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「やあ、本当にきみか」
「先生、私を覚えておいでですか」
「もちろんだとも。もう一度会えるとは思っていなかった」
よかった、誰にも歓迎されないのかと思った。そう言って涙ぐむリリーの横顔に、そういえば自分がぶつけたのは戸惑いばかりだったとジェイは気づく。再会の喜びだとか、無事であることへの安心だとか。そういうものを忘れていた。
「リリー、きみのご両親が明日にもこちらへ到着される」
両親、と聞いてリリーの目が怯えた様子を見せる。
「先生…私の両親は……お顔が、記憶の中でつながらないんです」
「電話で母上とお話ししたよ。私からの電話に非常に驚いておられた。大丈夫、きみのご両親はたしかに王様ご夫妻だ」
「よかった…」
「お二人がいらしたら改めて説明するがね、まずはきみに話しておかねばならない──ジェイ、きみも聞きなさい」
ジェイを座らせ、微熱のあったリリーには寝台に横にならせて、教授は“解毒剤”についての説明を始めた。
「リリー、きみがどこまで把握しているかわからないが。きみは五歳のときにある薬剤を服用した。そのせいできみの髪は黒髪になり、王様によく似ていた顔立ちも、まったく様変わりした。ここまではいいね?」
こくりと小さくうなずく。
「あのとき薬剤を処方したのは私だ。とは言ってもあれは王家に代々伝わっていた秘薬でね。私も先代の主治医から引き継いだものを渡しただけだった。しかしその後を見守ることができなかったのが気がかりで、いつか、もしかしたら必要になる場合もあるかもしれないと、解毒剤を作り始めたのだよ」
解毒剤、と聞いてリリーがジェイのほうをちらりと見る。
「そう。今はジェイとともに研究をしている。彼が加わってから研究のスピードが上がってね。試作品を作れるまでになった。きみが昨夜誤って口にしたものがそれだ。そして、ここからが本題になる」
そこまで話すと、いったんお茶で口を湿らす。すべて予測でしかないけれど、という前置きを挟み、話は続いた。
「何度も言うようだが、あの薬は研究途上のものだ。きみにどんな作用をもたらすか、正直予測できないのだよ。もしかしたら、薬の成分が体から抜けるとともにきみはまたユリに戻るかもしれない」
「そんな…!」
「そういう可能性も捨てきれないということだ。だからしばらくは…そうだな、2、3日は様子を見させてほしい」
「2、3日…」
「少し眠りなさい。微熱があるだろう」
「眠るなんてできません、先生! 眠っているあいだに自分がいなくなってしまうかもしれないなんて」
「リリー」
「そうだ。先生、ジェイの部屋にはまだ薬が残っていました。切れそうになったらあれをまた飲めばいいんでしょう?」
「リリー、聞きなさい。それが安全かどうかすら、まだ未確認なのだよ」
「構いません。なんなら私を使って実験してくださっても」
「リリー!」
たまらず口を挟む。自分がした事の重大さを目の当たりにし、呼びかけたものの、ジェイは言うべき言葉がわからなかった。しばし無言で見つめ合う二人に教授が声をかける。
「そういう可能性もある、というだけだ。もちろんこのままの姿でい続ける可能性だってある。まったくわからないのだよ。とにかく今日は安静にしていなさい。ジェイ、」
「はい」
「きみは部屋が隣りだと言ったね。そばについていてやりなさい。私も今日は学内に泊まる。何かあればすぐに連絡するんだ」
二人が教授の元を辞すと、外は暗くなり始めていた。リリーの体調を気づかいゆっくりと歩く。
「ジェー」
「うん?」
「一人で戻るから大丈夫。授業あるんでしょ、行ったら?」
「今日はもうないよ。体、しんどいだろ…?」
「ううん。平気。別についててくれなくていい」
トゲトゲしい様子に、かける言葉を選ぶことができない。
「ジェイ!」
呼ばれて振り向くと、先ほどユリの部屋を覗いてくれた同級生が数人の仲間と連れ立って歩いていた。
「ユリ見つけた? 今の講義にも来てなかったんだけど」
「ああ、連絡はついたよ。ちょっと調子悪いみたいだ」
「そう。じゃあ明日も休むようなら代返しとくわ」
そう言って手を振る友人を、リリーは足を止め、ぼんやりと見つめる。続けざまに、今度はヨウに呼び止められた。
「ジェイ、さっきの話だけど。…そちらは?」
リリーに会釈をしながらヨウが問う。
「ああ…幼なじみ、かな」
「へえ…どうも。ちょっと失礼。ジェイ、アルフレッド氏と連絡がついたんだけど、講演会の日では時間が十分取れないだろうからってわざわざ時間を作ってくださるって言うんだ。ただ明日しか空いていないらしくて。急だけど構わないかな」
「俺は構わないよ」
「じゃああとはユリだな。さっきから連絡がつかないんだ」
「ああ、やっぱり具合がよくないらしくて。部屋で寝ていたよ」
「そうか……明日は出て来れるかな」
「どうかな。まあ伝えておくよ」
頼むわ、とヨウが手を振り去って行く。その背中を、リリーはやはりじっと見送る。
「どうした?」
「何でもない。今の話、なに?」
再び寮に向かい歩き出す。
「ああ、最近有名なライグヒト出身のガーデンデザイナーの人がいてね。今度大学に講演に来るっていうんで、王研で面会を申し込んだんだ──フレッド兄さんだよ」
足が止まる。
「……! お兄さん? 本当に!?」
「うん。ジョンソン先生が連絡を取ってくれたんだ。きみも会いたいだろ」
「もちろん! ……もちろん、会いたい、」
けど。
会っていいのかわからない。言外に含んだその言葉に、寮に着くまで二人は黙って歩いた。
「じゃあ、具合悪くなったらすぐに呼んで。何時でも構わないから」
「…ジェー、写真を見せてくれる?」
「写真?」
「うん。あの、子どもの頃の」
「ああ…いいよ、持って行くからきみは先に部屋に入って休んでな」
=====
部屋に入ったリリーを待っていたのは、布団がぐちゃぐちゃになったベッドと、テーブルに転がったグラス。
慌てて飛び出しちゃったからな…。
グラスを直し、テーブルに置いてあった携帯電話を手に取った。不在着信を知らせるランプが点滅している。
初めの何件かは、ジェイ。母からのメールも入っている。これからお父さんとそちらに向かうから、待っていて、と。そしてそのほかはすべて。
──ユリ、今日欠席?
──ユリ、連絡ちょうだい
──ユリ、大丈夫? ノート取っておいたよ
ユリ、ユリ、ユリ、
「──っ!」
携帯電話を投げつけた。
「リリー、入るよ」
ジェイが部屋に来、その手にあった写真をすがるように見る。そう、大丈夫。確かに自分は存在した。
「ずっと持っててくれたんだね。ありがとう。……これ、どうしてこんなに硬い表情してるんだろう。ああ、たしかケンカしたあとだったかな。ね?」
しかしジェイが見ていたのは、先ほど叩きつけられた携帯電話。それを拾い、はずれた電池を直しながら問う。
「どうしたの、これ」
「…みんな、ユリ、ユリって」
「だってユリの携帯じゃない」
「そうだけど。さっきのヨウたちもユリのことばかり。ユリはたった1日いないだけでみんなから心配されるのね」
「……」
「そうやって私がいたはずの場所を取っていくんだわ」
…けどここはユリの部屋じゃないか。きみが着ているその服も、ユリのもの。
「ジェーは私を心配してくれてたでしょう? 私を探そうとしてくれてたんだよね」
リリーの戸惑いを理解してやるべきなのに。たしかに会いたかったはずなのに。今はただユリの身が気遣われてならない。そのユリを否定しようと必死のリリーに、隠れていた思いが姿を現す。
「そうだよ…会いたかったよ」
「ユリじゃなくて、私、でしょう?」
「リリーに、会いたかった」
「ずっと私でいていいんでしょう?」
「会えたら、言いたいことがあった」
「なあに?」
「……」
「……なに…?」
携帯電話を机に置きながら、ジェイは迷っていた。言うべきではないと、わかっていた。けれど、ずっと抱えてきた本音だ。リリーの目を見る。
「……もう、俺を、解放してくれ」
スッと、リリーの顔から表情が消えた。
そう。「リリーが嫌い」とユリに言われたときの動揺はきっと、隠していた感情を言い当てられてしまったから。
「──そうね、悪かったわ」
おやすみなさい。そう言ってジェイを帰らせたその顔は、あのときキンモクセイの前で別れたときと同じ、大人向けの“姫”のものだった。