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首位の景色


一勝で空気は変わる。

だが、天井の高さまでは変わらない。


灰都グリットのクラブハウスは、第九節に勝った翌週も相変わらず低く、古く、少しだけ寒かった。通路の照明は一本だけ明滅しているし、食堂の端の端末は立ち上がりが遅い。壁の塗装も、近くで見ればところどころ浮いている。


それでも、一勝は一勝だった。


第九節で潮見フォールズを判定で叩いて、勝点は九。

残留争いの直接対決を拾った。

降格線の真上にいるクラブにとって、それは順位表の数字以上の意味がある。


勝った翌日、伊緒は少しだけ鼻歌が増えた。

名護は人の目を見て返事をするようになった。

真波は不機嫌なまま黙ったが、少なくとも「あんな勝ち方に意味があるのか」とは言わなかった。

火澄は何も変わらない顔をしていたが、練習後に壁へ預ける体重がほんの少しだけ軽くなっていた。


たったそれだけの違いだ。


クラブを一勝で変えられるほど、この競技は甘くない。

だが、一勝も取れないままだと、もっと早く壊れる。


食堂の壁端末では、昼のリーグ情報番組が流れていた。


> クラウン・シリーズ特集

> 今週の注目カード

> クラウン・ブレイク第10節

> 蒼京ヴァンガード vs 灰都グリット


「やめろよ」


真波がトレーを置きながら言った。


「飯の時に見るカードじゃねえだろ」


「飯の時に見ても見ない時に見ても、相手は変わらないわ」


雨宮透子はそう言って、紙コップのコーヒーを口に運ぶ。

運営責任者らしい言い方だった。慰めない。現実だけを出す。


画面の中で、アナウンサーがきれいな声で言う。


『クラウン・シリーズは、下位からクラウン・グリット、クラウン・エッジ、クラウン・ブレイク、クラウン・フォージ、クラウン・ヴァイス、そして頂点のクラウン・アークまで、六階層で構成されています。各リーグ二十クラブ、十九節の総当たり。上位は昇格、下位は降格。灰都グリットがいるクラウン・ブレイクは、ちょうど“上も下も見える階層”ですね』


別画面に、階層ピラミッドが出る。


クラウン・グリット。

クラウン・エッジ。

クラウン・ブレイク。

クラウン・フォージ。

クラウン・ヴァイス。

そしてトップリーグのクラウン・アーク。


続けて、ルール解説の短い図が映る。


封印装置二基解除。

守護ボス撃破。

出現した中枢核を自陣祭壇へ装填。

それで勝ち。


アナウンサーが言う。


『ダンジョン・プロリーグは、守護ボスを倒しただけでは勝ちになりません。封印装置を二つ解除し、守護ボスを突破し、最後に出現する中枢核を自陣祭壇へ装填して初めて勝利です。逆に言えば、どれだけ押していても、核を入れ切れなければ時間切れ判定になります』


秀平は食堂の端で、手元の試合資料をめくっていた。


クラウン・グリット。最下層。

モンスターの型は単純で、一種ごとの処理手順がまだ通る。


クラウン・エッジ。

そこから二種混成が増え、通路や視界を奪う「嫌がらせ」が試合の前提になる。


そしてクラウン・ブレイク。

今、自分たちがいる場所。


ここから、モンスターは一段階だけ人間を嫌い始める。

単体の強さより、組み合わせの悪さが前へ出る。


一匹は止める。

一匹は削る。

一匹は音で乱す。


そういう“人を崩すための並び”が標準になる。


フォージはさらに悪い。

守護ボスの変則が増え、試合ごとに癖が違う。

ヴァイスまで行くと、モンスターの配置そのものが対人戦を前提にしてくる。

上へ行くほど、モンスターは強くなるというより、競技に都合よく人を壊しに来る。


アークは、まだ映像でしか知らない。


「どう?」


依里が向かいの席から訊いた。


秀平は資料から目を上げない。


「首位の試合です」


「それは見れば分かる」


「完成しています。先発もベンチも。ブレイクのクラブじゃなくて、フォージの崩れ損ないみたいな厚さです」


「褒めるねえ」


伊緒が横から笑う。


「褒めてるんじゃなくて、嫌がってるんです」


秀平が言うと、透子が小さく頷いた。


「正解。蒼京は今季の昇格本命。十九節のうち一つ負けるなら、ここで負けるのは計算できる。でも何も拾えずに終わるのは駄目」


佐伯玄堂が食堂へ入ってきたのは、その時だった。

監督は壁端末の蒼京特集を一瞥し、特に顔色も変えず言う。


「今日の目標は勝点じゃない」


真波が顔を上げる。


「勝点じゃない?」


「首位相手に勝てる、とは今は言わん」


佐伯はそう言って、秀平の手元の資料を指で叩いた。


「だが、何が通じないかをはっきり持ち帰れ。

 うちが今ブレイクのどこにいて、上へ行くなら何が足りないか。

 それを四人で見てこい」


真波が少しだけ口元を歪める。


「ずいぶん優しいじゃん」


「優しくない。首位に真正面から折られると、下位クラブはそのまま沈む。今日は沈まない負け方を覚えろって言ってる」


それは監督の言葉だった。

勝つための言葉ではなく、クラブを一週間先へ残すための言葉。


秀平は資料を閉じた。


「分かりました」


火澄が短く言う。


「持つのは、どこまでだ」


秀平は少しだけ考えてから答えた。


「祭壇まで。

 でも、取り切るところまではまだ言えません」


真波が鼻で笑う。


「ずいぶん慎重だな」


「首位相手に雑な自信を持つ方が危ない」


「お前はいつも危ない危ないだな」


「危ないからです」


返しが早すぎて、真波はそこで言葉を切った。


---


第十節。

公式認定競技ダンジョン・第九中立環。


クラウン・ブレイクの標準でも、ここの制御は重い。

通路が狭い。天井が低い。ミラー区画の折り返しが多く、音が読みにくい。


入場前の控えゲートで、秀平は相手の先発表示を見ていた。


アンカー、堂島巌。

ブレイカー、鳴瀬遼。

ランナー、葉倉ミオ。

コーラー、篠崎統也。


先発に隙がない。

ベンチ四人も、型がきれいにずれている。

同じ八人登録でも、灰都の八人とは意味が違う。

向こうは「誰をどう替えるか」で試合を作る。

こちらはまだ「誰を落とさず最後まで持たせるか」で苦労している。


真波が腕を回しながら言う。


「鳴瀬、今日も派手に来るかな」


「来ます。ただし最初は来ない」


「は?」


「堂島に受けさせて、葉倉に線を作らせて、こっちが嫌がってから鳴瀬を入れる。見せ場の作り方を知ってるブレイカーは、最初に前へ出ません」


真波は少しだけ黙った。

その言葉が自分にも向いていることくらい、分かっているのだろう。


依里が装備最終確認のために近づく。


「ライフタグ、同期してる?」


「問題ないです」


「問題ない、じゃなくて」


依里は秀平の手首に触れて、自分でタグ表示を確認した。

脈は少し速い。だがそれだけだ。

それだけなのに、体の芯が硬い。

一週間前より、むしろ今日の方が張り詰めている。


「首位相手だから?」


依里が低く訊く。


秀平は少しだけ間を置いて、言った。


「首位だからじゃないです」


「じゃあ?」


「首位相手に、間違えた時の形が一番きれいに出るからです」


依里はそれ以上訊かなかった。


場内アナウンスが鳴る。


灰都グリット先発。

アンカー、火澄岳。

ブレイカー、真波蓮。

ランナー、久瀬伊緒。

コーラー、鷺宮秀平。


ゲートが開く。


---


ダンジョンの空気は、前節より冷たく感じた。


通路へ入ってすぐ、秀平は違和感を覚える。

静かすぎる。


「火澄、止まるな。左壁。伊緒、前を切るな。真波、まだ出ない」


全員が動いた一拍後に、天井の闇が割れた。


《針鐘蛾》。


羽音そのものが金属を擦るように高く、近くで鳴かれると方向感覚が歪む。

単体なら面倒なだけだ。

だが、ブレイク級の嫌なところは単体で来ないことにある。


足元の石床が膨らむ。


《牙礫鼠》。

小型で速い。噛みつきそのものは浅いが、足首を取るには十分な力がある。


上で乱す。

下で止める。


二種同時。


火澄が盾を上げる。

羽音が歪む。伊緒が跳んで蛾を裂く。真波が踏み込みかけて、足元の鼠に足首を噛まれた。


「真波!」


秀平の声が飛ぶ。


「払え、踏み込むな!」


真波が鼠を蹴り飛ばす。もしそのまま前へ出ていたら、通路脇の亀裂へ滑っていた。


「うっざ……」


「上と下で組ませてくる。ブレイクの標準です」


「分かったから毎回言うな」


「分かったならいい。伊緒、蛾は落とし切れ。天井に残すと後でもっとひどくなる」


「やってる」


伊緒が壁を蹴り、最後の一羽を叩き落とす。

翅が粉になって散った。吸うと嫌な味がする。


最初の封印装置は取れた。

伊緒の速さがぎりぎり間に合った。


二基目に向かう途中で、初めて蒼京の気配が来た。


対面の通路。

音が違う。


足音が少ない。

同じ四人のはずなのに、灰都の半分しか音がしない。

処理が速いのではない。処理に無駄がない。


秀平が足を止める。


「いま中央の短絡路を通った」


「通ったって、もう?」


伊緒が振り返る。


「封印はまだ。祭壇側へ抜ける近道の入口だけ押さえて、戻った」


「何のために?」


「こっちが二基目を取りに行く時に、守護ボス前へ先に寄れる位置を作ったんです」


火澄が低く唸る。


「先に地面を取りにきてるのか」


「そういうクラブです」


二基目の封印装置は、《石喰い犬》の巣の奥にあった。

三頭。礫板に覆われた狼型。


前節も同じ種と当たっている。処理の手順は分かっている。

だが今回は違った。


一頭目を火澄が受け、伊緒が横へ抜けようとした瞬間、通路の奥から青い光が走った。


蒼京のランナー、葉倉ミオ。


石喰い犬の三頭目の背後から、壁際をすり抜けるように飛び出してくる。

狙いは伊緒ではなく、封印装置そのものだった。


「伊緒、戻れ!」


秀平が叫ぶ。


伊緒が反転する。

だが葉倉の方が半歩速い。


封印装置の解除鍵に手が伸びる。

伊緒が追いつく前に、葉倉の指が鍵盤に触れた。


だが、解除は通らなかった。


「……自陣側じゃない」


伊緒が呟く。


封印装置は自陣側と相手陣側がある。

守護ボスへ進む封鎖を解けるのは、自陣側二基の解除だけだ。

ここは灰都の自陣側であり、蒼京にとっては相手陣側。

蒼京が触っても、蒼京の封鎖は解けない。


だが葉倉は笑った。

笑って、装置に触れたまま三秒だけ動かなかった。


その三秒で、伊緒の足が完全に止まっている。

葉倉が離れた瞬間、石喰い犬の二頭目が伊緒の背後に回り込んでいた。


「後ろ!」


火澄が叫ぶ。


伊緒が飛ぶ。

犬の牙が肩を掠める。浅い。だが体勢が崩れた。


「装置を取れ! 今!」


秀平の声が飛ぶ。


伊緒が地面を蹴る。

崩れた体勢のまま、解除鍵に指を突っ込む。

解除音。


二基目。


だが、ここで使った三秒が痛かった。


秀平は通路の向こうを見る。

蒼京はもう短絡路の二本目まで押さえている。

葉倉は封印を取りに来たのではなかった。

こちらの封印を三秒遅らせるために来たのだ。


たった三秒。

その三秒で、守護ボス前の入り口が一つ向こうに寄っている。


伊緒が舌打ちする。


「あいつ、最初から封印取る気なかったのかよ」


「なかった。お前の足を三秒止めるために来た」


「三秒で何が変わるんだよ」


「全部です」


---


守護ボスへ向かう中央通路。

蒼京が先にいた。


堂島が通路の中央に立っている。

盾ではなく、体そのもので通路を塞いでいる。ブレイクのアンカーとしては明らかに一段上の耐久だった。


その後ろで、篠崎統也の声が聞こえた。

小さい。秀平にはほとんど届かない。

だが、蒼京の三人にはちゃんと届いているのだろう。

堂島の足がほんの半歩だけ動くと、通路の嫌な位置が全部塞がる。


秀平は自分のコールと比べた。

声の大きさではない。声の精度が違う。


篠崎は、四人に同時に届ける声ではなく、今必要な一人にだけ届く声を使う。

残りの三人は、声が来ない時間で自分の仕事をする。

その呼吸が合っている。


依里は控えエリアのタブレットで、蒼京の動きを見ていた。

特別なことをしているようには見えない。

だが灰都の四人が一歩動くたびに、その一歩が少しだけ無駄になっている。


嫌がらせではない。

嫌がらせなら腹が立つだけで済む。

蒼京がやっているのは、こちらが動きたくなる形を先に作ることだ。


伊緒が吐く。


「どこ行っても先にいやがる」


「そういうチームです」


秀平は短く返した。

問題は、それが分かっても止め切れないことだった。


中央通路で《噛導蜥》が二体、通路奥で《針鐘蛾》が三羽。

その向こうに蒼京のランナー葉倉がいる。

人とモンスターの並びが綺麗すぎる。偶然ではない。

葉倉が一歩動くたび、こちらの嫌な場所にだけモンスターが寄る。


「伊緒、右の蛾だけ落とせ。深追いするな」


「分かってる」


「真波、まだ温存」


「まだかよ」


「まだです」


火澄が前二体を受ける。

盾で鼻先をずらし、壁へ噛ませる。一体目は沈む。

だが二体目の尾が足を払い、火澄がよろめいた。


蒼京は、そこへ鳴瀬をぶつけてこない。


来ない。


来ないことが、一番嫌だった。


ブレイカーを切るのはもっと後だ。

火澄を削らせるだけ削って、こちらがそろそろ何かしなければと焦ったタイミングで出してくる。

その我慢比べに、蒼京は絶対に負けない。


秀平は分かっていた。

分かっているのに、火澄の膝が少しずつ沈んでいくのを止められない。


正しいことをしても、正しいだけでは足りない。


首位の景色は、ここにある。


---


守護ボス前。


祭壇広間に出た時点で、蒼京が半歩先だった。


《環骨の守護騎》。


骨の輪を何重にも背負った騎士型。

輪が回るたびに周囲の雑魚が活性化し、一定間隔で通路へ骨杭を打ち出してくる。

単純な殴り合いではなく、位置取りを崩された方が負けるタイプのボスだ。


そしてここが、対面のクラブと同じ空間で戦う場所だ。


蒼京がまず動いた。


堂島が守護騎の正面に入る。

受けるのではない。守護騎の輪の回転方向を読んで、灰都側に骨杭が飛ぶ角度を作っている。

ボスを受けながら、相手を削る位置取り。


「火澄、右へ寄れ。骨杭の射線から外れろ」


「了解」


火澄が動く。

だがその半歩で、灰都のボスへの攻撃角度が一つ減った。


「伊緒、左脚の骨杭を散らせ」


「散らすだけ?」


「散らすだけでいい」


真波が低く言う。


「首位相手なんだぞ。いつ殴るんだ」


「殴る位置がまだない」


「作るんだろ、そういうのは!」


「作れる相手なら、ここで首位にいません」


真波の呼吸が荒くなる。

秀平の声も硬い。

言っていることは正しい。だが、それだけでは試合は押し返せない。


蒼京が先に守護騎の外輪を崩した。


篠崎の声が、たった一言だけ広間に聞こえた。


「鳴瀬」


それだけだった。


鳴瀬遼が入る。


ここまで姿を見せていなかったブレイカーが、堂島が空けた正面から、守護騎の割れた外輪へ一撃を入れる。


速い、のではない。

遅くない。

ちょうどいい。


外輪が砕けた一枚分の隙間に、鳴瀬の刃がぴったり入る。

一撃で骨が割れ、輪の回転が歪む。

続けて二発目。三発目。

三発目を入れた時には、もう半歩下がっている。


真波は見ていた。


見ていて、殴れなかった。


三発。

同じ三発を、真波は出せる。

出せるが、あの三発と同じ意味にはならない。


鳴瀬の三発は、篠崎のコールの「鳴瀬」という一言の中に全部含まれていた。

どこを、何発、いつ引くか。

全部が一言で通っている。


真波の三発には、秀平の声が三回要る。


その差だった。


「真波、今」


やっと来た指示に、真波は怒りのまま踏み込んだ。

重い一撃。輪の継ぎ目が砕ける。


いい一撃だった。

映像盤越しでも、観客席の空気が一段上がる類の一撃だった。


だがその直後に、鳴瀬がもう一発入れた。

真波の見せ場の直後に、もっと綺麗な一撃を重ねてくる。


蒼京のエースは、そういう残酷さを知っている。


真波の顔が歪んだ。

怒りではない。

もっと正確な感情だ。

自分の一撃が、相手の一撃の前座にされた。


守護騎が大きく傾く。


秀平が息を詰める。

最後の一撃を入れた側の、その選手の近くに中枢核が落ちる。

この場面では、誰がとどめを刺すかがそのまま次の形になる。


「火澄、正面持て! 伊緒、右雑魚流して!」


灰都も押す。

だが半歩遅い。


最後の一撃は、鳴瀬だった。


乾いた音がして、環骨の輪が砕ける。

守護騎が崩れ、胸の内側から光る中枢核が弾き出された。

落ちた先は、鳴瀬の足元。


「葉倉!」


篠崎の声。


鳴瀬は核を拾わない。

拾うより先に、半歩退いて葉倉の進路を空けた。


葉倉が核を攫う。

そのまま蒼京側祭壇へ走る。


「火澄、入口! 伊緒、右から脚を切れ! 真波、堂島をどかせ!」


秀平が切る。

灰都も核を持ち込ませないために動く。

ここで一歩でも遅れたら終わる。


火澄が堂島へぶつかる。

堂島は受けるのではなく、体重を預ける。

核そのものではなく、灰都の最短線を潰す受け方。


伊緒が横から葉倉の足元へ入る。

刃は浅い。だが十分だった。

葉倉の軸がぶれ、中枢核が腕の中で少し浮く。


「真波!」


秀平が叫ぶ。


真波が踏み込む。

鳴瀬ではなく、その手前の空間を殴る。

蒼京の通路を一本、無理やり曲げるための一撃だった。


鈍い音。

骨杭が崩れ、葉倉の進路が半歩だけ右へ流れる。


その半歩で、火澄が間に入った。


中枢核が床へ落ちる。

白い光が石床を転がった。


「取れ!」


秀平が叫ぶ。


伊緒が飛び込む。

だが堂島の腕が先に入る。

拾うのではない。伊緒の肩を一瞬だけ止める。

その一拍で、葉倉がもう一度核を掴んだ。


「うっわ、最悪」


伊緒が吐く。


「まだ終わってません!」


秀平の声が飛ぶ。


蒼京は核を抱えたまま、今度は無理に祭壇へ突っ込まない。

一度通れないと分かったら、すぐに持ち方を変える。

祭壇に入れるためではなく、入れに行ける形を残す持ち方だ。


そこが首位だった。


---


時間が削れていく。


火澄の動きが重くなる。

伊緒の足も、さっきほど切れていない。

真波の呼吸は荒い。

それでも灰都は、蒼京の祭壇前で核を行かせない。


一度、二度、三度。

葉倉が走り、火澄が止め、伊緒が爪先を刈り、真波が通路を壊す。

そのたびに蒼京は少しずつ形を直してくる。


「堂島、左に寄せてる」


秀平が言う。


「見えてる!」


火澄が返す。


「次、右から来る!」


「鳴瀬がだろ!」


真波が吐く。


鳴瀬はもう、目立つ殴り方をしていない。

核を持たせるためだけの一歩を出す。

秀平の進路に体を置き、火澄の盾の角度を半歩ずらし、伊緒の飛び込みを一拍遅らせる。


派手じゃない。

だから余計に嫌だった。


「お前のその一歩が一番うぜえんだよ!」


真波が低く吠える。


鳴瀬は答えない。

答えないまま、また一歩だけ秀平の前に来る。


その一歩が、灰都には重かった。


秀平は自分でも線を探す。

葉倉が核を持ち直す角度。

堂島が寄る癖。

鳴瀬が半歩だけ前へ出るタイミング。


全部見えている。

見えているのに、一手先が届かない。


その時だった。


秀平のライフタグが、安全域の青から注意域の黄へ触れた。


負傷ではない。

消耗と生体負荷が警告域へ入った色だ。

致命ではない。

だが、死線を意識するには十分な色だった。


その瞬間、秀平の声が一拍だけ止まった。


一拍。


伊緒が声を待って振り返る。

火澄が判断を待って半歩遅れる。

真波だけが止まらず前に出る。


その一拍で、葉倉が核を持ち替えた。


右手から左手。

肩の外へ逃がして、火澄の盾の外側へ抜く持ち方。


「っ――」


秀平の声が戻る。


「右、切れ!」


遅かった。


葉倉が灰都の最短妨害線を抜ける。

そのまま蒼京側祭壇の目前まで入る。

だが、そこが終点ではなかった。


伊緒が最後の一歩で追いつく。

靴裏で葉倉のかかとを払う。

葉倉の体が流れ、中枢核がまた床へ落ちた。


今度は祭壇のすぐ手前。


蒼京の祭壇まで、あと二歩。

灰都から見れば、一番嫌な位置だった。


火澄が踏み込む。

堂島が受ける。

真波が鳴瀬を押す。

伊緒が光る核へ飛び込む。


だが、試合終了のブザーが鳴った。


核はどちらの祭壇にも装填されていない。

最後まで入れ切れなかった。


---


結果が出るまでの時間が、戦っている間より長く感じた。


大型表示板が切り替わる。


1. 核保持優勢――蒼京

2. 守護ボス有効貢献率――蒼京

3. 封印装置解除速度――蒼京

4. 生存可能選手数――同等

5. 警告数――同等


文字が変わる。


> WINNER

> 蒼京ヴァンガード


完敗ではない。

だが、きれいな負けだった。


首位のチームは、負かし方まで整っている。

大差ではない。

だから余計に遠い。


---


医療区画前の通路。


真波は壁に背をつけていた。

今日は怒鳴らない。怒鳴るほどの負け方ではなかったからだ。


だが、黙っている顔の方が酷かった。


「三発」


真波が呟いた。


誰も訊き返さない。


「鳴瀬の三発。あれ、俺だって出せる」


伊緒がタオルを首にかけたまま言う。


「出せてたじゃん。いい一撃だったよ」


「出せても意味がねえんだよ」


真波の声が低い。


「俺の一撃の後に鳴瀬が入ったら、客は鳴瀬の方が綺麗だったって言う。俺が先に殴って、あいつが後から殴って、画が良い方が残る。そういうことだろ」


誰も答えない。


「違うのは腕じゃねえ。あいつは“どこで殴れば一番効くか”を知ってて、しかもそれをコーラーと一言で合わせてる。俺は三回言われないと同じことができない。腕の差じゃなくて、使い方の差だ」


長い沈黙。


真波は壁から離れた。


「……クソ」


それだけ言って、奥へ消えた。


伊緒が天井を見る。


「いやー、嫌だなあ」


「何がですか」


秀平が訊く。


「首位のチームって、“今の嫌さ”が来年には上のリーグ仕様になるんだろ。最悪じゃん」


「その前に、こっちが上がれれば同じことです」


「そういう返しできるなら、ちょっと元気あるじゃん」


「ないです」


即答だった。


火澄が処置椅子に座り、短く息を吐く。

依里が膝の固定具を締めながら、強すぎず弱すぎずの力で訊く。


「痛みは?」


「まだ持つ」


「その答えは嫌い」


「知ってる」


依里は火澄の固定を終えてから、秀平の方を見た。

秀平は壁に背をつけ、目を閉じていた。顔色が白い。

だが本人は、自分の傷より判定ログを先に見ている。


「鷺宮くん」


「はい」


「今、見るのそれ?」


「今見ないと、次まで一週間しかないので」


週一試合。

それがこのリーグの呼吸だ。

短いようで、怪我を抱えたクラブには長い。長いようで、直したいものが多いクラブには短い。


依里はタブレットを閉じた。


試合中に見たものが、まだ頭に残っている。

秀平のライフタグが黄に触れた瞬間、発声が一拍だけ止まった。


あの止まり方は、痛みで止まったのではなかった。


他の選手なら、負傷で声が途切れる。それは痛みの反射だ。

秀平のあれは違った。

色を見て、止まった。


自分が死に近づいた、その事実に体が先に硬くなった。


依里はそこまで考えて、そこで止めた。

まだ断言できるほど、この人のことを知らない。


ただ一つだけ確かなことがある。


この人は、死線に近づいた時だけ、体のどこかが過去を思い出す。

たぶんそれは、自分一人の死の記憶ではない。

もっと別の、置いてきた誰かの壊れ方が混じっている。


次は、あの一拍を見逃さない。

依里はそれだけを、自分の中で静かに決めた。


佐伯が通路の奥から来る。


「負けたな」


誰も返事をしない。


監督は続ける。


「だが拾えたものはある。

 首位相手に通らないものが分かった。

 火澄を削らせる形、真波の使い方、伊緒への線切り、ベンチ差。

 全部、次に使える」


真波は奥へ行った後だ。

聞いているかどうかは分からない。


少し沈黙があってから、火澄が口を開いた。


「負けた」


短い声だった。


「だが、前よりは届いてる。まだ足りないが」


それだけだった。


大きな慰めではない。

首位に善戦した、という自惚れでもない。

ただの事実だ。


秀平は目を開けた。

何も言わなかった。


依里は端末の順位表を見た。


蒼京ヴァンガード、首位。

灰都グリット、まだ下位。


上は遠い。

だが遠いと分かった形が、前節までより少しだけ具体的になっている。


次節まで一週間。


その短さが、今は少しだけありがたかった。


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