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研究室のドアを開けると、見知らぬ中年の男女が座っていた。二人とも黒髪で、男性のほうは少し白髪混じり。ジョンソン教授と話していた顔を上げ、こちらを向いた。
「お父さま、お母さま!」
隣りにいたリリーが駆け寄る。そうか、ではこの人たちが。
「そう呼ぶということは、きみは今リリーなのだね。姿だけではなく、心も」
優しくリリーを抱き止め、声をかけると、部屋の入り口で固まっているジェイに視線を寄越した。
「きみは…」
「あの、このたびは僕の不注意で、」
「ジェイね? ジェイでしょう!」
女性が嬉しそうに立ち上がる。
「ユリがよく話していたのよ。お隣の部屋の“ジェイ”のことを。同じ名前だとは思っていたけれど、本当にあなただったのね」
なんてご縁かしら。そうつぶやき目を潤ませるこの人は、ユリの母親で、そして。
「お……」
おうひさま、と呼んでよいのかわからず、ただ頭を下げるしかできない。
「そうか、きみはあのジェイか」
「…お久しぶりです」
ともかく座りなさい。そう教授が声をかけ、一同が落ち着いたところで、ユリの父──元国王が、ゆっくりと話し始めた。
「いま先生から伺ったのだがね、リリー。きみのその姿はいつまで保つかわからないそうだ」
「はい」
「すぐに戻るならいい。もしもこのままだとしたら、リリー。帰ってきなさい。きみはこの国にいてはいけない」
「お父さま…!」
「もちろんきみだけではない。かつての王族は誰一人、この国にいてはいけないのだよ」
「私は、私でいてはいけないの?」
「まだ15年だ。王政を復活させようと考えている人々はまだまだいる。彼らは王族を見つけ出して担ぎ上げようとしているんだ。利用されてはいけない。この国を混乱させてはいけないんだ」
「せっかく戻れたのに…やっと、思い出したのに」
そう。ここに自分の居場所はないこと。この場所はユリのものだということ。全身で感じ取ってはいたけれど。
「リリー」
父親は優しく手を取る。
「覚えていないのも無理はないがね。きみはあのとき、私の話をきちんと理解してくれた。きみはちゃんと納得して、自分であの薬を飲んだのだよ」
「私…が? 自分で?」
「そうだ。あれがきみの、最初で最後の王族としての仕事だった」
=====
あのとき、平和に民主化を進めるために私は姿を消すという選択をした。
王政を廃止すべきだという考えは持っていたが、それを国王が指導しては意味がない。あくまでも国民主導でなくてはいけない。同時に私たちの失踪を推進派の仕業と疑わせてもいけなかった。だから私は逃亡という形を取った。王妃と姫とともに──そう、あれは逃亡だよ。
「逃亡…」
つぶやいたジェイにひとつ頷き、王は続けた。
「国の平和のために、私たちは存在を消す必要があった。顔も、名前も変えてね。それをリリーにも説明した」
「それで、私は納得を…?」
「ああ。わかりました、と言ってくれたよ」
──そうだ。私は知っていた。自分の身に起きることを。リリーという存在を抹消することを納得したからこそ、ジェイに写真を預けたのだった。彼にだけは覚えていてほしくて。
「小さかったけれど、きみは立派な“姫”だったよ」
「記憶は…? 自分で納得していたのなら、どうして私は覚えていなかったの?」
「…すべて国を思ってのことだったが、きみの記憶を消したことだけは一人の親としての行動だった。きみに、何の憂いもない新しい人生を送らせてあげたかったんだ。だから催眠で記憶を消した。けれどそれは親のエゴだったかもしれないね」
「…お父さまとお母さまを責めるなんてできません…」
リリーを優しく撫でると、ジェイへと視線を向けた。
「さて、ここからは私たちだけで話をさせてくれるかね」
教授が頷き、ジェイを促して立ち上がる。
「ジェイ、わかってくれていると思うが…今日ここで私たちに会ったことは他言無用に願いたい。もちろんリリーのことも。誰にも明かさないでほしい。きみのご両親にも、だ」
「はい、決して」
どこかまだ実感のわかないまま部屋を出たジェイに、教授が声をかける。
「そろそろ時間じゃないのか? 今日フレッド君が来るのだろう。私も行くよ」
「そうでした…!」
向かいかけて足を止める。
「先生…リリーは、フレッド兄さんには会わせてやれないんですね…」
「うむ。残念だがね」
心が晴れない。
一体自分は誰を思い、誰に同情しているのか。いつもわがままを言っては自分を困らせたリリー。いなくなったあともずっとその存在に縛られてきた。そう、ユリに指摘された通りだ。そして姿を現したと思ったら今度はユリを排除しようとする。
もう諦めろよ。俺を解放してくれよ。昨日はそう思ったのに。
いざリリーがいなくなると聞くと、心が重い。一体自分は誰を思い、誰に同情しているのか。ジェイにもわからなかった。
=====
「急にいろんなことを思い出して、戸惑っているでしょうね」
「お母さま…」
小さく首を横にふる。けれど──取っておいてくれたらよかったのに。小さい頃のことなんてどうせ忘れてしまうのだから。あんなに温かい思い出、取っておいてほしかった。
「さてこれからのことだがね」
「はい…」
「きみにはユリに戻ってもらう。それはわかってくれるね? しかし記憶については別だ。今度はきみが決めなさい。自分がリリーであることを、覚えておくか、消してしまうか」
「自分で…?」
うなずくと、王は大きく腕を広げた。
「その前に、顔をよく見せてくれるかい? 久しぶりに会えた、私たちのリリーの顔を」
「お父さま…!」
「大人になったきみに、会えるとは思っていなかった」
父親の胸に飛び込んだリリーの髪を、母親が優しくなでる。
「ねえリリー。“ユリ”も“リリー”も、どちらも同じ花の名よ。どちらも、お父さまとお母さまがつけた名だわ」
「…百合の花」
そうだ。両親にとってはリリーでもユリでも変わらない。どちらも愛する娘。
あとは私が、納得すればいいだけ。
=====
教授と二人、ヨウに指定された教室に行くとロブがいた。ヨウはフレッドを迎えに行っているらしい。
「ユリはやっぱり来られないって?」
「ああ…」
「ふーん。けどまあユリはそんなに興味持ってるわけでもないしな」
たしかに。もともとユリはライグヒト王に関心なんてなかった。王研に入ったのだって、たまたま。ジェイの隣の部屋に来たのだってそうだ。なんて偶然。
そして廊下から人の声が聞こえてきた。
「こちらです。どうぞ」
「失礼──やあ、はじめまして」
ヨウとともに部屋に入ってきた男性は、教授に会釈をし、ロブに視線をやり、そして、ジェイを正面から見た。面影が、あるようなないような。大好きだった兄さん。
「改めて紹介します──教授は面識あるんですか?」
「いや、直接会うのは初めてだね」
「ええ。私は庭師の弟子に過ぎなかったから、主治医でいらしたジョンソン先生を存じ上げてはいたが、接点はなかったよ」
そうでしたか、と頷き、ヨウがこちらに自己紹介を促した。まずはロブが名乗り、そして。
「こんにちは。ジェイです」
「…よろしく」
差し出された手を握る。その目は優しかった。
「さて…何か王家にまつわる話を、とのことだが」
席につくと、フレッドは顔の前で手を組みゆっくりと話し始めた。
「さっきも話した通り、私は王宮殿の庭師の弟子だった。弟子入りしたばかりでね。宮殿で働いていた期間は一年にも満たなかったかな。とにかくあそこでは一番の若造、新参者だった。だからあのとき何が起きたのかを聞きたいのだとしたら、残念ながら期待に沿えない」
「当時は何と言われたんですか」
「何も。ただ出て行きなさいと親方に言われただけだ。親方が宮殿を退職すると言ってね。最後まで面倒をみれずにすまないと。それで私は実家に戻り、留学をしたんだ」
「そうですか…」
「私が今日きみたちに会いに来たのはね、リリー姫のことを話したいと思ったからなんだ。宮殿の太陽だった姫を、忘れないでいてあげてほしくてね」
リリーを、忘れないために…?
「それは願ってもないことです。リリー姫に関する公的な記録はほとんどなくて」
そう答えるヨウに、フレッドも頷きを返した。そして語り出す。姫と、同い年の少年。宮殿にいた2人の子どもたちのことを。