レッドファイル二話
第2話:禁断の受け渡し(本編)
新宿の雑踏は、世界で最も「個」が消失しやすい場所だ。
劉慶は、アルタ前の巨大スクリーンの光を避け、歌舞伎町の裏通りにある古びたカプセルホテルに身を潜めていた。彼の懐には、世界を終わらせる力を持つ銀色のUSBメモリ――「紅の書」が眠っている。
中国共産党員一億人の個人情報、資産状況、そして隠された醜聞。それは単なるデータではなく、党の心臓を握りつぶすための「頸動脈」だった。
「……時間だ」
慶は震える指でスマートフォンを操作した。事前に設定していた、日本政府内にある「協力者」へのコンタクト。彼は、自分の血筋――かつての国家主席・劉少奇の末裔という立場が、日本にとっても無視できない価値であることを知っていた。
闇の中の会談
翌午前二時、場所は千代田区の北の丸公園。街灯もまばらな散策路のベンチに、慶の甥である劉明が座っていた。明は日本で起業し、長く帰化の機会を窺っていた。彼が日本政府との橋渡し役だった。
「叔父さん、本当にこれを持って逃げてきたのか」
闇の中から現れた慶に対し、明の声は震えていた。慶は無言で頷き、小さなノートパソコンを取り出す。背後からは、二人の男が静かに歩み寄ってきた。内閣情報調査室(CIRO)の担当官だ。
「……確認させてください」
担当官の一人、志村が慶の隣に座り、差し出されたUSBを接続した。画面に流れる、膨大な階層構造の暗号化ファイル。志村は、特殊な解読ソフトを走らせ、ランダムに一つのセルを開いた。
そこには、現職の政治局常務委員の海外隠し口座と、その家族がアメリカで所有する不動産リスト、さらには日本国内で活動する「千人計画」協力者の実名リストが整然と並んでいた。
「……これは」
志村の額から汗が滴り落ちた。これは単なる機密情報ではない。中国の支配体制を根底から覆し、日本にとっては対中外交において百年間有効な「究極の切り札」になり得る爆弾だ。
「保護を約束しましょう。貴方と、あなたの家族全員の」
志村の言葉に、慶は初めて深く息を吐いた。だが、その安堵はわずか数秒で打ち砕かれることになる。
静かなる凶行
数時間後。千代田区の官庁街からほど近い、警察庁の機密保護施設。
「紅の書」のデータの一部を預かり、精査を任された若手官僚の相馬は、極度の興奮と恐怖の中にいた。彼は志村の部下であり、今回の受け渡しで現場の記録を担当していた。
「これを公表すれば、歴史が変わる……」
深夜、相馬は地下のデータルームを出て、自室へ戻るためにエレベーターに乗った。エレベーターが閉まる直前、清掃員風の男が滑り込んできた。
相馬は不審に思わなかった。そこは厳重なセキュリティに守られた聖域のはずだったからだ。だが、男が手を動かした瞬間、相馬の視界が急激に暗転した。首筋に、極細の注射針が突き刺さる。
「……っ!?」
声すら出ない。強力な筋弛緩剤と心停止を誘発する特殊な薬品が、一瞬で彼のシステムをシャットダウンさせた。男は崩れ落ちる相馬を支え、エレベーターの防犯カメラに背を向けたまま、静かに呟いた。
「『書』は、まだあそこにある。掃除を続けろ」
それは、北京から発せられた「物理的抹消」の号令が、既に日本の心臓部にまで浸透していることを意味していた。
牙を剥く猟犬
一方、新宿。
慶は志村たちの用意したセーフハウスへ移動するはずだった。しかし、明が運転する車が靖国通りに出た瞬間、慶の直感が警鐘を鳴らした。
「止まれ! 明、止まるんだ!」
「どうしたんだ、叔父さん?」
次の瞬間、背後の黒いワンボックスカーから、消音器付きの銃口が火を吹いた。
パシュッ、という乾いた音と共に、明の車のリアウィンドウが粉々に砕ける。新宿の華やかなネオンの下、一般市民が気づかぬうちに、音の出ない銃撃戦が始まった。
「国家安全部(MSS)だ……! もう見つかったのか!」
慶は叫んだ。彼らは「紅の書」を奪い返すことよりも、それを保持する人間を消し去ることを優先している。情報が漏洩したのなら、その情報源を根絶やしにする。それが中国のやり方だ。
明は必死にハンドルを切り、路地裏へと車を滑り込ませた。しかし、前方からも別の車両が道を塞ぐように現れる。完全に包囲されていた。
「叔父さん、これを!」
明が助手席のグローブボックスから取り出したのは、日本政府から密かに渡されていた発信機だった。しかし、それは信号を発していない。
「……電源が入っていない? まさか、日本側の中に裏切り者が……」
慶の戦慄は、相馬の不審死とリンクしていた。日本政府、中国政府、そしてその間で動く二重スパイ。誰が味方で、誰が敵か。情報の「質量」が大きすぎて、関わる者すべてが闇に呑み込まれようとしていた。
第2話:結末
慶は車を飛び降り、歌舞伎町の迷宮へと駆け出した。背後で明が叫ぶ声が聞こえたが、振り返る余裕はない。
「紅の書」は今、慶のポケットの中で不気味に冷たく光っている。
日本政府が自分を守ってくれるという期待は、若手官僚の死とこの追跡劇によって崩れ去った。今や、東京という巨大な檻の中で、慶は一億人の運命を背負ったまま、一人で生き延びなければならない。
慶は雑踏に紛れながら、ふと自分のスマートフォンの画面を見た。
そこには、差出人不明の新たなメッセージが届いていた。
『志村を信じるな。15分後に、新宿西口の地下駐車場に来い。――J』
「J」とは何者か。新たな救世主か、あるいは北京から送り込まれた真の刺客か。
アジアの勢力図を塗り替える地殻変動は、まだ始まったばかりだった。




