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「ジェー!ジェー!」
またか、とジェイはいささかうんざりした顔で、こちらへ駆けてくるリリーを見やった。
「ジェー!なにしてるの?」
満面の笑みを浮かべ、息を切らせてまとわりついてくる。まだ五歳ではあったけれど、将来の王位継承者として、ほかの子どもよりも厳しい教育を受けていたリリー。だけれどリリーはいつも、家庭教師の目を盗んではジェイのところへ走ってきた。宮殿内にほかに子どもがいなかったこともあって、いつもまとわりついてきたのを覚えている。そしてそれは、いつもジェイを困らせていた。
リリーに言われるがままに匿えば教師に怒られる。リリーを無視すれば、優しくしてさしあげなさいと親に叱られる。リリーのわがままのせいでジェイはいつも理不尽な思いをしていたのだ。
「またメグ先生の授業を抜け出してきたのかよ」
「…ちがうもん! 今日はおかあさまと一緒だもん」
見ると、少し遅れて王妃が歩いて来ていた。公務で不在がちの王妃に会えるのはめずらしい。
「あら、リリーはいつもお勉強を抜け出しているの?」
王妃に笑いながら問われ、そうだとも違うとも言えないリリーはジェイを恨めしく見やると、
「おにいさん!お花をおしえてー!」
と、その後ろで剪定作業の手伝いをしていた青年のほうへ走っていった。
リリーのやつ、また兄さんに甘えて…。姫様、と優しく微笑み、王妃に礼をとるのは、庭師見習いのフレッドだ。去年、高校を卒業してすぐジェイの父親のもとへ弟子入りをしてきたときは、兄ができたようだとジェイもリリーも大喜びをした。ジェイとリリーにとって、お互い以外でいちばん年が近いのが彼だったのだ。
だからってリリーはいつも、大人に叱られたときはフレッド兄さんの胸に逃げ込むんだ──自分もまたフレッドに甘えていることは棚に上げ、兄を取られたような気持ちでリリーを見やる。
「ジェイ」
王妃に呼ばれて、ジェイはリリーから視線を外し、向き直った。
「いつもリリーと仲良くしてくれてありがとうね」
リリーと同い年のジェイを、国王夫妻はかわいがってくれていた。公務で留守にすることが多く、とくに王様にはあまり会ったことがなかったけれど、王妃様はこうして時々頬をなぜてくれた。優しい王妃様のことは好きだった。
ジェイ、と優しく呼びかける声は、もう思い出せないけれど。
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翌日。
学生寮の部屋を出ると、ユリと鉢合わせた。ジェイが入学して半年後に──ユリの国では春に高校を卒業するためだ──、隣りの部屋に入ってきたのがユリなのだ。
「あ…」
決まり悪げに昨日の発言を謝ろうとするのを遮るように、ジェイはぽん、とユリの頭に手をおいた。気にすんな、というように。何も言えない自分が悪いのだから。
しかしジェイにとっては贖罪の意味を込めていたそれだが、ユリにとっては「拒絶」だった。
また、だ。ジェイは怒ってさえくれない。
この国に来てからユリが気づいたことは、ライグヒト人は常に柔和な笑みを浮かべているということ。それはつまり、他人に感情を見せないためだ。
…遠いなあ。ジェイが、遠い。
そんなさみしさを隠し、当たり障りのない会話を交わしながら大学の近くまでやってくると、ユリの携帯電話が震えた。メールの内容を確認する。
「…あ、わたし1限休講だって」
「残念。あと30分早くわかってたら寝てられたのにな」
「おっ、ちょうどいいとこにいた! 二人とも時間ある?」
見てほしいもんがあるんだ、とロブが小走りで寄ってきた。
「わたしは今できたとこ。ジェイは授業だよ」
時間が空いたら必ずたまり場に行く、とジェイに約束をさせ、ユリを連れていったロブが、たまり場でパソコンの画面に映して見せたのは、女性の写真だった。見たことあるような、ないような。なんとなく不自然な──。
「これ、合成?」
「そ。リリー姫の現在の想像図」
どういうこと?とユリが聞く。
「リリーの写真は公には一枚も残ってないだろ? だから国王夫妻の写真を取り込んで合成して、ハタチくらいにしてみたんだ」
「足して2で割るってやつ…?」
いや、とロブが続ける。
「王妃に似た金髪、っつー新聞記事があるから王妃似と想定して、7対3で王妃の要素を多めにした」
「ふーん…でもそんなの作ってどうすんの?」
「こんどの会誌に載せんだよ」
そういえば、秋には一周年記念誌を作るのだと以前ヨウが言っていた。
そこへ、お、できたのか、とヨウがやって来た。
…ほんとにこの人たちは。いつ来てもこの部屋にいるけど、授業出てんのかしら。ヨウはソツなくこなしそうだけど、ロブは四年じゃ卒業できなさそうだな。
そんなことをユリが思っている間に、先ほどと同じ説明を受けたヨウは、あっさりと言った。
「リリーは国王似だよ」
え、マジで!?とロブが声を上げる。
「髪の色は確かに王妃と同じだけど、顔立ちは国王によく似ている──って、何歳だかの誕生日の記事に書いてなかったかな」
抜かった、やり直しだ、とパソコンに向かうロブに呆れていると、ヨウは驚くことを言った。
「ユリは監修やってね」
会誌の、と、さらりと言う。
「えっ!? なんでわたしが? なんにも知らないのに」
だからだよ、とヨウはコーヒーを淹れながら説明する。
「マニアが集まって作るとどうしても独りよがりになるからね。ちゃんと一般の人にも読んでもらえるものにしたいわけ」
だからユリがチェックしてよ、というヨウの言い分はわからなくもない。
「…じゃあさっそく一般人の感想を言わせてもらうけど。それはちょっと大丈夫かなって思う」
と、ユリはパソコンの画面をちょいちょいと指差す。
「だってさ、もしかしたら本人が目にするかもしれない可能性はゼロではないでしょ? 身を隠してるわけだから、自分の顔が勝手に載るのはいい気持ちしないんじゃないかなあ」
そんな可能性なんて考えもしなかった、とロブがうぅむと唸り、ヨウは、やはりユリを勧誘してよかったと、ニヤリと笑う。
「失踪当時の五歳のときの顔ならまだいいかもしれないけど」
「なるほどね。それなら、こんな小さい子が関係してるんだってことで関心をひくかもしれない。どうだ? ロブ。こないだ作ってたろ」
「じゃあ発表用にはあっちの五歳の想像図のほうにするか」
現在の図も作ることは作るんだ…やっぱりロブの興味ってわからない。ますます呆れるユリに、でもな、とロブが語り出した。
「たぶん、今のリリーはこの顔じゃない」
「…どういうこと?」
「国王一家はおそらく姿形を変えている。人相も色素も」
「どうやって」
「そういう薬があってな。もちろん認可されてないし闇のものだけど、状況からみてそれで身を隠したんだろうってのがいま主流の説」
……こわい。それが正直な感想だった。やっぱり興味本位で関わってはいけないんじゃないの? 好奇心でも興味本位でも、忘れられるよりいいから、とジェイは言ってたけれど。
もともとユリは、ライグヒト王には関心がなかった。この国に王がいたことすら知らなかったほどだ。ただ、たまたま研究室の前を通りかかったときに、寮の隣りの住人・ジェイを見つけて声をかけ──そのユリにヨウが声をかけて、ここに通うようになったのだ。
はじめは戸惑った。ライグヒトの人にとっては大切な存在のはず。何も知らない自分が興味本位で話を聞くのは失礼じゃないか。そう躊躇するユリに、ジェイはぼそりとつぶやいたのだ。忘れられるよりいいから──と。
「薬学部のジョンソン教授がその薬の解毒剤の研究をしてるんだ」
「あ…たしかジェイがいる研究室の…?」
「そう。もと王家の主治医でね、宮殿にいた過去を公表している数少ない1人だよ」
「じゃあユリ、これ読んどいて」
ヨウに手渡された紙の束は、ジェイの書きかけの原稿だった。