夫、毎晩鍵をかけてマッサージチェア。中からは知らない女の喘ぎ声
結婚してまだ一か月も経たないうちに、俊介は引っ越し業者に頼んで、奇妙な形をした「ジェミニ」というマッサージチェアを運び込んだ。銀灰色の金属製ボディは六畳の仕事部屋をほとんど埋め尽くし、隙間なく閉じる曲面カバーは、温度のない口のように見えた。それ以来、毎晩八時から九時まで、あの部屋は私が近づくことを許されない場所になった。俊介は水を一杯持って仕事部屋に入り、内側から鍵をかけ、丸一時間マッサージチェアの中にこもる。壁越しでも、機械の低い駆動音と、彼が抑えきれずに漏らす息遣いや呻き声が聞こえてきた。
一度だけ、俊介が眠っている隙に中へ入ったことがある。背もたれのローラーは背骨に沿って筋肉をほぐすどころか、私の腰回りの柔らかな肉を正確につかみ、異物を追い出すように締めつけた。全身に冷や汗が浮くほど痛かった。それなのに、扉のそばにもたれていた俊介の顔には、吐き気がするほど満ち足りた余韻が残っていた。
「おまえの身体データが合わないだけだ。この椅子は、登録された人間しか受けつけない」
そして、俊介が取引先との会食に出た夜。私は午後七時五十九分、彼に隠れてマッサージチェアに横たわり、接続ボタンを押した。八時ちょうど。暗闇の中で紫色のランプがゆっくりと灯った。人肌のぬくもりを持つ「手」が背中に触れ、背骨をなぞりながら腰へ滑り、そのまま貪るように脚のあいだへ伸びてくる。
けれど、システムが記憶しているのは俊介の身体だった。見えない手はいつもの場所を見つけられず、私の太腿の付け根を何度も空振りした。椅子の内側にある柔らかなパッドが締まり、ずれた感触は次第に苛立ちを帯びていく。画面の向こうにいる誰かが、焦れながら何かを探しているようだった。
次の瞬間、ヘッドレストの上で微かなノイズが走った。紫色の光の中から、甘えるような喘ぎを含んだ女の声が響く。
「俊介、今日……なんだか小さくない?」
1
結婚二十八日目、俊介は専門の搬入業者を四人呼び、全長二メートル近いフルカバー型のマッサージチェアを家に運び込ませた。私たちが暮らしているのは、月城市の湾岸住宅地にある中古の2LDKマンションだった。頭金は結婚前に私が出して購入し、結婚後、そのうちの六畳の洋室を二人で使う仕事部屋にする予定だった。
ところが、椅子が置かれた途端、部屋には身体を横にしなければ通れないほどの細い隙間しか残らなかった。外装は冷たい銀灰色に光り、ぴたりと閉じる曲面カバーの正面には、まだ点灯していない紫色のライトが埋め込まれている。背もたれ、肘掛け、脚部は確かにマッサージチェアの形をしていたが、全体は横倒しにされた金属製カプセルのようだった。
「もっと慎重に! 土台をぶつけるな!」
俊介は戸口に張りつき、片手をドア枠に当てたまま、引っ越しのとき以上に神経質な顔をしていた。
「海外の特注モデルなんだ。塗装を少しでも傷つけたら、あんたたちの一か月分の給料じゃ済まないぞ」
搬入責任者は一度だけ俊介を見たが、言い返さず、仲間に固定ベルトをかけ直すよう指示した。部屋の中央に本体を据え、搬入確認書への署名を終えると、四人はすぐに帰っていった。私は戸口に立ったまま、金属の外装をゆっくり見回した。
「こんな大きなものを買うのに、どうして先に相談しなかったの?」
「いくらしたの?」
俊介は横に一歩出て、ちょうど操作パネルを隠した。
「大した額じゃない。取引先の展示品を、社員向けの特別価格で譲ってもらったんだ」
「最近、法人営業第二課のノルマがきついんだよ。毎日、病院や介護施設を何件も回って、肩が壊れそうなんだ。家で少しくらい身体を休めるのに、おまえの許可が必要なのか?」
俊介は医療・介護機器を扱う商社、凌光メディカルシステムで法人営業をしていた。病院やリハビリ施設に、電動ベッドや介護ロボットを提案する仕事だ。だが、会社は社員個人の機器購入を厳しく管理している。それに、この椅子には日本語の銘板すらなく、国内で医療機器として承認・認証された形跡もない。会社が展示品として扱える代物には見えなかった。
私はすぐには追及せず、曲面カバーの縁に手を触れた。
「私も最近、腰が痛いの。先に試させて」
ぱしん、と乾いた音がした。手の甲に鋭い痛みが走り、すぐに赤い跡が浮かび上がる。
「勝手に触るな!」
手を押さえながら、私は俊介を見上げた。
「まだ結婚して一か月も経っていないのに。こんな機械のために、私を叩くの?」
俊介の目が一瞬泳いだ。だが、すぐに苛立ったように髪をかきむしる。
「わざとじゃない。このモデルは初期調整が終わっていないんだ。適当に動かしたら怪我をする」
「最初に登録した使用者の身体データしか受けつけない。調整が済むまで待て」
俊介は私の肩をつかみ、廊下へ押し出した。扉が大きな音を立てて閉まり、電子錠が短く鳴る。それまで鍵をかけたことなどなかった仕事部屋が、その日初めて、私の前で立入禁止の場所になった。その夜、十一時を回ったころ、私はトイレに起きた。仕事部屋の前を通ると、扉の下から暗い赤色の光が漏れている。
中から、ごく低いモーター音が聞こえた。一定の唸りのあいだに、湿った何かがこすれる音が混じっている。俊介は寝室で眠っていた。酒の熱気をまとい、重い寝息を立てているのを、さっき確かめたばかりだ。
ドアノブを握ると、電子錠がきちんとかかっていなかった。部屋に入ると、マッサージチェアの表示灯がゆっくり点滅していた。暗闇の中で開いた目のようだった。曲面カバーの脇に緑色のボタンがある。数秒迷った末、私はそれを押した。
カバーが音もなく開く。内側には、柔らかな黒い人工皮膚素材が敷き詰められていた。背もたれの両側には温度センサーがあり、ヘッドレストの上には折り畳まれたVRゴーグルまで収納されている。
高級なリハビリ機器に見えなくもなかった。私は腰を下ろした。背中がパッドに触れた瞬間、曲面カバーが自動的に閉じる。暗闇が落ち、二列のローラーが腰の後ろからゆっくり上がってきた。
次の瞬間、ローラーは背骨のラインを外れた。腰の横にある肉をつかみ、内側へ容赦なくねじり上げる。
「痛っ……!」
鈍い刃物を押し込まれたような痛みが走った。私は必死で内壁を叩いたが、指は滑らかな表面に引っかからない。停止するどころか、ローラーはさらに強く締まり、入るべきではない人間を乱暴に追い出そうとしているようだった。寝巻きが冷や汗で濡れた。息もできなくなりかけたとき、外から駆けてくる足音が聞こえた。
曲面カバーが力任せに引き開けられ、俊介が私の腕をつかんで外へ引きずり出した。床に転がった私の腰は、すでに青く腫れていた。俊介は私を見もしなかった。先に黒い内張りを撫で、操作パネルに触れ、紫色のライトが点くことを確認してから、ようやく振り返る。
「俺の話を聞いていたのか?」
「今、あれに締めつけられたの」
「身体データが合っていないからだ」
俊介の視線が私の腰回りをなぞり、口元に露骨な侮蔑が浮かんだ。
「標準体型に合わせて作られているんだ。最近、スカートがきついって言ってただろ。姿勢を強制的に補正されただけだ」
私は机に手をついて立ち上がった。そのとき、俊介の部屋着に目が止まった。二時間前、風呂から出た彼は、紐のないボクサーパンツをはいていた。だが今、腰には濃い灰色のスウェットパンツがあり、紐は固く結ばれている。俊介は、ただベッドから起きてきたわけではない。
少なくとも、それだけではなかった。
2
その日から、俊介は新しい決まりを作った。毎晩八時から九時まで、仕事部屋には誰も近づいてはいけない。七時五十五分になると、氷水を一杯持って中へ入り、扉に鍵をかけ、スマートフォンの通知を切る。そして丸一時間、出てこない。
うちのマンションは、極端に壁が薄いわけではない。それでもテレビの音量を上げても、扉の向こうから低い呻きが聞こえてきた。マッサージの刺激で思わず漏れる声ではない。荒い息遣いと、人工皮膚素材が何度も押しつぶされる鈍い音が、一定の間隔で続いていた。ときどき俊介は、限界まで耐えた人間のように、喉の奥から制御を失った声を漏らす。
私はソファに座ったまま、手足が冷えていくのを感じていた。
九時ちょうど、電子錠が鳴る。俊介はドア枠につかまりながら出てきた。前髪は汗で濡れ、頬には不自然な赤みが差している。足元はふらついているのに、目だけが異様に輝いていた。長い夢から覚めたばかりのようだった。
「中で何をしているの?」
俊介はダイニングテーブルの水をつかみ、一気に半分以上飲んだ。
「身体をほぐしているだけだ」
「普通のマッサージで、鍵までかける必要がある?」
「紗和、最近、暇なんじゃないか?」
グラスが乱暴に置かれ、水が縁から跳ねた。
「昼間は六か所も回って、帰ってから見積書をまとめてるんだ。家で一時間、自分の機械を使うだけで、いちいち監視されなきゃならないのか?」
「だったら扉を開けて。私にも見せて」
一歩踏み出した途端、俊介が廊下の真ん中に立ち塞がった。
「触るな」
「ここは二人で暮らす家でしょう」
「住宅ローンだって、今は俺も払ってる」
俊介が私の肩を突き飛ばした。腰がローテーブルの角にぶつかり、目の前が白くなる。
「もう一度入ってみろ。今度はただじゃ済まないぞ」
そのとき、玄関から解錠音がした。義母の富美子が、保温バッグを二つ提げて入ってきた。慣れた手つきで靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。まるで今も、ここが息子の一人暮らしの部屋であるかのようだった。
俊介は私に黙って、スマートロックの家族用権限を義母に渡していたらしい。私はその場で初めて知った。テーブルにつかまる私を見ても、義母は駆け寄ってこなかった。ただ、ゆっくり眉をひそめた。
「廊下にまで声が響いていたわよ。新婚早々こんな騒ぎを起こして、管理組合に知られたらみっともないでしょう」
俊介はすぐに声を弱めた。
「母さん、俺は身体を休めるための機械を買っただけだよ。紗和が毎日、中で何かやましいことをしてるんじゃないかって疑うんだ」
義母は保温バッグをテーブルに置き、ファスナーを開けた。中には牡蠣ご飯と、長ねぎの味噌汁が入っていた。
「紗和さん。男の人は外で働いて、家に帰ったら一人で落ち着く時間も必要なの。奥さんがあまり神経質だと、家にいても息が詰まるわ」
「毎日一時間、鍵をかけているんです。中から聞こえる声も、どう考えてもマッサージじゃありません」
義母はまぶたをわずかに持ち上げた。表情は穏やかなままなのに、言葉だけが細い針のように刺さってくる。
「機械にまで嫉妬するの?」
「俊介は昔から、ストレスに弱い子なの。妻なら、せめて家では楽にしてあげたら?」
私は俊介を見た。彼はテーブルにもたれ、審判に味方してもらった子どものように、勝ち誇った笑みを浮かべていた。義母は牡蠣ご飯を取り出し、小さくため息をつく。
「隣の松永さんのお嫁さんは、結婚して三か月で妊活を始めたそうよ。あなたたちも、そろそろ考えたほうがいいんじゃない? 仕事ばかりして身体を冷やしていたら、あとで大変よ」
「まだ結婚して二十八日です」
「若いうちだからこそ、時間を無駄にしちゃだめなの」
俊介は私の横を通り過ぎるとき、わざと耳元に顔を寄せた。
「おまえがあの機械の半分でも柔らかければ、毎晩入る必要なんてないんだけどな」
声は低かったが、悪意は隠そうともしていない。
「中の締まり方も力加減も、俺にぴったりなんだ。寝てるだけのマグロには耐えられないだろ」
私はその場で動けなくなった。締まり方。肩や腰をほぐす機械について、なぜそんな言葉が出てくるのか。廊下の奥では、仕事部屋の紫色の表示灯がゆっくり点滅していた。完全には閉じていない口のように、暗闇の中で次の餌を待っていた。
3
三日後、俊介は取引先との会食に出ることになっていた。濃紺のスーツに着替え、玄関でいつもより多く香水を吹きつける。出かける直前、彼はドアロックに指を置いたまま振り返った。
「今夜は遅くなる」
「仕事部屋には入るな。機械にも触るなよ」
「監視カメラが切れたら、すぐ分かるからな」
扉が閉まる。私はリビングの窓辺に立ち、俊介の車が地下駐車場から出ていくのを見届けた。時計は午後七時五十分。あの機械が毎晩決まって動き出す時刻まで、あと十分しかない。
仕事部屋には鍵がかかっていなかった。フルカバー型のマッサージチェアが、部屋の中央に静かに鎮座している。表面には埃一つない。俊介は毎日、結婚指輪より丁寧に磨いていた。私は上着を脱ぎ、椅子に身体を横たえた。
緑色の起動ボタンが点灯すると、曲面カバーが素早く閉まった。パッドが手足を支え、紫色のライトが狭い内部を縁取る。前回のような痛みが来るのを待った。だが、機械は不気味なほど静かだった。微かな電流音だけが、耳のすぐそばを這っている。
八時ちょうど。
「ピッ――」
内部の温度が急に上がった。甘ったるい香りを含んだ温風が肌を撫でる。身構える間もなく、人肌のぬくもりを持つ「手」が背中に触れた。ローラーではない。
指先にはざらつきがあり、掌は温かい。あまりにも生々しい感触に、頭皮が粟立った。その手は背骨をなぞってゆっくり下り、腰で一度止まり、明らかな誘いを含んでさらに下へ滑っていく。私は身をよじった。だが、両脇から飛び出したパッドが手首と足首を固定した。
見えない手は腰を越え、太腿の付け根を貪るようにつかもうとする。システムに保存されているのは俊介の身体の輪郭だった。私とは位置がまるで合わない。何度も空振りし、認識に失敗するたび動きは苛立ちを増し、力が荒くなっていく。
内張りの柔らかな素材が一定のリズムで締まった。振動が肌を這い、吐き気を催すような衝撃を再現する。こめかみから流れた汗が髪に入り込んだ。私は顔をそむけ、胃の奥からせり上がるものをこらえた。
「止めて!」
「固定を解除して!」
音声システムは応答しなかった。突然、頭上で耳障りなノイズが弾けた。続いて、女の甘い喘ぎが、閉ざされた空間いっぱいに広がる。
「俊くん、今日……なんだか小さくない?」
「まさか、また奥さんに相手してもらったの?」
女はくすりと笑った。語尾が蜜のようにまとわりつく。
「ほかの人に使う分なんて残さないで。今夜は全部、私にちょうだい?」
全身の血が逆流したような感覚に襲われた。これは、あらかじめ登録された音声ではない。海の向こうにいる生身の女が、この椅子を通して、俊介だと思い込んでいる相手に触れている。私は膝を曲げ、曲面カバーの下にある赤い非常停止ボタンを思い切り蹴った。
「ガンッ!」
カバーがわずかに開き、甲高い警報が鳴り響く。
【警告。使用者の生体データが一致しません】
【警告。双方向接続を中断します】
手足の固定がようやく解けた。私は這うようにして外へ転がり落ちた。胸が激しく上下し、服は冷や汗で濡れている。赤いランプが狂ったように点滅していた。
ゆっくりと脈打つ黒い内張りを見た瞬間、胃酸を抑えきれなくなった。机に手をつき、何度もえずいた。
4
俊介の私物のパソコンは、机の下に置かれていた。マッサージチェアの制御ソフトがまだ起動したままで、画面には接続エラーの通知が表示されている。そのパソコンは結婚前に二人で購入したもので、OSのアカウントも共用していた。ただし、非表示にされたフォルダだけは別のパスワードが設定されていた。美玲の誕生日だった。
以前、俊介は、大学時代から何となく使っている数字で、特別な意味などないと言っていた。六桁の数字を入力すると、一度で開いた。あまりにも皮肉で、笑いそうになった。
ブラウザのブックマークの最下部に、暗号化された海外フォーラムが隠されていた。医療機器やリハビリ装置のサイトではない。ページ上部には「ジェミニ遠隔パートナーシステム」と表示されている。固定された説明文には、二台一組のペアリング、体温同期、圧力フィードバック、心拍の再現、体液データの収集、そして相手の動きに応じた触覚反応の生成機能まで、詳細に書かれていた。
このマッサージチェアは、一台では販売されない。同じアカウントに登録した二台を同時に起動することで、初めて「距離を越えた完全な触れ合い」が成立するらしい。俊介の購入履歴を開き、削除済みの注文から三百八十八万円の決済記録を見つけた。海外配送費、改造用モジュール、関税を合わせると、総額は四百六十万円近い。二つの配送先が、画面に並んでいた。
一つは、私たちのマンション。もう一つは、海外の港町にあるアパートメント。受取人は、水野美玲。何度も聞かされた名前だった。俊介が大学時代に付き合っていた女性だ。
三年前、美玲は珍しい血液疾患を患い、日本を離れて長期治療を受けている――俊介はそう話していた。結婚前、彼は私の手を握り、目を赤くしながら約束した。過去はもう終わった。これからは紗和と穏やかな家庭を築きたい、と。彼にとっての「終わった」とは、小さなマンションの頭金に近い金額を使い、体温と欲望を交換できる二台のマッサージチェアを買うことだったらしい。
パソコンの「営業資料」というフォルダの中には、仕事部屋の監視カメラ映像がクラウド保存されていた。私が機械に近づくのを防ぐため、俊介は煙感知器の横に小型カメラまで取りつけていたのだ。直近の映像を開く。俊介は裸で椅子に横たわり、上半分の顔をVRゴーグルで覆っていた。身体は中心部のユニットに密着し、快感に歪んだ口元から、美玲の名前が何度も漏れている。
「美玲……もっと締めて」
「愛してる」
「あいつなんか、おまえの指一本にもかなわない」
私は音声を消した。それでも、彼の唇が何度も動いているのは分かった。注文履歴、製品説明、海外送金、接続ログ、監視映像。すべてを暗号化した外付けドライブと、自分のクラウドストレージに保存した。最後のファイルのコピーが終わった瞬間、玄関の電子錠が回る音がした。
俊介が予定より早く帰ってきた。靴も脱がず、まっすぐ仕事部屋へ走ってくる。
「紗和! どうしてコントローラーがオフラインになってるんだ!」
扉を開けたところで、声が途切れた。私は机のそばに立ち、手にはVRゴーグルを持っていた。画面には、美玲の海外住所が表示されたままだった。俊介の顔から血の気が引いた。
短い沈黙のあと、彼は獣のように飛びかかってきた。私の手からゴーグルを奪い、胸に抱え込む。
「誰が俺のパソコンを調べていいと言った!」
「四百六十万円も使って、初恋の相手とつながるための装置を二台買ったのね」
私は一歩も退かなかった。
「毎晩八時、これを使って美玲と身体をつないでいた」
言葉を一つずつ、はっきり落とした。
「私との結婚は、現実でまともな夫を演じるための隠れ蓑だったのね」
俊介の顔が白から赤へ変わり、首筋に青い血管が浮き上がった。
「おまえには何も分からない!」
「美玲は海外で治療してるんだ。一人で病室にいて、いつ心が折れてもおかしくない。俺はただ、そばにいてやってるだけだ!」
「そばにいるために、裸になって機械に入るの?」
「精神と感覚を使ったケアなんだ!」
俊介の手が上がった。酒の匂いをまとった掌が、私の顔へ振り下ろされる。私はその手首をつかみ、力いっぱい振り払った。
「もう一度私に触れたら、この映像を会社のコンプライアンス窓口に提出する」
俊介の動きが止まった。凌光メディカルシステムは、社員が無承認の海外製品を私的に輸入したり、違法な改造ソフトを使用したりすることを厳しく禁じている。まして俊介は、取引先の展示機だと嘘をついていた。会社が入手経路を調べれば、営業担当から外され、懲戒処分を受ける可能性もある。医療機関との信用も失うだろう。
「できるものなら、やってみろ」
「その言葉、忘れないで」
俊介は長いあいだ私を睨みつけていた。やがてスーツの上着をつかみ、扉を叩きつけるようにして出ていった。仕事部屋に静けさが戻る。マッサージチェアは、途切れ途切れにエラー音を鳴らしていた。神経を切断されたあとも、まだ完全には死んでいない身体のようだった。
5
翌朝、私は西村法律事務所を訪ねた。西村弁護士は一通り話を聞いても、映像の内容について感想を口にしなかった。確認したのは、マンションの登記、住宅ローンの支払い履歴、生活費口座、そして機械の代金がどこから出たかという点だった。購入費の大半は、結婚後の共同貯蓄から支払われている。さらに百六十万円が、「治療支援」という名目で美玲へ送金されていた。
「まず、今ある証拠を保全しましょう。相手のアカウントへ新たにログインしたり、海外サーバーへアクセスしたりしないでください」
「機械そのものは分解しても大丈夫ですか?」
「デジタル・フォレンジックの専門会社か、作業工程を記録して報告書を出せる技術者に依頼してください。確認するのは端末内のログと安全状態だけです。破壊的な作業や、海外側への侵入はさせないように」
午後、西村弁護士の紹介で、デジタル・フォレンジック会社の技術者がマンションに来た。佐久間涼は三十代前半で、髪を明るい金色に染めていた。会社名の入った作業服を着て、大きなケースを持っている。最初に機械の外観、製造番号、配線状態を撮影し、私に作業確認書への署名を求めた。
「日本で正規流通している医療機器ではありませんね」
椅子の周囲を一周し、底部を調べた佐久間が手袋を外した。
「元の製品は、没入型のパートナー機器だったのかもしれません。ですが、別の制御基板が追加されていて、安全制限も解除されています。ここまで改造されたら、もう原型とは別物です」
「中のデータは取り出せますか?」
「本体に保存された接続ログなら可能です。海外側には触れません」
外装を外すと、床いっぱいに配線、センサー、人工皮膚素材が広がった。佐久間は底部から複雑な中心ユニットを引き出した。中央には透明な収集バッグが接続され、中に濁った液体が残っている。
「ここで使用者の体液を採取して、粘度や温度、圧力のデータを相手側へ送る仕組みです」
そこで言葉を切り、初めて露骨に顔をしかめた。
「はっきり言えば、これはマッサージチェアではありません。身体反応を遠隔で同期させる、成人向けの装置です」
玄関から大きな音がした。本体のオフライン通知を受けた俊介が、会社から戻ってきたのだ。仕事部屋へ駆け込み、分解された外装と床一面の部品を見た瞬間、俊介の頬が痙攣した。
「何をしてる!」
彼は床に飛びつき、取り外された黒い内張りを抱きしめた。傷ついた人間を守るような動きだった。
「誰が勝手に分解した! 元に戻せ!」
「家の中に置かれていた機械です。弁護士の指示で、証拠保全をしています」
俊介が顔を上げる。目は血走っていた。
「美玲とつながる唯一のものを壊したな!」
「殺してやる!」
俊介が私に突進した。佐久間が間に入り、腕を取って下へ押さえ込む。俊介は膝から崩れ、床に強く打ちつけた。そのとき、玄関の電子錠がもう一度鳴った。
義母が、うなぎ弁当の入った紙袋を提げて入ってきた。顔にはまだ笑みがあった。
「俊介、うなぎを買ってきたわよ。温かいうちに――」
床一面の部品を見て、言葉が止まった。紙袋が手から落ち、容器の蓋がずれて、たれが玄関の床にゆっくり広がる。
「紗和さん、俊介の機械を分解したの?」
「これがいくらしたか、分かってるの?」
俊介は佐久間の手を振りほどき、母親の後ろへ下がった。
「母さん、こいつが知らない男を家に入れて、俺の機械を壊したんだ!」
義母は息子の前に立ち、唇を細く結んだ。
「夫婦喧嘩をしても、相手の物を勝手に壊していいわけじゃないでしょう。そんなことをして、これからどうやって一緒に暮らすつもりなの?」
私はスマートフォンを手に取り、リビングのスピーカーへ接続した。女の甘い声が、部屋中に響いた。
「俊くん、今日……なんだか小さくない?」
「ほかの人に使う分なんて残さないで……」
義母の表情が固まった。俊介が一歩で私との距離を詰める。
「止めろ!」
「機械の音声機能にすぎない!」
「毎日家には帰ってるし、外でホテルに入ったわけでもない。どれだけ本物らしくても、相手は機械だ。肉体関係じゃない!」
義母はスピーカーから息子の顔へ視線を移した。短い動揺のあと、ゆっくり背筋を伸ばす。
「家に女を連れ込んだわけじゃないなら、まだ話し合えるでしょう」
「仕事で疲れている男の人が新しい機械を使っただけよ。外の店へ行くより安全じゃない」
佐久間は床から透明な収集バッグを拾い上げた。
「奥さん、これは音声玩具ではありません」
「中に残っているのは、息子さんが使用するたびに排出した体液です。この機械は、そのデータを海外の端末へリアルタイムで送っています」
義母の顔から、ゆっくり血の気が引いていった。口元を押さえ、ドア枠につかまってえずく。俊介は足元の部品を蹴り飛ばした。
「黙れ!」
「おまえたちは機械しか見てない。治療のあと、美玲がどれだけ苦しんでるか知らないんだ!」
「俺がそばにいなかったら、あいつはとっくに耐えられなくなっていた!」
話すほどに声は熱を帯び、目元が赤くなっていく。自分の犠牲に、自分自身が酔っているようだった。私は書類袋から数枚の写真を出し、俊介の前へ投げた。
写真の中で、美玲はビキニ姿で豪華なクルーザーのデッキに立っていた。若い男たちに囲まれ、シャンパンを掲げて笑っている。長期入院を続ける患者には到底見えない、健康的で華やかな笑顔だった。俊介は一枚を拾い上げ、指を震わせた。
「ありえない」
「これは病気になる前の写真だ。今は毎日、病室で俺の接続を待ってる」
佐久間がタブレットの画面を俊介へ向けた。
「端末内のログでは、相手側の機器は長期間、四つの別アカウントから同時接続を受けています」
「二人専用だったプログラムが、複数接続に改造されています。昨夜あなたが接続していた時間にも、ほかに三つのアカウントがオンラインでした」
俊介は画面を凝視したまま、口を開いた。だが、声は出なかった。海を越えて愛する女性を救っている、たった一人の恋人。そう信じていた彼は、美玲につなぎ止められている四人の男のうちの一人にすぎなかった。
6
義母は俊介へ向き直ると、立て続けに二度、頬を張った。
「何百万円も使って、こんなものを買ったの?」
「しかも一人の女に、四人同時につなぎ止められていたなんて!」
俊介の顔が横を向いた。それでも、すぐに母親を見返す。
「美玲はそんな女じゃない。誰かにアカウントを乗っ取られたんだ」
「俺にしか救えないって言ったんだ」
義母の胸が大きく上下する。だが、視線はすぐに私へ戻った。責任を押しつける先を探すことだけは、考えるまでもないらしい。
「このことは会社に知られたらだめよ。親戚にも絶対に話さないで」
「結婚したばかりで、こんな騒ぎを起こしたなんて知られたら、高梨家は親戚に顔向けできないわ」
私は義母を見つめたまま、言い返す気力を失った。息子の裏切りに理由を与え続ける人間も、自分の失敗を愛と呼び続ける人間も、事実を突きつけたところで目を覚まさない。事実は、彼らを改心させるためではなく、私の人生から追い出すために必要だった。私はバッグから離婚届と、弁護士が作成した財産一覧を取り出し、ダイニングテーブルに置いた。
「署名して」
俊介は用紙の上部にある「離婚届」の文字を見た瞬間、飛びついて紙を破いた。
「離婚はしない」
「家も金も持って出ていけると思うな」
義母も玄関の前に立ち塞がった。
「結婚して一か月で離婚なんて、親戚に何と言われると思ってるの? 俊介をここまで追い詰めて、自分だけ何事もなかったように出ていくつもり?」
細かく裂けた紙が床に落ちた。私は拾わなかった。
「協議離婚は、体面を保ったまま終わらせる最後の機会でした」
「今朝、西村弁護士を通して、月城家庭裁判所に夫婦関係調整調停を申し立てました。登記簿、ローン明細、生活費口座の履歴、海外送金、機械の購入記録も、すべて財産資料として整理しています」
俊介の口元がひきつった。
「あの家のローンは、俺だって払ってる」
「頭金と購入時の諸費用は、結婚前に私が支払いました。そこは私の特有財産です。結婚後に共同で返済した部分は、法律に従って計算します」
「あなたが勝手に使った共同貯蓄、美玲への送金、機械の残存価値、慰謝料の請求も、すべて含めて精算することになります」
私は床に落ちた紙のうち、俊介の名前が残っている一片だけを拾った。
「何もかも突然失うわけじゃない。あなたに回るはずだった分が、自分で作った損失を埋めるだけ」
怒りで歪んでいた俊介の顔に、初めて本物の恐怖が浮かんだ。
「紗和、一時の気の迷いだったんだ」
「機械は捨てる。もう一度やり直そう」
私の脚に抱きつこうと手を伸ばした。私は一歩後ろへ下がった。
「機械は捨てられません」
佐久間が顔を上げた。
「証拠品です。それに、重大な故障のある危険な装置でもあります」
私は佐久間を見る。
「ログの複製を終えたら、封印できる状態まで戻してください」
佐久間は外した制御基板を絶縁ケースに戻し、外装を組み直した。作業が終わると、操作パネルに赤い封印シールを貼り、使用停止の警告書を机の目立つ場所に置く。
「加熱ユニットに腐食があります。ロック機構も改造ソフトの影響を受けています」
「製造元の点検を受けるまで、絶対に通電しないでください。安全ロックを解除して強制起動すれば、圧迫、熱傷、神経損傷につながる可能性があります」
俊介は、再び閉じた曲面カバーを見つめていた。長いあいだ食事を与えられていない人間が、目の前の料理を見るような目だった。私はキャリーケースを引き、玄関へ向かった。
「どこへ行くんだ?」
「両親が残した家に、しばらく移ります」
俊介が二歩ほど追ってきた。
「アカウントのパスワードを置いていけ」
「あれは俺の機械だ!」
私はドアノブを握り、振り返った。
「警告は、誰にでも分かるように書いてある」
「今夜は入らないほうがいいわ」
扉が閉まる直前、消えた紫色のライトの横に立つ俊介が見えた。その顔に後悔はなかった。接続を強制的に中断された人間の、焦燥しかなかった。
7
マンションを出た最初の夜、私は古い家のベランダでコーヒーを飲んでいた。月城市の旧市街にある、築年数の経った1LDKだった。両親が亡くなったあと、ずっと空き家にしていた。
オートロックはなく、浴室も狭い。それでも、きちんと掃除すれば清潔で静かだった。窓からは低い住宅街と、遠くの高架を走る電車が見える。秘密で膨れ上がった新婚のマンションより、ずっと息がしやすかった。午後七時五十分、俊介からメッセージが届いた。
「調停を申し立てたくらいで、俺が怖がると思ってるのか?」
「美玲は説明してくれた。クルーザーの写真は治療前のものだ。複数接続もシステムテストだった」
「美玲はおまえより優しいし、男のことも分かってる」
「離婚したって、俺には美玲がいる。誰にも相手にされないマグロ女はおまえのほうだ」
私は返信しなかった。壁の時計の秒針が、ゆっくり進む。八時ちょうど。俊介が赤い封印を剥がす姿が、簡単に想像できた。
製造元の点検を待つはずもない。接続をやめろという警告も信じないだろう。美玲から「今夜、会いたい」と一言届けば、あらゆる危険を、私が嫉妬してついた嘘だと思い込む。後日、消防の現場記録、保険会社の調査、機器のログ、そして俊介自身の説明から、その夜に起きたことが明らかになった。
午後七時四十七分、俊介は海外フォーラムから旧版の改造パッチをダウンロードした。工程モードへ入り、安全ロックを解除し、温度保護まで無効にして、同期強度を最大に設定していた。美玲へ送ったメッセージには、「機械は壊れていない。今夜、証明する」と残されていた。
曲面カバーが閉じたあと、腐食していた加熱ユニットの温度が急上昇した。ロック機構は誤作動を起こして締まり続け、中心ユニットは身体からの反応を検知しても圧力を下げなかった。俊介がいつもの同期状態に入った直後、灼熱と圧迫が同時に襲った。
「うわあああっ!」
叫び声が六畳の壁にぶつかり、閉じた椅子の中へ跳ね返った。俊介は非常停止ボタンを何度も叩いた。だが、改造プログラムのせいでシステムは応答しない。過熱した潤滑液が傷んだ配管から中心部へ漏れ、人工皮膚素材が脆い部分を強く挟み込んだ。痛みは、無数の電気針が神経へ食い込むようだった。
海外にいる美玲の機器にも、異常なフィードバックが送られた。触覚モジュールが突然収縮し、痛覚シミュレーションが最大まで跳ね上がる。美玲は叫びながら接続を切り、すぐにペアリングを解除した。俊介のスマートフォンに、短い通知が表示された。
【相手がペアリングを解除しました】
俊介は二十分近く、椅子の中に閉じ込められていた。義母は仕事部屋の外で何度か名前を呼んだ。中の絶叫が途切れ途切れの息に変わると、家族用の暗証番号で扉を開け、119番に電話した。指令員の案内に従い、玄関脇の分電盤から仕事部屋のブレーカーを落とす。俊介に意識と呼吸があることを確認し、挟まれている部分を無理に引き抜かないよう指示された。
救急隊は曲面カバーを工具で外し、俊介を月城総合医療センターへ搬送した。一晩かけて救命処置と洗浄、壊死組織の除去手術が行われた。翌日の午後、主治医は義母を診察室へ呼んだ。
「局所に重度の熱傷と圧迫損傷があります。末梢神経にも影響が出ています」
「今後、複数回の再建手術を行っても、受傷前の状態まで戻るのは難しいでしょう。排尿には長期的な補助が必要になる可能性があります。性機能についても、現時点では回復の見通しをお伝えできません」
義母は壁に手をついて診察室を出ると、廊下の長椅子に長いあいだ座っていた。病室の俊介は、身体の痛みも忘れたように、スマートフォンから美玲へ何度もメッセージを送っていた。
「美玲、話を聞いてくれ」
「機械が壊れたんだ。傷つけるつもりじゃなかった」
「今、病院にいる。一度でいいから返事をしてくれ」
すべてのメッセージに、灰色の未送信マークがついた。俊介は海外フォーラムへログインし、中古売買の欄で、投稿されたばかりの記事を見つけた。投稿者は、水野美玲だった。
【ジェミニ・マッサージチェア。使用回数少なめ。以前の接続相手の機器が劣化しており、異常フィードバックが発生したためペアリング解除済み。格安で譲ります】
状態を尋ねるコメントに、美玲はすぐ返事をしていた。
「最悪だった。日本の男は金もないくせに見栄ばかり張って、修理代すら払おうとしないの」
「奥さんに家を追い出されて、仕事も危ないらしい。巻き込まれて本当に迷惑」
俊介は画面を凝視した。喉の奥から、奇妙な音が漏れる。
「嘘つき……」
「みんな嘘つきだ!」
手の甲の点滴針を引き抜き、ベッドから下りようとした。両足を床につけた瞬間、怪我の痛みと痺れで身体の力が抜けた。俊介はそのまま床へ激しく倒れ込む。義母が病室へ駆け込んだとき、俊介は血のついた手でスマートフォンを握り、すでに自分をブロックしたアカウントを何度も更新していた。
8
俊介の入院中、凌光メディカルシステムは社内調査を開始した。俊介は、取引先のデモ機だと偽ってマンションの管理組合へ大型機器の搬入申請を出し、違法に輸入した製品を会社の医療機器事業と関係があるように説明していた。会社はまず、俊介を営業担当から外し、自宅待機を命じた。その後、長期欠勤による引き継ぎの混乱とコンプライアンス違反が重なり、人事部から退職勧奨を受けた。
俊介は最初、会社に見捨てられる筋合いはないと拒んだ。だが、取引先の名称を無断で利用した記録まで示され、入院中に合意退職の書類へ署名した。それでも、離婚届には署名しなかった。夫婦関係が破綻していることさえ認めようとしなかった。月城家庭裁判所で行われた最初の調停では、私たちは別々の待合室へ案内され、調停委員が順番に話を聞いた。
俊介は車椅子に座り、これは夫婦間の誤解にすぎないと主張した。機械は個人的な趣味であり、私が勝手に家を出たことこそ、婚姻関係を悪化させた原因だという。私は言い争わなかった。機器の購入記録、海外送金、生活費口座の履歴、監視映像、音声、接続ログ、そして二度の暴力で受診した記録。それらを一つのファイルにまとめ、提出した。
二回目の調停で、俊介は、慰謝料と財産上の請求を取り下げるなら「家を出たことを許してやる」と言った。三回目には、マンションの持分の半分を義母へ移すよう求めた。今後、自分を介護する母親には住む場所が必要だという理由だった。三度の調停には、四か月近くかかった。話し合いは成立しなかった。
西村弁護士はその後、月城家庭裁判所へ離婚訴訟を提起し、財産分与と慰謝料も同時に請求した。さらに数か月が過ぎ、本人尋問の日が来た。
俊介は義母に車椅子を押され、法廷へ入ってきた。以前よりかなり痩せ、目の周りが落ちくぼんでいる。膝には灰色の毛布がかけられ、尿バッグが車椅子の側面に固定されていた。病院の消毒薬の匂いでも、長期療養に染みついた重い臭いは消えていなかった。原告側に座る私を見るなり、俊介は肘掛けをつかんで身を乗り出した。
「おまえがやったんだ!」
「あの技術者に、機械を壊させたんだろ!」
裁判官が、発言は質問に答えるときだけにするよう注意した。西村弁護士は、佐久間の作業記録、封印シールの写真、書面による警告、本体のログデータを順番に示した。記録には、作業後の機械が電源を切られ、封印された状態だったことが残っている。事故の一時間前、工程モードへ入り、改造パッチをダウンロードし、安全ロックと温度保護を解除したのは俊介本人だった。
私は俊介を見た。
「機械を買ったのも、警告を剥がしたのも、プログラムを起動したのもあなたよ」
「美玲に捨てられたことを認めたくないから、今度は別の誰かに責任を背負わせたいだけ」
俊介の唇が細かく震えた。
「俺が使うって分かってただろ」
「だったら、おまえが止めるべきだった」
一瞬、法廷が静まり返った。俊介は今でも、妻は自分の裏切りを止め、自分の愚かさの後始末をし、自分で起動した機械から助け出すべきだったと信じている。争点は、機械の事故だけではなかった。俊介は長期間、美玲との親密な関係を隠し、共同貯蓄を無断で使って双方向型の成人装置を購入し、海外送金を続けていた。そのうえ私を突き飛ばし、侮辱し、秘密裏に監視カメラを設置した。
私たちは、これらが夫婦間の信頼を著しく損ない、婚姻を継続し難い重大な事由に当たると主張した。本人尋問が終わったあとも、双方の書面提出と証拠整理は続いた。口頭弁論が終結してから二か月後、判決の日を迎えた。裁判所は、夫婦の信頼関係は完全に失われ、婚姻を続けることは困難だと認め、離婚を認容した。
マンションの頭金と購入時の諸費用は、私が婚姻前に支払った特有財産と認定された。婚姻後に二人で返済した住宅ローンと、双方の収入から形成された預貯金は、財産分与の対象として計算された。俊介が無断で使った共同貯蓄と海外送金は、彼の取り分から差し引かれた。さらに慰謝料の支払いと、機械のローン、違法改造に伴う費用は俊介自身が負担することになった。
最終的に、マンションは私が単独で取得した。俊介へ支払う代償金は、計算上ごくわずかな額だった。その金額さえ、彼に残った機械の分割払いには届かない。義母が傍聴席から立ち上がった。
「俊介はこんな身体になったんですよ!」
「家もお金も渡さないなんて、私たちはこれからどこで暮らせばいいんですか!」
職員が制止しても、義母は私を指さし、声を尖らせた。
「結婚したなら、支え合うのが当たり前でしょう! 少し間違えただけなのに、どうしてここまで追い詰めるの!」
私は振り返らなかった。法廷は、義母が嫁を教育し直すためのリビングではない。母親が大きな声で泣いたからといって、息子の責任を無関係な人間へ分け与える場所でもない。判決後、廊下で俊介が私のコートの裾をつかんだ。
「紗和、本当に悪かった」
「美玲にも会社にも捨てられた。せめて家の半分だけでも残してくれ」
私は裾を引き抜き、布地についた汗をティッシュで拭いた。
「反省したんじゃない」
「もう、自分の過ちに甘えられる場所がなくなっただけよ」
俊介は呆然と私を見つめ、手を宙に止めていた。私は月城家庭裁判所を出た。背後で続く義母の泣き声を、二度と振り返らなかった。
9
離婚判決が確定したあと、私はマンションを売却した。買主から残置物をすべて撤去するよう求められ、ジェミニ・マッサージチェアは事故調査を担当した保険会社と輸入代行業者が処理した。俊介が何度も抱きしめていた黒い内張りには、保管する価値などなかった。壊れた制御基板と一緒に、産業廃棄物として処分された。それを知った俊介は、リハビリ病棟でスマートフォンを床に叩きつけたという。
機械も、美玲もいなくなり、彼は幻想を投影できる最後の相手を失った。合意退職により、凌光メディカルシステムとの雇用関係も終わった。高額な治療費の一部は健康保険と高額療養費制度で賄われた。だが、機械のローン、弁護士費用、生活費、長期的な介護にかかる負担までは消えない。義母は郊外にあった築年数の古い実家を売り、俊介を連れて月城市郊外の市営住宅へ移った。
エレベーターのない建物の一階にある、狭い2DKだった。冬は窓枠に結露がたまり、浴室の給湯器もよく調子を崩した。義母の年金だけではすべての支出を賄えず、近所のスーパーで早朝清掃の仕事を始めた。親戚や近所の目を誰より気にしていた人が、今では仕事帰りに値引きシールが貼られるのを待ち、半額の弁当を買って帰る。ときどき知人に、嫁が冷酷だったと訴えているらしい。
だが、機械の事故と離婚の経緯は、以前のマンションで広まっていた。義母の話を、すべて真実だと受け取る人はもういなかった。俊介の身体は、思うように回復しなかった。補助器具があれば短時間立つことはできたが、慢性的な痛みと排尿障害が残った。それ以上に深刻だったのは、毎晩八時への執着だった。
七時五十分になると、窓際に座り、ペアリング相手を失った古いタブレットを膝に置く。八時ちょうど、灰色になった接続アイコンを何度も押す。
「美玲は来る」
「まだ治療中なだけだ」
義母は最初、タブレットを取り上げていた。やがて、それを止める力さえなくした。俊介は、処分前にこっそり持ち出していた人工皮膚素材の小さな切れ端を抱き、夜通し部屋の中央に座ることがあった。硬く黄ばんだ素材を頬に当て、もう存在しないシステムへ、再接続してくれと小声で頼み続ける。リハビリ病院は、精神科での治療と地域支援の利用を勧めた。
義母は渋々同意したものの、俊介は通院の途中で何度も姿を消した。電車の線路沿いをさまよい、「海外につながる電波」を探しているところを保護されたこともある。美玲に捨てられたことを、理解していないわけではない。ただ、それを認めれば、結婚も仕事も身体も失ってまで手に入れたものが、最初から愛ではなかったと認めることになる。俊介には、それだけができなかった。
10
半年後、私はマンションの売却代金と自分の貯金を使い、月城駅近くに小さな事務所を借りた。看板には「紗和空間デザイン」と入れた。最初は私とアルバイトのアシスタント一人だけだった。受ける仕事も、カフェの改装、ショーケースの設計、小さな住戸のリフォームが中心だった。忙しく、収入も安定しているとは言えなかった。
それでも、夜八時にどんな音を聞かなければならないか、誰かに決められることはない。開業から三か月目、初めて介護施設の共用スペース改修を任された。サンプル壁の前で、顧客と素材を確認していたとき、俊介が「病院や介護施設を回るのがつらい」と言い、あの機械を買った理由にしていたことを思い出した。当時の私は、彼が口にできないほどの仕事の重圧を抱えているのだと信じた。自分の思いやりが足りないのではないかとさえ考えた。
今なら分かる。夫婦を壊したのは、仕事の忙しさではなかった。自分の欲望を犠牲と呼び替え、その身勝手さに私まで罪悪感を抱かせようとした、俊介自身だった。週末の夕方、私は車で月城駅前を通った。細い雨がフロントガラスを濡らし、赤信号の光が道路一面を暗い赤色に染めている。
駅前広場の屋根の下に、古い上着を着た男が車椅子に座っていた。膝には汚れた灰色の毛布がかかり、胸には黄ばんだ人工皮膚素材を抱えている。手にしたタブレットの画面は消えていた。
「つないで……」
「美玲、八時だよ」
そばにいる支援員が、家族へ電話をかけていた。男は突然、顔を上げ、雨の向こうを走る車列を見た。痩せて歪んだ顔には、それでも俊介の面影が残っていた。私に気づいたのか、唇が動く。車椅子が半歩ほど前へ進んだ。
「紗和……」
ちょうど信号が青に変わった。私は窓を下ろさず、そのままアクセルを踏んだ。交差点を抜けたとき、スマートフォンの画面が光った。佐久間が証拠保全のために入れ、読み取り専用に設定していたジェミニの管理アプリから通知が届いていた。
【旧アカウント「俊介」から再ペアリングの申請があります】
下には、二つの選択肢が並んでいる。
【今回は拒否する】
【拒否して永久にブロックする】
私は二つ目を押した。紫色のアイコンが消える。続けてアカウント設定を開き、残っていた履歴を削除し、アプリそのものをアンインストールした。ワイパーがフロントガラスの雨粒を払い、前方の道が鮮明になる。カーオーディオからは、軽やかなピアノ曲が流れていた。
事務所のアシスタントから、月曜日に新しい案件の施工図を確認してほしいとメッセージが届く。私は「了解」と返し、スマートフォンを助手席に置いた。バックミラーの中で、駅前広場が遠ざかっていく。夜八時の明かりが、街のあちこちで一つずつ灯り始めていた。けれど、鍵のかかった扉の向こうで何が起きていようと、もう私には何の関係もなかった。




