8
王宮殿には当時、子どもが2人いた。ひとりはもちろん、国王夫妻の一人娘、リリー姫。そしてもうひとりは、住み込みで働いていた庭師の息子。そう、私の師匠の息子だった。
子どもたちは同い年でね。宮殿には2人の他に子どもはいなかったし、少年の母親もまた宮殿内で仕事をしていたから、王妃が許可をして少年も一緒に姫の養育係に世話をさせたそうだ。だから2人はいつも一緒にいた。物心つく前からね。
事情が変わったのは姫が五歳の誕生日を迎えてからだ。ライグヒト王室では、五歳を迎えたその日から帝王教育が始まる。王位継承者であるリリー姫にも、家庭教師がついた。
さすがに帝王教育に少年を同席させるわけにはいかないから、それを機に少年も父親の仕事場で日中を過ごすことになった。簡単な手伝いをさせてね。
しかし、それまで毎日一緒にいたのを急に離しても、子どもたちは納得しない。2人とも、しょっちゅう抜け出しては互いを迎えに行って、大人たちから隠れていたよ。
=====
フレッドが語る思い出話に、ジェイの中に残るかすかな記憶が甦る。
いつも一緒にいたリリー。いつも、勉強を抜け出してはジェイの手伝いをジャマしに来たリリー。
「とくに少年のほうがリリー姫を迎えに行っていたな」
…なに?
「リリー姫は王族の一員という自覚を否が応にも持たされていたが、少年のほうは自分と姫の立場の違いを理解するにはまだ幼かったから、よく家庭教師の目を盗んでリリー姫を連れ出していたよ」
そんなはずは。
「困ったのは私でね。子どもたちはいちばん年の若い私を“お兄さん”と呼んで慕ってくれた。しかし私の元に逃げ込まれると弱った」
「なぜです?」
ヨウが合いの手を入れる。
「使用人は皆、誰もが子どもたちの味方だった。2人が隠してと言えば喜んで匿う。しかし、姫の家庭教師の女史に行方を尋ねられてしらを切るなど、若造の私には難しかったんだ」
「なるほど」
「正直に行方を伝えれば、隠しておあげよと責められ、言われるがままに匿えば、勉強のジャマをするなと叱られる。いや参ったね」
それは、自分の記憶ではなかったのか。
「2人とも宮殿の外に出る機会はほとんどなく、大人に囲まれていた。リリー姫は自分が特別な存在であることを知っていたから、大人の前では泣き顔を見せなかった。それでも子どもらしくいられたのは、少年がいたからだ。……少年の存在に救われていたと思うよ」
俺に? リリーが?
「そしてそれは少年にとっても同じだった」
……!
「普通の子どものような暮らしができていなかったのは同じだからね、彼もまた、姫と一緒にいるときだけ子どもらしくいられたんだ」
そう、だったのだろうか。戸惑う目でフレッドを見れば、優しく頷かれる。
「ともかく子どもたちは宮殿中の人々に心から愛されていた。あの頃、皆2人の無邪気な笑顔に支えられていたんだよ。国内の不穏な空気は宮殿内にも陰を落としていたから……子どもたちもあるいは不安定な空気を感じ取っていたかもしれないが。2人一緒にいさえすればいつも笑顔だった」
いつも笑顔だった…? 一緒にいさえすれば? 自分の中に残る記憶との違いに、戸惑いを抑えられない。そんなジェイを置いて、ジェイ以外の皆は和やかに話を続けていく。
「今日は本当にありがとうございました」
「私のほうこそ、懐かしい話ができて嬉しかったよ」
そう言ってフレッドは一人ずつと握手をする。ジェイの手を握ったとき、
「ああ、そうだ。以前住んでいた宿舎が今は学生寮になっていると聞いたんだが。中を見ることはできるだろうか」
「それならジェイが寮住まいですよ」
フレッドと2人きりになれる口実を作ってくれた。
=====
フレッドと2人、寮までの道を歩く。会話がぽつりぽつりと生まれては途切れていく。
「たしか、こちらにキンモクセイの木立があったね」
「はい。その道を折れれば」
「私が初めて剪定を任された木だ」
自然とそちらに足を向ける。もとより寮が見たいと言ったのもジェイと2人になるためだ。行き先はどこでもいい。
「ご両親はお元気だろうか」
「ええ。今度会いにいらしてください。兄さんの活躍を知ったらきっと喜びます」
「嬉しいな。ぜひお会いしたい」
そしてまた訪れる沈黙に、キンモクセイの甘い香りが漂う。
「さっきは納得のいかないような顔をしていたね」
「……!」
「ジェイは、リリー姫のことをあまり覚えていないかな」
「もちろん覚えています。ただ…僕が思っていたのとは少し、違っていて」
「ほう?」
「僕はいつも、勉強を抜け出して僕のジャマをしに来るリリーを、迷惑に思っていたんです」
「……」
「いなくなってからも、いつまでも僕の中で存在を主張する。もう解放してほしいと、そう思っていたんです…」
だから、一緒にいさえすればいつも笑顔だったなんてあるはずがなくて。
「……ジェイ」
呼ぶ声に、うつろな顔を上げる。
「あのときは、きみだってまだ小さな子どもだった。認めていいんだよ」
「何をです…?」
「自分が傷ついたということを」
「……!」
「大好きだったリリーの思い出を、そんなふうに歪めてしまうほどにね」
「そんな…こと、は」
あるはずが──。
キンモクセイから漂う甘い香りがジェイを包んだ。
この香りをかぐと、いつも彼女を思い出す。
『ジェー、ジェー!』
その声が甦る。
『ジェー待って』
『はやくはやく、ここに隠れてたら見つからないよ』
『この場所は2人だけのひみつだもんね』
『フレッド兄さんにだってないしょだよ』
『やくそく!』
約束の場所は、キンモクセイの木の陰。
『リリーが五歳になったらもういっしょに遊べないって、なんで?』
『だってわたしお姫さまだもん。お勉強しなくちゃ』
『ぼくもいっしょにする!』
『ジェーはダメだって、お母さまが言うんだもん』
『なんで?』
『だってジェーはお姫さまじゃないもん』
『なんで!』
『わたしだってお誕生日がうれしくないのはいやだ!』
2人で写した写真は、リリーの五歳の誕生日。大人がどんなになだめすかしても、笑うことができなかった。
『リリー、迎えにきたよ』
『ジェー!』
勉強中のリリーを迎えに行くと、いつも待ち焦がれた満面の笑みで迎えてくれた。
『ジェー、これ持ってて』
リリー、泣かないで。
『わたしの顔、変えちゃうの。名前も、変えちゃうの』
リリー、行かないで。
『ジェーは覚えていてね』
待って!
手も振れなかった。名前も呼べなかった。イヤだよ、って言えなかった。
リリーがいないのが、寂しくて寂しくて寂しくて。寂しいのがつらくて、蓋をしたのだ。
リリーなんていなくていいもんね。だってワガママだったし。僕が父さんの手伝いをするのをいつもジャマしてたしさ。だからいなくなってよかったもんね。やくそくしちゃったから顔は覚えておくけどさ。写真も取っておくけどさ。いらないもん。リリーなんて。
──そうだ。そうだった。
呆然と立ち尽くすジェイの背中を、フレッドが優しく叩く。
「兄さん」
「思い出したかい」
「僕は……」
「あのとき何があったか、姫が今どこでどうしているか。何もわからないが」
彼女のことを覚えていてあげたいんだ──そう言い残し、フレッドは帰って行った。
一人になり、ジェイは携帯電話を取り出す。リリー、今どこにいる? 言わなければ。リリーに伝えなければ。ユリに戻ってしまう前に。
焦りからうまくボタンを押せない。そんなジェイの耳に、求めていた声が聞こえてきた。
「ジェー…」
「リリー! そこにいたのか」
キンモクセイの木陰から姿を見せたリリーに駆け寄る。
「今の…お兄さんでしょう? お顔だけでも見れてよかった」
「話は、聞いた?」
「少し、聞こえた…」
寂しげに視線を落とすリリーの肩をつかむ。
「リリー、ごめん。今までごめん。俺思い出したよ。リリーがいないのが寂しくて、ずっとしまい込んでいたんだ」
「ジェー」
「本当は会いたかった。ずっと一緒にいたかった」
「ジェー!」
リリーの目から涙が落ちる。それを見た瞬間、ジェイはリリーを胸に抱き込んでいた。
リリーのくぐもった声が、ジェイの胸元で響く。
「ジェー…私、お父さまとお母さまと一緒に国へ帰るわ」
肩を抱く手に力がこもる。
「それで、ユリになって戻ってくる」
「リリー…」
「お父さまと話して決めたの。旅券のいらない陸路で行くには時間がかかるから、さっそく今夜発つわ。それでね、その前に学校の中をいろいろ見て回ってた。リリーの目で、見ておきたくて」
体を離し、目を覗き込む。
「ユリが戻ってきたら、リリーは…?」
「また消えるわ。昨日からのことも、記憶から消してもらう。国へ帰るのはそのためよ」
たまらず再び抱きしめる。
「いいの。だってこの世界はユリのものだし」
「リリー、俺…ユリが好きだ。だからユリがいなくなるのは困る。けどリリーはそういうんじゃなくて…もっと家族みたいに大事で…」
「悩むことないわ、ジェー。あなたもユリを選んだのだもの」
「俺が解放しろとか言ったからか? そのことならもう」
「ううん、そうじゃなくて。最初に私を見たときユリって呼んだでしょう。全然違う格好だったのに」
「……!」
「姿が変わっても気づいてくれるって約束、あなたはユリに果たしたんだわ」
…たしかにあのとき、すぐにユリと気づいた。ユリがリリーだったことにはまったく気がつかなかったのに。
「いいの。私、納得してるのよ。お父さまも言ってたでしょう? この国の平和のためだもの」
だけどリリー、やっと会えたのに。
「それにね、ユリに嫉妬しながら生きてくよりも、嫉妬されるほうがいいじゃない?」
「何言ってんだよ…」
わかってる。他に選択肢はないって。だから抱きしめずにいられない。
「ジェー、私とユリね、もうひとつ共通点あったわ。ユリは隠しておきたがるだろうけど、バラしちゃう」
「なに…?」
ジェイの背に回したリリーの手が、ギュッとシャツを握る。
「ほんとはずっと、ジェーと一緒にいたい」
最後は涙声。
「リリー…俺今度こそ忘れないよ」
「ううん、忘れて。いない誰かを想う人を見ているのは、きっとユリがつらいから。今まで覚えていてくれてありがとう」
見送らなくていいから、ここでさよなら。そう言って歩き出す彼女の背中は、15年前と変わらず凛としている。自分はまた呆然と見送るだけか?
──いや。
「リリー!」
ふり返った彼女に、渾身の力を込めて手を振る。かける言葉は見つからないけれど、せめて笑顔で。彼女が最後に見る“ジェー”の顔は、笑顔であってほしい。
リリーもまた、背伸びをして大きく手を振ってくれた。ジェイが見たかった、あの笑顔で。