夜ごと愛され、朝には肉が届く
朝の鐘が鳴るころ、領主館から町へ肉が届く。
大きな荷車に、白い布をかけた籠がいくつも積まれている。籠の中には、朝露のように冷えた赤い肉が、家族の人数ごとに切り分けられていた。
骨はなく、筋も少ない。
煮れば柔らかく、焼けば脂が甘い。
「今日も領主様と奥様に感謝を」
肉を受け取った女たちは笑い、子どもたちは籠を覗き込んだ。
去年まで、この領地では麦粥さえ満足に食べられなかった。
三年続いた冷害で畑は痩せ、鶏は卵を産まなくなり、最後の牛は冬を越せずに死んだ。
けれど、新しい領主夫妻が来てから、朝には必ず肉が届く。
領主ラウルは、北方で学んだ新しい飼育法を導入したのだという。
領民の誰も、その牧場を見たことはなかった。
館の裏手に広がる森の、さらに奥にあるらしい。
狼や盗賊から家畜を守るため、立ち入りを禁じているのだと説明されれば、疑う者はいなかった。
「奥様、おはようございます」
館の二階で、エレノアは侍女の声に目を覚ました。
薄い寝衣のまま身を起こすと、腰から下に重い疲れが残っていた。
昨夜も、夫は優しかった。
湯浴みをさせ、髪を乾かし、香油を塗った手で、肩から背中をゆっくりと撫でてくれた。
ラウルは、毎晩のようにエレノアの身体へ触れる。
腕を包み、脇腹を撫で、腰の丸みを確かめる。
とりわけ腿には時間をかけた。
指先で押し、両手で包み、柔らかさを確かめるように何度も撫でる。
「ずいぶん戻ったね」
昨夜、ラウルはそう囁いた。
「何がですの?」
「君の元気が」
彼は笑って、腿の内側へ口づけた。
「昨夜より、ずっといい」
愛されているのだと、エレノアは思った。
結婚して半年になるが、ラウルは一度も彼女を粗末に扱わなかった。
昼間は領主として働き、夜になれば夫として寝室へ戻る。
忙しい日でも、必ずエレノアを抱きしめた。
そのことを町の女たちに話すと、皆が羨ましそうに笑った。
「領主様は、奥様を本当に大切になさっているのですね」
「毎晩だなんて、お若いこと」
エレノアも笑った。
ただ、朝になると身体が妙に重かった。
酒を飲みすぎた翌朝のように頭が霞み、ときには腕や腿に、深いところから疼くような痛みが残っている。
傷はない。
痣もない。
鏡の前で寝衣をめくっても、肌は白く滑らかなままだった。
「昨夜は、少し激しかったのでしょうか」
侍女に尋ねると、年嵩の女は一瞬だけ口を閉ざした。
「旦那様は、奥様を心から愛しておいでです」
答えは、それだけだった。
昼の町は明るい。
窓辺には洗濯物が揺れ、広場には肉を焼く匂いが満ちている。
以前は痩せて泣く力もなかった子どもたちが、今は脂のついた口で走り回っていた。
エレノアが広場へ下りると、皆が手を振った。
「奥様!」
「今日もいただきました!」
肉屋の前には長い列ができていた。
店主が厚い肉を切り分けている。鮮やかな赤身に、白い脂が細く入っていた。
「見事なお肉ですこと」
エレノアが言うと、店主は誇らしげに頷いた。
「今朝のものは、とくに柔らかいですよ。若くて、よく手入れされている」
「牧場の家畜が?」
「ええ。もちろん」
店主は包丁を置き、布で手を拭った。
その動作が、なぜか不自然に早かった。
「何の肉なのです?」
「何、と申しますと」
「牛にしては小さな塊ですし、豚にしては脂が少ないでしょう」
エレノアは、並べられた肉を覗き込んだ。
骨付きの部位を見たことがない。
肋も、脛も、尾もない。
届くのはいつも、腿や腰から切り出したような、厚くて柔らかな肉ばかりだった。
「北方の家畜でございます」
店主は答えた。
「骨がほとんどない種類なのです」
「まあ。そんな動物がいるのですね」
エレノアが感心すると、周囲の人々も笑った。
「奥様は、お肉を召し上がらないのですか?」
「毎朝、いただいておりますわ」
「それなら、奥様がいちばんご存じでしょう。あの肉のおかげで、みんな生きていられるんです」
幼い少女が、母親の籠から小さな肉片をつまんだ。
「奥様のお肉、おいしいよ」
母親が青ざめ、少女の手を叩いた。
「違うでしょう。奥様がくださったお肉よ」
「同じじゃないの?」
「同じではありません」
女は強く言い、エレノアへ何度も頭を下げた。
子どもの言い間違いである。
エレノアは気にしなかった。
その夜、ラウルはいつもより長く湯を使わせた。
侍女たちは花弁を浮かべた浴槽のそばで、エレノアの身体を丁寧に洗った。
腰から腿にかけては、柔らかな布で何度も擦られた。
「そんなに汚れております?」
「清潔にするよう、旦那様から申しつけられております」
湯浴みを終えると、寝台の横には葡萄酒が用意されていた。
甘い香りのする、濃い酒だった。
「全部飲むの?」
「よく眠れますから」
ラウルはエレノアの隣に座り、杯を唇へ運んだ。
半分ほど飲んだところで、指先が温かくなった。
身体の芯が緩み、まぶたが重くなる。
「今日は疲れました」
「町へ行ったそうだね」
「皆、幸せそうでしたわ」
「君のおかげだ」
「わたくしは何もしておりません」
「しているよ」
ラウルはエレノアの寝衣を肩から滑らせた。
鎖骨に口づけ、胸元へ頬を寄せる。
「君ほど、領民を愛している人はいない」
「あなたほどではありませんわ」
「僕は君を愛している」
彼の手が、腹を撫でる。
そこから腰へ下り、腿を包んだ。
「今日は、こちらにしよう」
「どちらに?」
「今夜、愛する場所だよ」
左の腿に口づけられ、エレノアは笑った。
「昨日は右でしたものね」
「ああ。だから今日は休ませる」
酒のせいか、夫の言葉が少しだけおかしく聞こえた。
けれど、考える前に唇を塞がれた。
灯りが揺れている。
ラウルの指が、腿の形をなぞった。
いつものように優しく、念入りに。
「よく育っている」
「太ったということですか?」
「美しくなったということだよ」
「同じ意味に聞こえますわ」
「君は、どれほど柔らかくなっても美しい」
ラウルは笑い、もう一度杯を傾けた。
残った酒が喉へ流れ込む。
意識が沈み始めた。
最後に見えたのは、夫が寝台の横へ置いた銀色の道具だった。
細く、鋭く、燭台の火を反射していた。
真夜中、エレノアは目を覚ました。
目だけが覚めて、身体は動かなかった。
寝室ではない。
白い石壁に囲まれた、冷たい部屋だった。
高い天井から灯りが吊られ、何人もの使用人が無言で立っている。
エレノアは裸で、細い寝台に横たえられていた。
左の腿に、ラウルが触れている。
いつもの温かい手だった。
「目を覚ましたのか」
彼は少し困ったように眉を下げた。
口を開こうとしても、声が出ない。
「心配しなくていい。すぐに眠れる」
ラウルの手には、銀色の刃物があった。
寝台のそばには、大きな銀盆が置かれている。
盆の上には、赤い肉が載っていた。
湯気のようなものが、まだ表面から立っている。
それが何なのか分からなかった。
分かりたくなかった。
「今夜は少し多く必要なんだ」
ラウルはエレノアの腿を撫でた。
「南の村で、熱病が出た。体力をつけさせなければならない」
刃が肌に触れた。
痛みはなかった。
冷たさだけがあった。
「君は眠っているあいだに戻る。朝には、傷一つ残らない」
ラウルの声は優しかった。
初めて聞く説明ではないような気がした。
ずっと昔から、何度も同じ声を聞いていた気がした。
「君の祝福を知ったとき、神に感謝したよ」
刃が沈んだ。
白い肌が開き、その下から赤いものが現れる。
「三年前、君が馬車の事故で腕を失ったときも、夜明けまでに元へ戻った」
使用人が布を受け取る。
白かった布が、すぐに赤く染まった。
「だから分かったんだ。君なら、誰も飢えさせずに済む」
エレノアは叫ぼうとした。
喉は動かなかった。
ラウルは慣れた手つきで、腿から肉を切り取った。
厚く、柔らかな肉だった。
銀盆へ置かれたそれは、昼間、肉屋で見たものと同じ形をしていた。
「大丈夫」
ラウルは身を屈め、涙の溜まったエレノアの目元へ口づけた。
「僕は君を愛している」
その言葉だけは、嘘ではなかった。
「だから毎晩、僕が切るんだ。ほかの男には触らせない」
薬が再び意識を沈めた。
最後に、ラウルの声が聞こえた。
「明日の分も、よく取れた」
朝の鐘が鳴った。
領主館から、町へ肉が届く。
荷車の周囲に人々が集まり、今日も領主夫妻へ感謝を捧げていた。
エレノアは自分の寝台で目を覚ました。
左の腿が、深いところから疼いている。
寝衣をめくる。
傷はなかった。
滑らかな肌が、朝の光を受けて白く輝いていた。
夢だったのだろうか。
けれど枕元には、葡萄酒の甘い匂いが残っている。
朝食が運ばれてきた。
白い皿の上に、焼きたての肉が載っていた。
表面には香草が散らされ、切れ目から透明な肉汁が溢れている。
「今朝は、たいへん上等な部位でございます」
侍女は俯いたまま言った。
「旦那様が、奥様には必ずこちらをお出しするようにと」
エレノアはナイフを握った。
刃を入れると、肉は抵抗もなく切れた。
驚くほど柔らかい。
一切れを口へ運ぶ。
甘い脂が舌の上で溶けた。
よく知っている味だった。
毎朝、食べてきた味だった。
扉が開き、ラウルが入ってきた。
「おはよう、愛しい人」
彼は何事もなかったように微笑み、エレノアの頬へ口づけた。
「昨夜はよく眠れたかい?」
エレノアは答えなかった。
皿の肉と、自分の左腿を見比べる。
ラウルは向かいの椅子へ座り、満足そうに彼女を眺めた。
「今日は町へ行こう。皆が君に感謝している」
「何に、ですの」
「君がここにいてくれることに」
窓の外では、子どもたちが笑っている。
家々の煙突から、肉を焼く煙が上がっていた。
去年まで死にかけていた町が、朝日を浴びて輝いている。
エレノアはもう一切れ、肉を切った。
逃げれば、明日の肉は届かない。
夫を告発すれば、北方の牧場など存在しないと知れ渡る。
そのあとの冬を、町の者たちは越せないだろう。
逃げたいと思ったはずなのに、その言葉は朝の鐘に紛れ、もう自分のものではないように思えた。
「今夜は、どちらになさるの?」
エレノアは尋ねた。
ラウルの瞳が、喜びに細められた。
「右を。左は休ませよう」
「そう」
エレノアは肉を噛んだ。
昨日より柔らかく、少しだけ甘かった。
私はラムもマトンも好きです。
美味しいですよね、肉。




