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傷物の加入


蘇生室の赤灯は、人の呼吸を下手にする。


常盤依里は壁に背をつけたまま、白衣の袖口を見ていた。

血は洗えば落ちる。手の甲に飛んだ分は、もう拭いた。

だが袖口に滲んだ赤だけは、処置室から廊下へ押し出されるまでに拭く暇がなく、そのまま残っている。


壁の表示板には、変わらない文字が流れ続けていた。


> 対象選手:久我奏多

> 蘇生処置:進行中

> ライフタグ同期:正常

> 循環再起動:第二段階

> 競技復帰判定:未定


未定。


依里は、その二文字が嫌いだった。

助かる、とも、戻れる、とも、何も言っていない。

なのに、人をここに立たせ続けるには十分な言葉だ。


ベンチには火澄岳が座っている。

両肘を膝に乗せ、首を落としたまま、前を向いていた。大きい男なのに、今日は少しだけ小さく見える。崩れてはいない。ただ、沈んでいる。


壁にもたれている真波蓮が、また舌打ちした。


「長ぇな」


三度目だった。


返事をしたのは久瀬伊緒だけだ。


「長い方がマシだろ。短い方が嫌じゃん」


「縁起でもねえこと言うな」


「そういう意味じゃなくてさ」


軽口のはずなのに、伊緒の目も赤灯から離れない。


久我奏多。

灰都グリットの正規コーラー。

崩れかけた試合を最低限の形に戻すのが上手い男だった。完璧じゃない。止め切れないものも多かった。それでも、このクラブで一番長く声を出していた。


その久我が、第八節で死んだ。


公式認定競技ダンジョン内。適正ライフタグ装着。

蘇生対象の条件は満たしている。

だから、生き返ることはできる。


戻れるかは別だ。


自動ドアが開いた。


医療主任が出てくる。防護手袋を外しながら、短く言った。


「蘇生は通った」


何人かの息が、同時に落ちた。

依里の肺からも、止めていたものが少しだけ抜ける。


だが主任はそこで止まらなかった。


「通っただけだ。脳幹反応はある。意識再統合はこれから。魔力回路の乱れが大きい。少なくとも次節はない」


真波が顔を上げる。


「次節どころじゃないだろ、その言い方」


主任は肯定も否定もせず、依里を見る。


「常盤。後遺症の範囲は明日以降に出る。今の段階で軽いとは言えない」


「……分かりました」


自分でも驚くくらい、声が小さかった。


主任が去る。

また静けさが落ちる。


真波が壁を蹴った。鈍い音がして、火澄が一度だけ目を上げる。


「ふざけんなよ」


誰に言っているのか、真波自身にも分かっていない顔だった。


依里は、自分の指が白くなるほど袖を握っていたことに気づいて、そっと開いた。


ここ数試合、久我の負担は明らかに増えていた。

依里はヒール型コーラーとして、回復と安定化を担う補助に回ることが多くなっていた。進行判断そのものは久我が握っていたが、久我が一人で背負いすぎているのは見えていた。


第八節の終盤、久我が倒れてから。

依里は初めて、仮の位置に立たされた。


やれたとは思っていない。


声は出した。

でも通らなかった。


真波は前へ行きたがり、伊緒は面白い方へ流れ、火澄がその穴を一人で塞ぐ。

依里の「待って」は半拍遅れ、「下がって」は軽くされ、「替える」は誰の耳にも深く刺さらなかった。


第八節終了時点。

灰都グリット、勝点六。十七位。

残り十一節。


久我は長期離脱。

このままでは、無理だ。


依里は、そう思ってしまった。


その時、エレベーターの到着音が鳴った。


先に聞こえたのはヒールの音だ。速くて、迷いがない。


雨宮透子は共同オーナーであり、運営責任者だった。


予算、医療、登録、移籍、スポンサー。

灰都グリットの運営の多くを全部同じ顔で回す女だ。


その半歩後ろに、男がいた。


痩せている。背は高くない。

灰色のコートの襟元から覗く首筋がやけに白い。顔色が悪いのか、元からそういう色なのかは分からない。


ただ、目だけが静かだった。


赤灯を見た。表示板を読んだ。火澄の沈み方と真波の立ち方と、依里の袖口の赤を見た。

一秒もかかっていない。


見るだけで終わる目ではない、と依里は思った。

状態を読む人間の目だ。


透子が足を止める。


「話はまとまった」


声はいつも通り、平坦だった。


「第九節からトップチーム登録。正規中間移籍の手続きは通してある。今日から灰都の選手」


真波が壁から体を離す。


「誰だよ」


透子が後ろの男を見る。


「鷺宮秀平」


その名前が落ちた瞬間、廊下の空気が一段冷えた。


伊緒が、あ、と息を漏らす。

火澄が初めて顔を上げる。

真波の表情が、露骨に固まる。


依里は一拍遅れて、その名前と記憶を結びつけた。


白嶺ユナイト。

クラウン・ヴァイス上位常連。

そこのコーラーだった男。


昇格争いの大一番で、味方のブレイカーに事故が起きた試合。

表向きの結論は、コーラーのコールミス。

配信も掲示板も、分かりやすい結論が好きだ。


「人を壊したコーラー」


鷺宮秀平の名前には、いつもその枕詞がついて回っていた。


真波が吐き捨てる。


「……冗談だろ」


「冗談で書類は出さないわ」


「他にいなかったのかよ」


「いたら、うちには来ない」


透子の声に感情はない。

平坦だからこそ、灰都の現在地が刺さる。三部十七位。勝点六。正規コーラー長期離脱。取れる札は限られている。


「安く取れた」と透子が付け足す。


真波が顔をしかめた。


「笑えねえ」


「笑わせるつもりもない」


秀平はその間ずっと黙っていた。

反論もしない。媚びもしない。ただ立っている。


火澄が口を開いた。


「お前、今季もう一回死んでるな」


質問ではなく確認だった。


秀平は答える。


「白嶺で一度。蘇生済みです」


「じゃあ、このシーズンでもう一回死ねば」


「三十日停止」


短い。事実だけ。


依里は息を詰めた。

同一シーズン二回目の死亡は、最低三十日間の競技停止。残り十一節のリーグで、その三十日は重い。


つまりこの男は、死ねない。

誰よりも「死ぬ前に切る」ことを考えなければならない選手が、ここに来た。


佐伯玄堂が、廊下の奥から歩いてきたのはその時だった。

灰都グリットの監督であり、共同オーナーでもある。


このクラブは、大きな母体企業にぶら下がる強豪とは違う。

雨宮透子と佐伯玄堂の2人で共同オーナーをやってる弱小クラブである。


落ちれば予算が減る。予算が減れば医療も人員も削れる。

つまり佐伯にとって残留争いは、ただの成績不振ではない。自分のクラブが死ぬかどうかの話だった。


監督はネクタイを少し緩めたまま、場を見た。赤灯、疲労、反発、新顔。全部を一度で見て、短く言う。


「決まりか」


「決めた」


「そうか」


佐伯は秀平を一瞥した。


「歓迎はしない。だが使う」


「十分です」


真波が前に出る。


「監督。久我が倒れた日にこれですか」


「久我が倒れた日だからだ」


佐伯の声は低い。怒鳴らない。だから重い。


「俺が決めるのは、誰を出すかと、どんな試合をさせるかだ。中で何を切るかはコーラーが決める。常盤をこれ以上その位置に立たせない。火澄を一人で前に立たせる試合も終わりだ。十一節で勝点を拾う。拾えなければ落ちる」


誰も答えない。


秀平が、その沈黙の隙間に声を入れた。


「第八節のログは見ました」


真波が即座に反応する。


「早いな。何時間だよ」


「十分で足りた」


「は?」


「十分で、このまま次も負けるのは分かった」


空気が張る。


挑発ではない。

結果を読み上げる口調だから、余計に腹が立つ。


「言ってみろよ」


真波が一歩詰める。


秀平は目を逸らさない。


「封印二基が遅い。二基目を取る前に前へ出たがる。だからボス前で形が整わない」


真波の顎がわずかに引かれた。


「ランナーが深く入りすぎる。アンカーが拾いに行く。ブレイカーが取り返そうとしてさらに前に出る。核を取る前に、四人が同じ場所で削れる」


火澄が目を閉じた。

伊緒は笑っていない。

依里は唇を噛む。何一つ間違っていなかった。


秀平は続ける。


「この競技は、ボスを倒しただけじゃ勝てない。封印を二つ解いて、守護獣を落として、落ちた核を祭壇に繋いで初めて勝ちです。誰が最後の一撃を入れるか、誰が核を運ぶか、そこまで決めないと拾えない」


真波がいらだったように言う。


「それ、ヴァイスの話だろ。こっちはブレイクだ。戦術式も認証装備も、あんたらみたいな個人適性もない」


伊緒もつづく。


「あるのは足と声と、交代二枚だけだ」


秀平が答える。


「分かってます。だから、ない前提で勝ち筋を作るんです」


さらに続ける。


「死んでから替えるな。替えるなら死ぬ前に中継ノードで替えろ」


しばらく、誰も動かなかった。


このリーグで「早く下がれ」は、臆病とほとんど同義だ。

特に、前へ出ることが正義みたいなクラブでは。


真波が詰める。


「下がった方が負けるだろ」


「下がるタイミングを間違えるから、核を取れない」


「同じだ」


「違う」


秀平の声は変わらない。


「戦術交代は中継ノードから入る。前線の近くから、そのままボス前に乗れる。緊急交代はスタートゲートから六十秒待って投入される。守護獣を落とした後じゃ遅い。同じですか」


真波は答えなかった。


佐伯が言う。


「第九節、潮見フォールズ。十五位。残留慣れしてる。派手じゃない。だが落ちにくい」


透子が足す。


「今日は勝ち方より勝点。拾える形を拾いなさい」


秀平は頷いた。


「分かりました」


真波が鼻で笑う。


「大した自信だな」


秀平は真波を見る。


「お前が取れる場面は作る」


「上から来るな」


「代わりに、取れない場面では下がってもらう」


真波の笑いが消える。


「ふざけんな」


「ふざけてない」


「俺を誰だと思ってる」


「灰都で一番人気のブレイカー」


間を置いて、秀平は言った。


「人気じゃ勝点は増えない」


それは真波だけに刺さる言葉ではなかった。

このクラブそのものへの宣告だった。


---


第九節当日。

公式認定競技ダンジョン・第七中立環。


入場前の空気は、試合というより出発前に近い。

装備のベルトを締める音。ライフタグの同期音。刃を納め直す金属音。誰も大声では喋らない。


依里はベンチ組として控えゲート前に立っていた。

今日は出ない。少なくとも最初は。

先発は火澄、真波、伊緒、秀平。四人で中に入る。


秀平が手首のライフタグを締め直していた。

一度締めて、もう一度だけ確かめる。


依里はその手元を見る。


「きつくない?」


「平気です」


「……その返し、あんまり信用ないんだけど」


秀平が少しだけこちらを向く。顔色が悪い。緊張だけではない白さだった。


依里は言う。


「無理はしないで」


「すると思います」


「そう」


「だから、見ていてください」


依里は言葉を止めた。


秀平はもう前を向いている。


「自分で分からない時がある。持たせるのは、あなたの仕事でしょう」


役割の確認。それだけのはずなのに、依里の胸の奥に落ちた。


場内アナウンスが鳴る。


灰都グリット先発。

アンカー、火澄岳。

ブレイカー、真波蓮。

ランナー、久瀬伊緒。

コーラー、鷺宮秀平。


「鷺宮」の名前が読まれた瞬間、客席の一角がざわついた。

だがすぐにゲートが開く。


四人が中へ入る。

依里はその背中を見送った。


---


ダンジョンの空気は、地上より少しだけ乾いている。

人工制御された石壁。左右に分かれる侵入区画。天井は低く、音が跳ね返る。観客の歓声は遠く、壁の向こうの鈍い震えみたいに届いた。


先頭は火澄。

すぐ後ろに秀平。真波が半歩右。伊緒はもう少し前へ出たがっている。


開始直後、秀平の声が飛ぶ。


「火澄、左壁。伊緒、見えるもの全部追うな。真波、最初の一撃は温存」


真波が返す。


「温存してる間に先取られる」


「取られない位置を火澄が作る。お前はそこで取れ」


「……はいはい」


返事は軽い。

だが、まだ従っている。


最初の通路を曲がった瞬間、天井がざわついた。


「上」


秀平が言うのと、黒い塊が落ちてくるのはほぼ同時だった。


《糸嚙み》。

犬ほどの大きさの節足獣だ。天井に貼りつき、獲物の上に糸袋ごと落ちる。噛むより先に絡め取る。


火澄が盾を上げる。

べしゃり、と鈍い音。白い粘糸が広がった。盾ごと持っていかれそうな重さだった。


「右二、伊緒!」


言われる前に、伊緒が走る。

壁を蹴って跳び、二体目の胴を短刃で裂く。粘液が飛ぶ。三体目は真波が叩き落とした。床に落ちたそいつを、火澄が盾の縁で押し潰す。


開始二十秒。

それだけで通路に生臭い匂いが満ちた。


伊緒が口元を歪める。


「歓迎が雑すぎるだろ」


「まだ入口だ。喋るな」


秀平の声は短い。

そのまま前へ出て、足元の糸の張り方を一瞬見る。


「左寄れ。床に残ってる。踏むな」


火澄が左へ寄る。

一歩遅れて真波が避ける。次の瞬間、右床に残った細糸が石片ごと持ち上がった。足首を取るには十分な強度だ。


「……見えてんのかよ」


真波が吐く。


「見えてる」


秀平はそれ以上言わない。


最初の封印装置は、糸嚙みの巣の奥にあった。

伊緒が薄い足場を拾って滑り込み、解除鍵を通す。解除音が鳴る。そのまま奥へ抜けようとした伊緒に、秀平が言う。


「切れ。戻れ」


「まだいける」


「戻れ」


一秒。


伊緒は舌打ちしそうな顔で、だが戻った。


次の瞬間、奥の暗がりから《石喰い犬》が三頭飛び出した。

毛ではなく薄い礫板に覆われた狼型だ。封印装置の魔力音に寄ってくる。


もう一歩深く入っていれば、伊緒は挟まれていた。


伊緒が笑いきれない顔で言う。


「……それも見えてた?」


「匂いが変わった。次、右」


短い。

だが、チームの温度がわずかに変わる。


潮見フォールズは強かった。

正確には、巧かった。


対面の通路から、こちらと同じようにモンスターを処理しながら進んでくるのが分かる。無理に速度を上げない。自分たちもダメージを負わず、こちらにも無駄を使わせる。残留慣れしたクラブの進み方だった。


こういう相手に灰都は弱い。

勢いで押し潰せない。我慢比べになるほど綻びが出る。


ミラー区画に入ると、《礫甲虫》の群れが通路を塞いでいた。

人の胸ほどもある甲殻虫で、前から割るには火力が要る。しかも潮見は、こちらが二基目に入る瞬間を待っていた。


真波が踏み込む。


「行ける!」


「待て」


「今なら割れる!」


真波の一撃が最前列の礫甲虫を叩き割る。道が半歩開く。

だがその瞬間、砕けた甲殻の下から細い尾が跳ね上がる。《針尾蟲》だ。礫甲虫の腹下に潜る寄生型。真波の脇腹を掠める。


ライフタグの色が、青から黄へ跳ねた。


真波が顔をしかめる。


「浅い!」


「ノードまで下がれ」


秀平の声が飛ぶ。


「まだやれる!」


「下がれ」


「一発でこいつら全部――」


「その一発をボス前で使え」


真波が振り向く。

怒りだけじゃない。「ここで引いたら何のために踏み込んだ」という顔だった。


火澄が低く言う。


「下がれ。ここは持つ」


一番削られている男の声は重い。


真波が歯を食いしばる。

そして、下がった。


秀平は一拍も置かなかった。


「交代。真波アウト。朔、入れ」


交代一枚目。


中継ノードから小鳥遊朔が入る。

前線の近くから、そのまま試合の温度に乗れる位置だ。


朔は一言だけ確認する。


「割る場所」


「礫甲虫の右肩。二枚目の後ろ。三拍後」


「了解」


朔の破砕は派手じゃない。

真波の一撃みたいな華もない。

だが正確だった。


先頭を正面から割らず、後ろ二枚目の肩を砕く。背骨みたいに並んだ群れがそこで崩れた。

火澄が盾で押し開き、伊緒が狭い隙間を抜け、秀平が進路を切る。


「左から潮見が寄せてくる。二基目を取る。先に人を見すぎるな」


秀平も中にいる。

叫ぶ声が石壁に跳ね、走る足音と甲虫の脚音と混ざる。

その場にいない人間の声じゃない。息が混じっている。近い。死ぬ距離の声だ。


二基目の封印装置の手前には、《裂喉鳥》が群れていた。

人の頭ほどの大きさで、羽ばたきながら鳴き、鳴いた瞬間だけ魔力感知を乱す飛行種だ。


「火澄、上」


盾が鳴る。

一羽、二羽、三羽。叩きつけるたびに羽根が舞う。伊緒が斜めに跳び、真ん中の一羽の喉を切った。残りを朔が砕く。


封印二基目、解除。


これで、灰都もようやく守護獣へ行ける。

二つの封印を解かなければ、守護獣はまともに落とせない。だからここまでは前座ではない。ここを遅らせれば、そのまま負ける。


潮見も同じく条件を満たし、中央合流路へ寄ってくる。

差は小さい。だが小さい差を最後まで持っていくのが、ああいうクラブだ。


守護ボス前へ入る途中、床が割れ、《噛導蜥》が這い出してきた。

大型爬虫種。音と振動に寄り、獲物を噛んだ瞬間に痺れを流し込む。


一体、二体。

いや、三体。


「前二、火澄。後ろ一、伊緒」


秀平が言う。


「伊緒、殺すな。横へ流せ」


「面倒くせえな」


「潮見の進路へ追え」


伊緒の目がわずかに笑った。


「そういうのは好き」


伊緒が走る。

正面からは行かない。蜥の鼻先を二度、三度と掠めて怒りだけを買う。噛導蜥が向きを変え、対面区画へ流れた。潮見側の足が一瞬止まる。


その一瞬で、火澄が前二体を受ける。

盾で鼻先をずらし、壁へ噛ませる。痺れが石に流れる。朔が首の付け根を割る。一体沈む。二体目の尾が火澄の脚を払う。火澄がよろめく。


「火澄!」


伊緒が叫ぶ。


「見るな!」


秀平の声が飛ぶ。

伊緒の視線が戻る。

潮見はもうこちらを見ている。見られた瞬間に負ける。


火澄は膝をつきかけて、踏みとどまった。

二体目の噛導蜥を盾ごと壁へ押し付ける。朔がそこへ破砕を入れる。骨の折れる音。沈む。


秀平が短く息を吐く。

その呼吸が少し浅いのを、誰も気にする余裕はない。


---


祭壇前の広間に出た瞬間、空気が圧で変わった。

守護獣がいる。


《鐘殻の守護獣》。


人型に近い輪郭だが、胸から腹にかけて巨大な鐘殻を持つ。殻を打つたび衝撃波が広がり、広間の壁から雑魚が落ちる。右腕は槌、左腕は鎖。近づけば潰され、離れれば鐘で揺らされる。


倒せば核が落ちる。

そしてその核は、最後の一撃を入れた側の足元へ落ちる。

だから守護獣戦は、ただ削ればいい戦いじゃない。誰に落とすかまで決めて壊す戦いだ。


しかもここで相手クラブも同じ広間へ寄ってくる。

モンスターと人間が、同じ勝ち筋を奪い合う場所だった。


「火澄、正面。朔、殻の継ぎ目。伊緒、左脚を荒らせ。俺は鐘を見張る」


秀平は後ろで見ているだけではない。

ボスの視線、衝撃波の間合い、潮見の寄せを見ながら、自分でも刃を抜いて広間を横切る。鐘が鳴る前の、わずかな吸気音を聞いていた。


「伏せろ!」


衝撃波が広がる。

石粉が舞い、床の細かな瓦礫が頭上を抜ける。伊緒は半拍遅れたが、声で落ちた。破片が髪先を掠めて飛んでいく。


伊緒が吐く。


「今の、危なかったぞ」


「次から自分で伏せろ」


「言い方」


「喋るな」


朔は黙って殻の継ぎ目だけを割る。

火澄が槌を受ける。広間が揺れる。

潮見も来る。向こうのブレイカーが殻に火力を入れ、最後の一撃の位置を作りにくる。


潮見は丁寧だ。

だから嫌だ。

核を落とす位置まで、きっちり設計してくる。


「潮見、左通路へ落とすつもりです」


秀平が言う。


「分かるのかよ」


伊緒が返す。


「ランナーの位置が早い」


秀平は息を整える。

整えた、というより、整えなければならなかった。古い傷が内側で引きつるような浅さだった。


「潮見は左へ落とす。だから逆を取る。伊緒、最後の仕事だ」


伊緒が振り向く。


「最後?」


「ここで替える」


「マジかよ」


「交代。伊緒アウト。名護イン」


二枚目。


これで交代枠は尽きた。

ここから先、誰が倒れても補充はない。


伊緒が中継ノードへ向かいながら振り返る。


「……勝てよ」


「拾う」


名護澄が入ってくる。

若い。顔が強張っている。

だが足は止まっていない。


「名護。右通路だけ見ろ。核が落ちたら最短で祭壇へ入る」


「……いけます」


「余計なことはするな」


「はい」


守護獣が最後に鐘を鳴らした。


潮見のブレイカーが左肩へ入る。

その瞬間、秀平が叫ぶ。


「火澄、半歩押せ! 朔、右膝!」


火澄が盾で軸をずらす。

朔の破砕が右膝に入る。

守護獣の巨体が傾く。

落ちる向きが変わる。


朔の破砕で、鐘殻の継ぎ目が大きく開いた。


「名護、今だ!」


秀平の声で、名護が右から滑り込む。

短刃が露出した核殻の根元を正確に突く。

乾いた音がして、鐘殻が砕けた。


守護獣が崩れ、胸の内側から光る中枢核が弾き出される。

落ちた先は、名護の足元だった。


「行け!」


秀平が叫ぶ。


名護が飛び込む。

核を抱える。

熱い。重い。両腕に振動が来る。それでも落とさない。


潮見のランナーが反応する。速い。

だが火澄が先に前へ出た。

盾で通路を半歩狭める。半歩で十分だった。


「右、通せ!」


名護が走る。

崩れた瓦礫の隙間。

朔がさっき割った障壁の欠片。

伊緒が荒らして残した死骸の影。

全部が一本の細い線になる。


潮見が追う。

ブレイカーが名護へ踏み込む。

秀平が横から入って肩でずらす。大きくは止められない。だが半拍だけ遅れる。


「火澄、左!」


火澄が振り向く。

潮見アンカーの肩を受け、押し返さず止める。通さないだけで十分だった。


名護が祭壇へ滑り込む。


だがその足元へ、守護獣の死骸の内側から《殻這い》が湧いた。

小型寄生種。脛に貼りつき、魔力を吸う。


「下!」


秀平が叫ぶ。

名護の足元へ飛びついた一匹を、自分で蹴り飛ばす。二匹目は刃で裂く。


その瞬間、潮見のランナーが最後の一歩で寄ってきた。

名護の肩に刃が掠める。浅い。だが痛い。

核が一瞬だけ滑りかける。


「離すな!」


秀平の声が飛ぶ。


名護の歯が鳴る。

肩から血が出ている。手が震えている。

それでも、核を祭壇の接続座に叩き込んだ。


白い光が走る。


> 中枢核接続成立

> WINNER

> 灰都グリット


勝負は、そこで終わった。


---


最初に出た音は歓声ではなかった。

止めていた息が、まとめて落ちた音だった。


火澄がその場で膝に手をつく。

朔は黙って手袋を外している。

名護は祭壇の前でしばらく立ったまま、自分が何をしたのか分かっていない顔をしていた。


退出導線に乗せられ、灰都の四人は祭壇区画を離れる。

そこまで来て、名護は壁に肩をつけて、初めて大きく息を吐いた。まだ自分がやったことを飲み込めていない顔をしていた。


外気のある通路へ戻る頃には、真波が先に待っていた。

途中で下げられた試合を、最後まで聞いていたのだろう。顔が悪い。


秀平が出てきたところで、真波が真っ直ぐ来る。


「……あれで勝って、嬉しいか?」


秀平は答える。


「嬉しいです」


真波の目が細くなる。


秀平は続ける。


「残るための一勝だから」


真波は何か言い返しかけて、やめた。

舌打ちして視線を逸らす。


火澄が低く言う。


「前よりは、試合になってる」


秀平は短く頷いた。


その時、医療区画側から依里が前へ出た。


戻ってきた四人は全員、ダンジョンの匂いをまとっていた。

石粉。モンスターの粘液。焦げた魔力臭。血。

外から見ていた試合じゃない。中で潜って、斬って、潰して、死なない線を踏み続けた四人の匂いだった。


依里は秀平の袖を見た。

背中に浅い裂傷。左手の指先が、わずかに震えている。


蘇生負債。


白嶺時代の死亡が、まだ体に残っている。

それを隠したまま、この男は中でコールしていた。


依里が器具を持って近づくと、秀平は少しだけ目を向けた。


「立てますか」


「まだ」


「じゃあ座って」


秀平は素直に座った。

そこだけが少し意外だった。


通路の向こうで、佐伯が言う。


「勝点九。直接対決を拾ったのは大きい」


透子が足す。


「医療費が増えない勝ち方なのもね」


伊緒が奥から声を出す。


「褒め方が嫌すぎる」


勝ったのに、浮かれた空気にはならなかった。

それでよかった。灰都はまだ、その位置にいない。


依里は秀平の傷に処置布を当てながら、端末の振動に気づく。


新着記事。


> 灰都グリット、直接対決を制す

> “人を壊したコーラー”鷺宮秀平、三部初戦で復帰


依里は、その見出しを見たまま少しだけ息を止めた。


勝っても終わらない。

むしろ、ここからの方が面倒だ。


視線を上げると、秀平もちょうど同じ記事を見ていた。

その横顔は動かない。怒ってもいない。怯えてもいない。


ただ、次節の相手欄――

蒼京ヴァンガード。

その名前のところで、視線が一瞬だけ止まった。


首位。別格。

今の灰都が、拾うだけでは届かない相手。


依里は思う。


この人は、まだ壊れている。

でも壊れたまま、前に出るつもりだ。


首位相手の次節で、それが通るのか。

依里は初めて、鷺宮秀平の負ける顔を見たくないと思った。


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