後編
私は、息を吸った。
ゆっくりと吐き出し、目の前のピアノを見る。
鍵盤がいつもより狭く感じた。
うまく気持ちを落ち着けることが出来ているんだと思う。
集中できるときは、視界が広がる。
そして、自分の耳と、指の感覚が鋭くなる。
これなら行けるかもしれない。
観客席を見た。
観客たちは、これから私の演奏を聴こうと、気持ちを集中しているのが分かる。
審査員も姿勢を正してくれている。
それだけ、自分の演奏に期待してくれているのだ、と思うと、やる気が出た。
今回も狙うのは当然のようにノーミスだ。
数十分にも渡る演奏の中で、まったくミスをしないというのは、どれだけ練習していても、とても難しいことだ。
本当は簡単に狙ってできることではないのだ。
でも、やる。
やって私は、芦田くんに勝つ。
ピアノ協奏曲第四番は、ピアノの独奏から始まる、やや珍しいタイプの曲だ。
普通はオーケストラから始まることが多い。
でも、ピアノの独奏から始まることで、聴衆により自分の表現を最初に示すことができた。
今回のような大会では、オーケストラとの音合わせは短い時間しか使えない。
午前中に決勝進出する演者が順番に数十分の時間をかけて、お互いのフィーリングを把握する。
その日の午後には大会は開催されてしまう。
短い時間でどれだけ心を交わし、こちらの演奏の意図を把握してもらえるか。
また、どれだけやる気を引き出せるかが、大会が始まる前の準備として重要なことだった。
指揮者が私を見た。
もう始めて良いか、とその目は問うていた。
私は頷き、演奏を開始した。
ベートーヴェンのピアノ協奏曲第四番は、ピアノの弱く優しい旋律から始まる。
これまでオーケストラの添え物のような役割だったピアノが主役となり、かつオーケストラと対話するように交互に演奏する、当時としては珍しい曲だ。
最初の一音をどれだけ優しく、聴衆を引き込むか。
私の神経は一瞬にして張り詰め、集中した。
よし、出来た!
最高だ。最高の演奏だった。
控室に戻るまでの間、私は自分で自分を絶賛していた。
現状で出せる最高の結果だ。
ノーミスで、自分の感情を乗せることが出来た。
全身をぞくぞくするような興奮が走る。
全速力で駆け抜けた後のように、体がブルブルと震える。
心臓が高鳴って動悸を立てている。
額からは汗が溢れ出ていたが、それすらも今は心地いい。
控えで準備をしていた芦田くんが、音を立てずに拍手で出迎えてくれた。
「ノーミスだったね。凄かったよ」
「ふふん。当然よ」
「当然か。まあ、あれだけの演奏だから、何も言えないか」
芦田くんは呆れたように苦笑した。
表情には焦りが見られない。
それどころかとても嬉しそうで、この顔を悔しさに満たせなかったのが少し残念だ。
だが、どちらにせよ私は私の最高の演奏ができた。
これまでの芦田くんの演奏ならば、勝てる自信がある。
「つぎは芦田くんね」
「ああ。誰かさんがノーミスの演奏をするからプレッシャーがスゴイよ」
サラッと、少しも力むことなく言えるのが芦田くんのズルいところだ。
まるで緊張しているようには見えない。
本当にプレッシャーなんてかかっているのかしら?
「どうせ今回もノーミスなんでしょうけど、ノーミス同士なら負けるつもりはないわ」
「たしかに今回は危ないかも。でも、僕も負けるつもりはないよ。今日で大会は最後だからね。負け知らずのままで終わらせてもらう」
「……最後ってどういうことっ!?」
芦田くんの突然の報告に、私は頭が真っ白になった。
一体どうして、なぜ。
とりとめのない思考がぐるぐると頭を駆けめぐる。
私が詰め寄っても、芦田くんはひょうひょうとしたまま、淡々と答えた。
「僕はこの大会を最後に、ベルリンに留学することになったんだ」
「な、なんですって……」
「両親もはやく活躍の場を世界に移せってうるさいし、僕自身も良い機会だと思ってる」
「じゃ、じゃあ私との勝負はどうなるのよ!?」
「それは……申し訳ないと思ってるよ」
そこだけは心苦しそうに、芦田くんが顔を伏せた。
うそよ、うそ。
今度こそ私が勝って、芦田くんが必死になって練習してきて、それでも私がまた勝って、あるいは負けて。
そんなことを考えていたのに、一瞬にして未来が変わってしまった。
「芦田さん、出番です」
「ごめん、坂口さん」
「最後だって言うなら……」
「うん……? 何か言った?」
「最後だって言うなら、下手な演奏なんてしたら絶対許さないわよ……!」
「うん、がんばるよ」
ニッコリと笑って、芦田くんが舞台へと上がっていく。
最後の演奏なのだ。
私は大急ぎで観客席へと移動した。
ピアノの前に座る芦田くんの姿は、ピタリとハマっている。
なんだろう、このそこにいることが当たり前、というような光景は。
スポットライトで照らされた芦田くんは、スッと構えると、途端に感情の空気がしん、と静まり返った。
最初の一音を聞き逃さないように、誰もが耳を済ませる。
それは、今まで泣き叫んでいた赤ちゃんすらも一緒で。
一流のピアニストだけが持つ、惹きつける何かを芦田くんが持っている証だった。
芦田くんの演奏が始まった。
そして、すぐに気づいた。
……いつもと違う。
機械のような正確さは健在だけれど、それだけではなかった。
……感情が、ある!?
疑問は、その後すぐに、芦田くんの演奏によって氷解した。
音の連なりは、確かに感情がこもっていた。
芦田くん、あなたって人は……。
芦田くんの演奏は、気高かった。
高貴さ《ノーブル》をまとわせていた。
緻密に、厳しく、繊細で。
――そして、ほんの少しだけ優しい。
気がつけば、頬が濡れていた。
私は今、泣いているんだ……。
悔しかったからではない。
芦田くんの演奏に、ただただ感動したから。
それぐらい良い演奏だった。
一体どれだけ音をなぞったんだろう。
一体どれだけの訓練を続けたんだろう。
どれだけ悩んだんだろう。
同じピアニストだから、私には芦田くんがどれだけ努力したか分かる。
感情を乗せることを、自然とできるピアニストがいれば、毎回自分に深く向き合わないと、のっぺらぼうみたいな表面的な演奏になるピアニストもいる。
芦田くんは確実に後者だ。
私がノーミスで弾くために周囲が驚くほど練習したように、芦田くんも色々なものを犠牲にして、この演奏を身につけたに違いなかった。
私こそが、芦田くんを一番見誤っていたのではなかっただろうか。
毎回ノーミスの演奏を続けているから、それが当たり前だと思っていた。
それ以上がないと侮っていた。
でも違ったのだ。
彼もまた、より上を目指して苦労していたのだ。
反省はあとでも出来る。
私は今、ただただ演奏に耳を傾けた。
先に結果を言ってしまおう。
優勝したのは芦田くんだった。
本当に最初から最後まで、大会を荒らし回って、優勝をかっさらって、王者のまま国外に逃げてしまった。
こっちが必死になって後を追っているというのに……。
まったくもって、本当に憎たらしい男だ。
大会が終わって、両親に少しだけ待ってもらい、芦田くんと話す機会を得た。
芦田くんは、なんというか。
大会が終わってもいつも通りだった。
少しだけ疲れているのだろうか。
「今回ばっかりは負けを覚悟したんだけどね」
「そんなこと言って余裕そうだったじゃない」
「それは違うよ。僕はあんまりプレッシャーが態度に出ないみたいでね。本当はいつも負けるんじゃないかってヒヤヒヤしてた」
「嘘ばっかり」
「本当さ。特に坂口さんにはいつ負けてもおかしくないって思ってた」
「そ、そんな言葉にごまかされないんだからね……!」
ヤバイ。
認められてたんだ……。
思わずにやけてしまいそうで、表情を取り繕うのに大変だった。
私は気付いてしまった。
目の敵にしていたけれど、本当は私は、芦田くんの実力を誰よりも認めていたのだ。
だからこそ、同時に認めて欲しかった。
でも、その芦田くんはもう、遠い世界へと旅立ってしまう。
そのとき、私の頭の中をある考えが駆け巡った。
「……私、決めたから」
「何を?」
「私も留学する。もともと声はかかってたもの。芦田くん、次は世界で勝負よ!」
「……やれやれ。分かったよ。その日を楽しみにしてる」
どこに行くのか。
誰の教授に師事するのか。
決めるべきことはたくさんある。
早急に準備を進めないといけないだろう。
でも、私と芦田くんの勝負はまだ終わらない。
絶対に負けたままで終わらせないんだから。
私は固く誓ったのだ。
四年ぶりの更新になります。
完結できてよかった。