序章
15年前までこの国には王がいた。
人々はまだ、国王一家が不在となった経緯を語ることができない。15年は、心の整理をつけるにはあまりにも短くて。
けれどあの頃子どもだった自分にとっては「もう15年」だ。
あんなにいつも一緒にいた彼女の顔だって、今は写真の中のそれしか思い出せない。
私の顔を覚えていて、と言った彼女。
五歳まで一緒に育った彼女。
このまま忘れてしまうのだろうか?
今は行方の知れない、
この国の姫だった彼女のことを。
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数日前から宮殿内は様子がおかしかった。まだ五歳だったから何が起きたのかはわからなかったけれど、その異様な空気は感じ取っていた。
人が、どんどん消えて行く。いつも遊んでくれていた兄さんまで、とうとう出て行ってしまった。
今日は外に出るなと言われていたのを、隠れてそっと抜け出す。使用人の宿舎から宮殿に向かい、少し歩くと、
「ジェー!ジェー!」
いつもとは違う泣きそうな声で、彼女が息をきらせて走ってきた。
「…はぁ…これ…これ、もってて」
渡されたのは写真。
「わたしの写真をもやしているの」
「どうして」
「わたしのかお、変えちゃうの。名前も、変えちゃうの」
「リリーがいなくなっちゃうの?」
「だから、これ、ジェーがもってて」
リリーとジェイが二人で写っている写真。澄まし顔が気に入らないと言っていたのに、咄嗟に持ち出せたのがそれだなんて。
「わたしのかお、ジェーはおぼえていてね」
じゅうぶんには理解しきれないままに、ただただうなずく。
「おぼえてる。わすれないよ。かおが変わっちゃってもリリーのことわかるよ。ちゃんとリリーって呼ぶよ。やくそく…」
小指を差し出そうとしたとき、姫、と呼ぶ大人の声が近づいた。リリーが小声でせかす。
「はやくかくして!」
「姫、写真を持ち出しませんでしたか?」
「…ごめんなさい。これをジェーに渡そうとしたの」
カモフラージュ用に持ち出したもう一枚の写真を侍女に渡すときには、もう大人に見せる顔になっていた。大人の前では決して泣かないリリー。
だから最後に見た顔は、いつものわがままな彼女ではなく、「姫」の笑顔だった。
指切りは間に合わなかった。写真を隠していたから、手をふることもできなかった。
侍女に連れられて彼女が宮殿へ帰っていく。
ただ、キンモクセイの甘い香りだけがその場に残った。