に支配されかけているのだ!
ムカデたちから視線を外さないように、ひかりがつぶやく。
「塀の外は?」
「さっきみたけど、走るのも無理だし、歩くのだってかなり大変だよ。急な坂になっていて、木や草ばっかりだった」
「……てことは、あいつが玄関で見張っている限り、あたしたちが逃げ出す場所はないってこと?」
「でも、多分、ここまで追ってくるとは思うよ。その隙をついて逃げ出そうよ」
「あのサイズだってうろちょろしているのよ、逃げ場所は限られていると思うわ」
「……警察とか自衛隊に通報してみたら。ああいうのは行政の仕事じゃないの?」
「サミのうちには電波が届いていないでしょ。立法と司法を除いた国家作用は全部、行政に含まれるけど、怪物退治って含まれているのかな。ああ、どうでもいいことを言っても先に進めない!! とにかく、却下!」
「下まで行って電話を借りようよ!」
「だから、あいつがいたら行けないでしょ!」
「そっか」
「……電話のあるところに行こうよ」
「それはどこ?」
「庭にはいけないよ」
「……鍾乳洞の先ならどうかな?」
沙巳子は、疑問符が頭上に浮かんだ親友たちに解答を与えた。
「さっきから考えていたの。あの鍾乳洞の出口は多分、わたしの家の別荘に繋がっているはずだと思うんだ。そして、あの別荘までいけば、携帯電話の電波も届いているから助けを呼べるよ。助けを求められるよ!」
「別荘?」
「そんなの……あ、あったっ!……」
小夏の脳裏には、行きのバスの中で見た白い建物が浮かんだのであった。
あれは勢多の別荘だとおじさんが言っていたじゃないか!
「……決まりね。行きましょう。ここにいても虫にたかられるだけだしね。あんなのとは一刻も早くおさらばしたいからさ」
ひかりは力強く方針を決定した。




