変化の兆し
ミハドは、神の雑草と格闘する主の背中に一礼し、一人、鬱蒼とした森の奥深くへと入っていった。
女神が張ったという結界は、主だけに作用するらしく、ミハドの出入りは自由だった。
スキル「サバイバル」が、森のあらゆる生命の気配を彼に伝えてくる。
その時、ミハドは足を止めた。
濃い血の匂い。そして、明らかに人間ではない、強大だが弱った獣の気配。
茂みの向こうで、大きな影が苦しそうに息を潜めている。
ミハドが音もなく茂みを掻き分けると、そこにいたのは、銀色の毛並みを持つ、巨大な人狼だった。
その肩口には、聖なる力によって焼かれたような、深い傷があった。
魔王軍の幹部、人狼族のガウルだった。
ガウルは、勇者の一団に追われ、命からがら、誰も近寄らない「禁断の森」へと逃げ込んできたところだった。
「大人しくしろ」
突如として背後に現れた、底知れぬ気配の男に、ガウルは最後の力を振り絞った。
「グルアアア!」
彼は、切り札である「威圧」のスキルを発動させ、怯んだミハドを殺そうと襲い掛かった。
だが、ミハドには、全く通じなかった。
何十億という狂信的な「神の信者」たちと共に過ごし、その頂点に立つ「生ける神」に仕えてきた男にとって、魔王軍幹部の威圧など、赤子の威嚇にも等しかった。
ガウルの爪がミハドの喉を掻き切ろうとした刹那、ミハドの巨体は霞のように消え、次の瞬間、人狼の太い首は、万力のような腕力によって地面に縫い付けられていた。
卓越した戦闘技術と、スキルとレベルアップによって飛躍した身体能力。ミハドの圧勝だった。
「ぐ……!」
「ほう。言葉が分かるか」
ミハドは、押さえつけたガウルを見下ろし、言った。
「意思の疎通が出来る者は、食いたくない」
「……は? 何言ってんだ、お前」
死を覚悟していたガウルは、あまりにも間の抜けた言葉に、呆れた様子で答えた。
「黙って去れ」
ミハドは、肩に担いでいた巨大な斧の切っ先を、ガウルの喉元に突き付けた。
「そして、ここで見たこと、出会ったこと、その全てを忘れるんだ。分かったか?」
その氷のような瞳に、ガウルは本能的な死を感じた。こいつは、魔王でも勇者でもない、全く異質の「何か」だ。
「……分かった」
ガウルが答えると、ミハドは圧力を解いた。ガウルは、深手を引きずりながら、転がるようにしてその場を去っていった。
その背中が見えなくなるのを見届けると、ミハドは、久しく忘れていた高揚感と共に、豪快に笑った。
「ハッハッハ!」
これこそ、ミハドが心待ちにしていた、変化の兆しであった。
庭で雑草を抜いている、我が主。その、神もが恐れる「力」の源泉に、ミハドは興味津々なのだ。
生かせば、災いに繋がるかもしれない。
あのガウルが、勇者や魔王をこの森に連れてくるかもしれない。
が、殺せば、昔に逆戻りだ。
意思の疎通が叶う「者」を、無下に殺すことを、主は望まない。
かつて、地球では、生きる為に、守る為に、多くの、本当に多くの命を奪った。
遺恨を残さぬよう、根っこから取り除く事でしか、安心出来ない日々があった。
だが、ここは異世界だ。
そんな事はもう、したくはなかった。
ミハドは、再び斧を担ぎ直し、今日の獲物を探し始めた。




