虫がいい話ですが、私が殺しました。
ああ、神様。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
私は頭が潰れた死体の前で、泣き叫んだ。
私は会社の社長である父と、弁護士の母の娘として産まれた。周りからは「いい両親に産んでもらえたね」とか、「お前、親のおかげで令嬢ってやつなんだろ? いいな」とか言われたが、全然そんなことはなかった。もし、私の人生を代わってくれる人がいたなら、私はすぐにでもこの人生を譲っていただろう。だって、
私の両親は狂っていたから。
時間がない。もうすぐ母が帰ってきてしまう。早く、椅子を持ってこないと。
私は椅子を持ってくる間に、母の罪を思い出す。
※※※
母は残虐だった。母は正義感が人一倍強いから弁護士をやっている。それだけならいい。私もそこは立派だと思う。だが、あまりに度が過ぎたのだ。
私の家が不法侵入されたことがある。私の家は綺麗で、大きい。沢山の花が植えられた花壇があるし、大きな池だってある。それなのに門のセキュリティは甘い。そして何より、明るい。だから、侵入するにはもってこいの家だったのだろう。
母は不法侵入に気づいたとき、ひどく驚き、焦り、ついには激怒した。正義感の強い母だ、不法侵入など、到底許せなかったのだろう。相手は扉を開く音を立てずに、どこからか静かに廊下に乗り込んだ。母は冷静に廊下の物陰に隠れ、隙を見て飛び出し、周りの物をじっくりと吟味しながら廊下を慎重に歩く相手の頭を、強く殴りつけた。
殴る殴る殴る。相手が突然の激痛に悶えて苦しんで暴れても、殴る手は止めない。手を強く握りしめて、何度も何度も何度も。相手は命乞いなんてできず、叫び声も出すこともできない。その体からは大量の血が溢れ出し、廊下を赤黒く染める。母は気が済むまで家全体に響き渡るような鈍い音を出して殴り続けた。
私は廊下の奥にある自分の部屋の扉を半開きにして、その様子を隠れ見ていたが、もう、母の元には、グチャグチャで、メチャメチャで、原型なんて全く留めてない、
死体だけが残っていた。
母は苦虫を噛み潰したような表情で、その死体を眺めていた。
私は部屋の扉を開いたまま、胃の中から喉元にせり上がってきたものを止めるため、喉を手で押さえつけたが、その凄まじい勢いに負け、嘔吐してしまった。母の残虐性や害意、一つの命が終わったこの惨状を目の当たりにして、朝食べたもの昼食べたもの夜食べたもの、まとめて全部何もかも全てを吐き出した。
今まで嗅いだことがないような強烈な臭いの吐瀉物がドロドロと円形状になって床に広がっていく。吐瀉物がカーペットにまで広がり、グチャ、という気味の悪い音を立て付着する。気づけば私は大粒の涙を流していて、嗚咽が漏れそうになるが、無限に胃からせり上がってくる吐瀉物がそれを邪魔した。
床を汚した。怒られる怒られる怒られる怒られる怒られる。
キキキという扉の音がした。
扉の隙間から廊下を覗こうとした。
目の前にほっそりとした白い足が立っていた。
上を見上げた。
お母さんが、私を見てる。
※※※
母はそうやって何か自分に不都合なことがあると、自分の正義感が許さないと、沢山殺した。それでも死体は絶対に見つからない。捕まる可能性は〇パーセント。
だって、うちには、父がいるのだから。
私は父の書斎から持ってきた椅子をリビングに置いた。そして家の一番奥にある物置を目指す間に父の罪を思い出す。
※※※
父は悪知識に富む男だった。母が創り上げたというか、終わらせてしまった死体の処理に困ると、父がその悪知識を存分に発揮し、まるでそこには死体なんて初めからなかったかのように、綺麗な地面だけが残っている。
父は後処理だって完璧だ。死体を完全に消したあと、警察が来たことなんて一度もない。母が『殺害した』という事実は父の手によって私達三人以外、誰も知ることはできなくなるのだ。
不法侵入の死体も、そうやって水に流された。そして、死体のことを完全に忘れ去った父は、はち切れそうなほど口角を上げて、母と私にこう言うのだ。
「さあ、一緒にテレビでも見ようか」
そして、父は悪知識だけでなく、悪食だった。去年の夏のこと。父が「知り合いが運営しているキャンプ場がある。行かないか?」と、私と母に提案した。母は「私はいい。虫とか怖いし」とぶっきらぼうに断った。
正直、私も断りたかった。だけど、隣に立つ父を見上げると、私を見下ろす父の目が不自然なほどに大きく開き、口が中途半端に開いていて、頬の肉を上げて微笑んでいた。私は、その父の顔が恐ろしくて、
「……うん、私も行くよ」
と言うしかなかった。
一時間ほど電車に乗って、二十分くらいバスに乗った。バスを降りたら父の後ろを俯きながら歩いて、森の奥にあるキャンプ場に向かった。時折、父が「どうだ、楽しいか?」と私に問いかけた。ただ歩いているだけでしょ、とは思いつつも、私はあの父の顔が脳裏にチラついて、
「……うん、楽しいよ」
と微笑んだ。微笑んだはずだ。
キャンプ場に着いて、父が受付の人と長い間話した後、河川敷にある設営エリアに向かって、テントを張った。私も手伝ったけど、力が足りなくてあまり意味はなかった。
テントを設営した後、父は少しの間テントの中で休憩した。数十分くらいすると、父はテントから出てきて、「めったに森なんて来れないし、もっと奥の方に行こうよ」と私に言った。私は言うまでもなく、
「……はい、お父さん」
と言うしかなかった。
森は昼間だというのに薄暗く、不気味だった。背の高い木々は私を見下ろすように立っていて、時々ざわざわざわ、と声を上げた、もちろん実際は、ただの木の葉が揺れる音だ。
父は地面に落ちている先の尖った鋭利な枝や、昨日の雨でぬかるんだ土に気をつけながら、森の奥へと歩いていった。私は父以上に足元を注意して歩き進めた。虫を踏みたくなかったから。
しばらく歩くと、父が前方を見て「おっ」と声を漏らした。わたしは父の大きな体で前の様子が見えなかったため、少し右にずれて前を見た。そこには、ゲームでよく見るような、先が真っ暗で何も見えない洞窟があった。
「うわー! 洞窟、初めて見たぞ!」
父は喜びの声を上げて、先ほどまで足元を注意して歩いていたのが嘘みたいに駆け出した。まだ昼だし、辺りが暗くなるまでには時間があった。私は先ほどと同じ速度で歩き進め、洞窟の入口に着いた。
父が洞窟に入ってすぐのところで止まって地面を見ていたから、私はどうしたのか気になって、父に近寄った。
地面では『何か』を食べようとしているのか、蟻の大群が列を作って行進していた。私は列の先の方を目で追いながら洞窟の奥にゆっくりと進んでいくと、蟻の最前列は地面に倒れている『何か』を貪り食っているのが見えた。暗くてよく見えないため、私は更に洞窟の奥に進んで、見た。
その『何か』は首が切れかかっている、死体だった。
私は一歩後退りして、何かにぶつかる。後ろを振り返ると、それは、その大きな黒い目で私を見下ろす父だった。
私はその凄惨な惨状に口をわなわなと震わせ、目から涙が自然とこぼれ落ちるが、父はそんな私に「あー。これは死んでるね」と言って、死体に駆け寄った。
父は死体の首根っこを掴んだ。首はもともと切れかかっていたから、死体はミチミチミチ、と気色が悪い音を奏でて、今にも頭と胴体が完全に切断されそうになる。
「お父さん! やめてよ!」
「大丈夫大丈夫。こういうのが意外と美味しいんだよ」
美味しい? 父は何を言っているんだ?
その瞬間、父が死体の後頭部に勢いよく歯を立て、ガリガリ、バリバリ、と不快な音を立てた。その振動で、首はぶらぶらと揺れた後、切れた。切断された。頭と胴体が、完全に分かれてしまった。
「あ、あ、あぁ……」
言葉が思うように出なかった。数秒間、父が不快な音を出し続けた後、その後頭部は父の歯の勢いに負け、グチャ、と完全に砕け散ってしまった。
「うん、美味しいじゃないか。次はこっちにしようかな」
父は指の関節に噛みついて、ぶちり、ぶちり、一つずつ食していく。わたしは我を忘れて必死に泣き叫んだ。「やめて、もうやめてよ!」
父はそんな私の言葉が聞こえていないのか、ぶちり、ぶちり。死体を弄ぶ残酷な害意で、一つ、また一つ。手を全て貪り尽くしたと思ったら、ついには足の関節にまで手を、いや、口を出して。
ぶちり。
※※※
私は父を思い出して吐きそうになりながらも、なんとか物置からキャンプロープを取り出した。
私は嫌いな父と母のことを思い出したが、うちの家族で一番大嫌いなのは私だ。私自身だ。
父と母は常に狂っているわけではない。普段は至って普通の夫婦だ。だが、時折、異常な好奇心や歪んだ正義を相手に向けて、大切な命を奪い去ってしまう。
二人は害意の塊だ。
そんな父と母が嫌いだから、父と母への嫌悪感が増すごとに、私があの二人の血を引いているという事実が私の心を襲う。そして、それを一番実感したのは昨日だ。昨日私は、
初めて殺しを経験した。
私はキャンプロープを持ってリビングに向かいながら、昨日の罪を思い出す。
※※※
私は数年前に、車を自由に操れる年齢になった。そのとき父は、そんなわたしにスーパーカーをプレゼントした。
「女の子にこんなものは要らないでしょ」
と母が言ったが、父は「まあまあ、これで僕らがいなくとも遊べるじゃないか」と母を宥めた。私は父も母も嫌いなのに、スーパーカーの所有欲に負けてしまい、
「ありがとう、お父さん」
と言って、スーパーカーを受け取ってしまった。これが、間違いだった。
昨日、父も母も仕事に出掛けていた。私は暇だったから、父に買ってもらったスーパーカーでいつものように、ありとあらゆるところを走り回った。
午前十時頃、私は人が滅多に通ることがなく、スーパーカーで走るにはちょうどいいくらい広大な場所を走っていた。私はよくあそこを通るし、心地が良い。あそこは私の庭だった。だから私は、完全に調子に乗っていて、油断していたのだ。
私は心地よい風を一身に受けながら、スーパーカーを加速させた。暖かな陽の光が私に降り注ぐ。嫌いな父や母なんて、今はいない。
私の、私だけの時間だ。
風を切り、陽に当たり、加速して、加速して、加速して、加速して、加速して、
ぶちゃり
母が殴る音と、父が貪り食う音の、中間のような音がした。その音のせいで嫌な想像が頭をよぎって、変な汗が身体中から吹き出てくる。私は車をすぐに止めて、音が聞こえた辺りを見た。
頭が潰れて、ピクリとも動かない体が力なく倒れていた。相当な勢いでぶつかったのか、頭は原型を留めておらず、グチャグチャだ。頭だった場所からは血が溢れだしていて、地面をゆっくりと赤黒く染める。血が止まることはない。それだけで、即死だと分かった。
もう、この命は戻らないと分かった。
ああ、神様。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
私は頭が潰れた死体の前で、泣き叫んだ。
パニックになってわけがわからなくなった。そして、最低な私は然るべき機関に連絡するのではなく、震える手で母に言い訳をするための電話をした。
「だってあんなところを通るなんて思うわけないじゃん!」
私は電話が繋がって開口一番、そう叫んだ。
「え、待ってよ。いきなり電話してきてどうしたの?」
「車で……車で轢き殺しちゃったの!」
「ああ、なんだ……詳しいことは家で聞くからね。お父さんも今日の帰りは早いし、大丈夫よ」
どういうこと? この人は何を言っているんだ? 大丈夫なわけない。失われた命は戻ってこないのだぞ。
「そうだ。明日はお父さん休みだから、また新しい車を買ってもらえばいいじゃない」
ああ。この人は私が『車を汚したから』こんなに泣いて電話をしてきていると思っているのだ。私とこの人は、人間として根本から違うのだ。おそらく、父もそうだ。この人達は害意で命を粗末にする。でも違う、私はこの人達とは違うの違うの違うの違うの違うの。
私は電話を切った。私は全速力で家の自室に戻り、掛け布団にくるまってぶるぶる震えた。私はどうすればいいの、どうすれば償えるの、どうすれば許してもらえるの。
体と精神が限界に達したのか、私は気絶するように眠ってしまった。
※※※
リビングに到着し、ロープを柱にくくりつける作業も終わった。
殴って苦しめて殺して処理して食して、それでも自分はのうのうと笑顔で暮らそうだなんて、みんな虫がいいね。
私は違う。椅子は用意した。
縄も柱にしっかりと固定してある。
私は椅子に乗って、背伸びした。
※※※
ようやく仕事が終わった。いや、まだ終わりじゃないか。これから会社のみんなで、僕が主催した飲み会に参加するのだから。
あまり飲みすぎないようにしなければいけない。だって明日は大事な一人娘と一緒に車を選びにいくのだからね。
そういえば、僕が無理を言って、今日の飲み会で初めに、田村くんに面白い話をしてもらうことにしたんだっけ。でも、やっぱりそんなの、面白くないだろうな。
そうだ。虫がいい話だけど、田村くんに頼み込んで、変わってもらおう。昨日のことを、僕達の庭で起こった出来事を、大事な一人娘のほっこりする話を、僕に話させてもらおう。娘は年齢的に、価値観が僕らとは全く違うからね。
誰にでも絶対的に平等な娘が、
小さいのに聡明で愛らしい娘が、
どんな相手にでも優しくする娘が、
ミニカーで虫を轢いて泣いたって。
※※※
みんな、虫がいいね。
ほんと、虫害意ね。
私は首に縄をかけた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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※二周目は、さらに物語が楽しめるかもしれません。