表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

前編

 ――今度こそ勝つ。


 ピアノコンクールの控え室、高鳴る心臓を深呼吸で抑えながら、私、坂口美緒は何度も自分に言い聞かせる。

 イスに座っていても、気がはやってしまい落ち着かない。

 膝の上においた手が、無意識に出だしの音符を追って動いてしまう。


 こんなことではダメだ。


 心を熱くても、頭は冷静にならないと、余計なミスをしてしまう。

 正確性が第一のコンクールにおいて、ミスは致命的だ。


 それだけではない。

 多少のミスなら表現力で挽回することが出来るだろう。

 自分にはそれだけの力量があり、才能があり、練習の積み重ねがある。

 だが、私が勝ちたいと思っている相手は、その僅かなミスを許してくれないのだ。


 控え室の扉が開いた。

 その男が控え室に入ってきた途端、部屋が一瞬にしてざわついた。

 聞こえてくるのは小声の会話と溜息。

 コンクールの熱い浮ついた空気が、湿った重たいものに変わる。

 それも仕方がないのかもしれない。

 彼が現れたことで、自分が優勝することはほぼ絶望的になってしまうような存在だから。


“コンクール荒らし”

“ミスターパーフェクト”

“精密演奏”


 コンクールの王者、芦田響。

 大きなメガネに女の子が裸足で逃げ出すサラサラの長い髪の毛。

 血管が透けて見えそうなくらい白い肌。

 整った顔立ちで、鼻筋が高い、美形。

 成績もあって、業界誌や時にはテレビに映ることもある。

 だけど、多くの女性を虜にするだろう幾つもの要素も、私にはどうでも良かった。


 ――圧倒的に“ピアノが上手い”


 何よりもそのことが、私にとっての重要な事柄だった。

 この男のために、今度こそ優勝できる……何度そう感じ、霞のように消えてしまっただろうか。

 物心ついた時からピアノは直ぐ傍にあった。

 地方大会で金賞を取り、それが当然だと思っていた。

 だがコンクールの舞台が大きくなるに連れて、目の前にはいつも芦田の姿があるようになった。

 トロフィーも盾も、称賛すらも当たり前という風で少しも嬉しさを表に出すことがない。


 演奏は淡々と機械のように正確に、そして機械よりもはるかに瑞々しい音を奏でる。

 細くしなやかな指が88の鍵盤を踊る。


 ……今日こそは勝ちたい。

 芦田のいないコンクールなら、いつも優勝を手にしてきた。

 だけど、この男がいないコンクールに何の意味があっただろうか。

 いくらいい演奏をしても、「今日は芦田がいなかったから」なんて言われて、満足できるほど自分は甘い性格をしていないのだ。


 芦田の姿を見て、より心臓が大きな音を立てる。

 彼の目は少しだけ控え室をグルリと走り、そして目があった。

 にこり、と笑いかけられる。


「やあ」

「ずいぶんと落ち着いて、余裕なのね」

「そうでもないよ。緊張してる」


 芦田くんは肩を上げるジェスチャー。

 口元からは少しハスキーな声。

 いつもどおりで、そこには少しも緊張や興奮が伺えない。

 まるで彼の周りの空気だけが、永久凍土に覆われた南極大陸のように、同じ状態を保ち続けている。


「よく言うわよ。今日こそ最優秀賞は私が貰うから」

「坂口さんは感情のこもった良い演奏をするから、期待してるよ」

「ふ、ふん。全部終わった後で今の言葉を後悔させてやるからね」


 笑顔で応援されてしまった。

 少しも嫌味さを感じさせない。素で言ってるのは間違いない。

 自信はあるけれど、この男から褒められると全身がこそばゆい感覚になる。


 控え室の扉が開き、順番待ちの子が出入りしていく。

 私は今出て行った子の、次の出番だった。


「それじゃ、行くわ」

「頑張って」

「芦田くんも、予選で躓いたら怒るわよ」

「怒られないようがんばるよ」


 まだ予選だからだろうか?

 倒すべき相手と会話を交わしたというのに、かえって頭が冷静になった。

 勝つためには最高の演奏をすればいい。

 倒すべき相手を明確に意識することで、考えるべきことが明確になったのだろう。


 深呼吸をして控え室を出る。

 廊下を歩き、舞台袖に。

 進行の女性に名前を確認された後は、おとなしく舞台袖で出番を待つ。


 どん帳の隙間から演奏している姿が見える。

 ライトに当たりながら、真っ黒なピアノの前で腕がきらめく。


 あ、ミス。

 慌てるな。しっかり立て直せ。

 まだ大丈夫。あっ、ああっ。


 集中力が乱れていくのが分かる。

 細やかだった演奏に雑さが入り、音が乱れる。

 顔は泣きそうに歪み、全身に汗が吹き出ている。

 なんとか修復しようと苦労しているのが伝わってくる。


 後半はなんとか立て直したけれど、結果としては失敗だ。

 引き上げてきた子は顔をうつむかせて、その場から逃げるように足早に出て行ってしまう。

 叶うならば本当に消えてしまいたい心境だろう。

 まっとうな演奏ができなかった時の無念さは、本当に酷い。


 まいったな。

 直前であまり失敗されると、自分も失敗しそうでゲンが悪い。


「坂口美緒さん」

「はい」

「出番です」

「はい」


 舞台に移動すると、そこは明るい世界だ。

 薄暗く見える観客席には、審査員が特等席に並び、周りには聴衆や演奏者の保護者が並ぶ。


 演奏する課題曲は

「モーツァルト ピアノ・ソナタ 第3番 変ロ長調 第一楽章」

そして

「ショパン Op.10-7 ハ長調」


 さあ、審査員の先生方?

 私の演奏を――


 聞き逃すなんてしないように!




「お疲れ様。ノーミスだったみたいだね」

「あなたもね」


 成績発表が終わり、本線の出場が決まった。

 私も芦田くんも、予選はまるで問題がなかった。

 ファイナルはそれまでの独奏と違い、オーケストラ伴奏がつく。

 伴奏者をどれだけ自分の演奏に引き込ませるかも重要になってくる。

 演奏に感情を込め、音に色をつける私にはもっとも向いている。


 逆に正確無比を信条とする芦田くんには、どうだろうか?

 プロになっていくには、正確なだけでは限界が来る。

 多少のミスなんて物ともしない表現力が重要になってくる。

 今回のコンクールは表現力も問われるものだ。

 私が今回に勝機を見出しているのは、このコンクールの特徴故だ。


「ベートーヴェン ピアノ協奏曲第4番 ト長調 Op.58」


 第5番との好対照から、女帝などと呼ばれる曲だ。

 私はこの曲が大好きだ。

 ファイナルは二日目に行われる。

 構成の再確認だけをして、あとは早めに寝て準備を整える。

 夢のなかでもピアノの音が踊っていた。

曲目を皇帝にするべきか迷いました。


好きなピアニストはルービンシュタインです。

好きな曲はアラベスクです。


特別感想などがない限り、後半で終わる予定です。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ