レッドファイル三話
第3話:警備局長の最期
「紅の書」がもたらした死の連鎖は、ついに日本の治安組織の頂点へと及んだ。
内閣情報調査室(CIRO)の志村が、亡命者・劉慶から受け取った機密データ。それは中国共産党幹部の隠し口座や工作員リストを網羅した、文字通り国家を揺るがす「猛毒」だった。第2話でデータを精査していた若手官僚が不審な死を遂げたことで、事態は外交問題の枠を超え、組織内部への浸透という最悪のフェーズに突入した。
政府は事態を重く見て、データの管理権限をCIROから警察庁へと移管。その全責任を負うことになったのが、警察庁警備局長の**大河内 茂**だった。
静かなる書斎
冷え込みの厳しい二月の夜、大河内は目白の自宅書斎で独り、手元のタブレットに目を落としていた。画面に映るのは、厳重に暗号化された「紅の書」の一部だ。
「……これは、想像以上だな」
大河内は短く息を吐いた。長年、公安警察の頂点に君臨し、数々の裏工作を見てきた彼でさえ、ファイルに記された日本の政財界への浸透工作の深さには戦慄を覚えた。リストには、昨日まで彼と握手を交わしていた閣僚の名前さえ含まれている。
ふと、背後の窓がわずかにガタついた。風ではない。大河内が振り返ろうとした瞬間、部屋の明かりが消失した。
「誰だ」
低く鋭い声。だが、答えの代わりに返ってきたのは、闇を切り裂くような微かな風切り音だった。大河内の首筋に、冷たい感触が走る。注射針のような鋭い痛み。彼は椅子から立ち上がろうとしたが、膝に力が入らない。心臓が異常なリズムで跳ね、視界が急速に狭まっていく。
「……貴様ら、どこまで……」
大河内は机の上の電話に手を伸ばしたが、指先が触れる前に意識は断絶した。倒れ込む彼の体を、闇に溶け込んだ人影が静かに支え、再び椅子へと座らせた。
翌朝。大河内局長は、書斎で静かに息を引き取っているところを発見された。診断は「急性心不全」。持病のない60歳の急死としては不自然だったが、表向きは過労による不幸な事故として処理されようとしていた。
公安の執念
「心不全なわけがない。局長は先週の健康診断でも異常なしだった」
警視庁公安部外事課の佐久間は、監察医務院の廊下で、志村に向かって吐き捨てた。志村は沈痛な面持ちで、かつての戦友である佐久間の言葉を黙って受け止めていた。
「志村、お前の持ち込んだ『紅の書』が局長を殺したんだ。そうだろ?」
「……否定はできない。だが、現場からファイルが収められたドライブは消えていなかった。犯人の目的はデータの奪還ではない」
「警告か」
「そうだ。これ以上踏み込むなという、中国側からの明確なサインだ」
佐久間は、独断で入手した局長の血液検査の結果を志村に示した。
そこには、通常では検出されない微量の特殊な神経毒が含まれていた。数分で体内で分解され、形跡を残さない最新型の毒物。志村には見覚えがあった。以前、海外で暗殺された中国民主化運動のリーダーに使われたものと同じ成分だ。
「俺たちは、もう手遅れなのかもしれない」佐久間が声を潜める。「警察内部に、奴らの『協力者』が確実にいる。局長の警備計画を、自宅のセキュリティ・コードを知り得た人間がだ」
歪みゆく組織
大河内の死は、警察内部のパワーバランスを劇的に変容させた。
後任として警備局長に就任したのは、政治家とのパイプが太い永田という男だった。永田は就任早々、公安部に対して「紅の書」に関する捜査の凍結を命じた。
「これは国家の安全保障に関わる問題だ。独走は許されない。ファイルは内閣府の直轄管理とする」
永田の冷徹な通告に、現場の捜査官たちは激昂した。だが、組織の壁は厚い。昨日まで捜査に協力的だった上司たちが、一夜にして沈黙を守り始めた。志村は、この急速な空気の変化に、目に見えない巨大な「網」が日本を覆い始めていることを実感した。
一方、亡命者の劉慶は、山梨県の山中に用意されたセーフハウスに隠伏していた。志村が訪ねると、劉はテレビのニュースを消し、冷めた笑みを浮かべた。
「志村さん。私の言った通りでしょう? あのファイルを開いた者は、皆不幸になる。私の父も、叔父も、そうやって消されていった」
「……まだ終わらせはしない」
「いや、もう始まっている。あなたの国の警察トップが殺され、後釜に『彼らの息がかかった者』が座った。これは侵略ですよ。銃弾を使わない、静かなる侵略だ」
劉慶は、一枚の古い写真を志村に手渡した。そこには、若き日の大河内局長と、見覚えのない中国人男性が並んで写っていた。
「大河内さんは、最後まで抗おうとしていた。彼は、ファイルの中にある『ある名前』を消そうとしたのではない。その名前を持つ人物を、表舞台から引きずり下ろそうとしていた。だから殺されたのです」
宣戦布告
その夜、志村は単身、深夜の警察庁へと向かった。
永田が座る局長室の明かりはまだ消えていない。志村は警備の隙を突き、大河内が遺した個人用ロッカーの裏側に隠されていたメモを回収した。
そこには、血の滲むような筆跡で一言だけ記されていた。
『蜘蛛の首を叩け』
志村は確信した。警察内部、さらには日本政府の深層に、中国の対日工作を統括する「蜘蛛」が存在する。大河内はその正体に辿り着き、そして消された。
志村が警察庁の庁舎を出ようとした時、背後から声をかけられた。
「志村さん、こんな時間に珍しいですね」
振り返ると、そこには不敵な笑みを浮かべた永田局長が立っていた。その横には、銃を隠し持っているであろう屈強なSPたちが控えている。
「大河内さんの遺品整理ですか? 彼は……少し正義感が強すぎた。この国を動かすには、清濁併せ呑む器量が必要なんですよ」
永田の言葉は、事実上の宣戦布告だった。
志村は無言で会釈し、雨の降り始めた夜の街へと消えた。
劉慶を守り抜き、「紅の書」に隠された真の黒幕を暴くことができるのか。
志村と公安の、組織を敵に回した孤独な戦いが、ここから本格的に幕を開ける。
第3話、完。




