廃校と少女と怪しい男
プールの後の5時間目。生ぬるい風に子守唄のような先生の声。
大好きな人に抱きしめられたような安心感。
そんな心地よいぬくもりがやわらかく眠りへと誘ってくる。
(このまま、眠っちゃおうかな……)
ふわふわ、ふわふわと思考が薄れていく。
(ふわふわ……わたあめ。クッション。お布団。……雲。)
感覚が無くなっていく。ふわふわ、ふわふわ、浮遊感。
(雲の上は……どうなってるんだろう。あたしも行けるかな……)
もう自分の形が分からない。
後は、思考を手放すだけで────
「桜田さん!!」
「うおおわ!?」
悲鳴のような叫び声に驚き、少女──桜田あんずは勢いよく起き上がる。
「……びっくりした。いま、あたし呼ばれた……よね? 誰が……」
あんずは声の主を探すため、周囲に視線を巡らせる──が、誰もいない。
いや、誰もいないどころではない。
「ここ……どこ?」
砂だらけの下駄箱。
薄汚れたプレートに書かれた『職員室』という文字。
蜘蛛の巣が巻かれた大きな鏡。
埃まみれで、歩けば足跡がつきそうな階段。
どこかの学校であることは間違いなさそうだ。
あんずは起き上がり、手についた砂をパンパンと叩いて落とす。
(……学校ではあるけど……なんか、汚いというかボロいというか……)
……廃校?
そんな言葉が浮かび上がってきた。
……どうやらあんずは、廃校に運び込まれてしまったらしい。
(……いや、なんでだよ)
とりあえず、状況整理のためにもう一度辺りを見渡す。
「あ、鏡……うわめちゃくちゃ汚い」
下駄箱の側に取り付けられた鏡を見つけ、とてとてと近寄る。
人差し指でなぞってみると、指は埃まみれになってしまったが、鏡はなぞった所だけ本来の光を取り戻していた。
あんずは指についた埃をふっと息で払い、鏡を覗き込む。
(……どれくらい放置されていたら、こんなことになるんだろう……)
少なくとも、最近の出入りはないように見える。
先程なぞったところ以外は埃で灰色になっており、何も映し出さない。
もう一度埃を払おうと鏡に1歩近づいた、その時。
「あ、起きた?」
「っ!」
……声が聞こえた。
咄嗟に口を押える。あやうく悲鳴を出すところだった。
あんずは慎重に声の主を確かめる。
(……廊下から聞こえてきた、けど……)
下駄箱の影に隠れながら頭をのぞかせ、廊下の向こうの男を探す。
しかし、見ることが出来なかった。
(……なに、あれ……)
最初は周囲の明るさに目が慣れず気づかなかったが、明らかにおかしい点がある。
職員室に続く廊下から先が完全に暗闇と化しているのだ。
電灯が切れてしまっているからなどではない。
こちら側の明かりを一切反射しない、ただの暗闇がそこにある。
しかもその中から男の声がする。こんなの、どう考えたって心霊現象だ。
あんずはなにか対抗出来る手段はないかとポケットに手を突っ込む。
男はこちらの警戒に気づかず喋り続ける。
「起きてくれて本当に良かったよ。このまま寝続けていたらどうしようかと……。」
ほんとうに、よかった。
安堵したような声色に、体の緊張が解ける。
……聞いていて心地の良い声だ。決して威圧することがないように、怖がらせないようにと気をつけているのか、あんずが今まで聞いてきた大人たちの中でも一番、柔らかくて優しい声。
(……いやまて、罠かもしれない)
一瞬心を許しかけたが、暗闇から謎の男に声を掛けられているという状況には変わりない。
警戒するのが1番だ。
そう思い直し、あんずはポケットの中のそれを強く握る。
コツコツ、コツコツと足音が近づいてくる。
暗闇から人影が現れる。
……子供のポケットの中には、夢が詰まっている。
例えば綺麗な石、誰かが捨てたであろうBB弾、デカイ石、ケセランパサラン、ペチャンコになった葉っぱ、ダイヤモンド、ゴツイ石など…。
ちなみに言うとケセランパサランはなんかの綿毛だしダイヤモンドは土をいじくったら出てくるなんか綺麗な石みたいなやつなのだが、知ったことではない。
子供にとってはそれがどんな形でどんな輝きを持っているのかが全てなのだから。
……色々と長ったらしく説明したが、要はこういうことだ。
『子供のポケットの中には、大量の“武器”がある』
「……? なんでそんな所にいるの?」
男がこちらを見る。
視線が合う、その瞬間。
「せんてひっしょう!! どりゃーーー!!」
「うわ何ウワアアアアデケェ石!! っあ」
男の目の前に躍り出てポケットの中に入っていたそれ──デケェ石を思いっきり投げる。
ゴンッ!!と人体から出ても大丈夫なのか心配になるような音を奏でながら眉間にクリーンヒットした。
男の体がゆらりと傾く。
「、ぐっ」
「やったか!?」
「やったかって何!?」
しかし案外丈夫なのか、なんとか片足に力を込めて倒れるのを防ぎご丁寧にツッコミも入れてくれた。
さて、どうしよう。あんずは考える。
男とあんずの距離はわずか10mほど。
ちんたらしている暇は無い、とまた石を構える。
男の表情が青ざめていくが、未だに反撃する素振りは無い。
(……なんで?)
一瞬、とてつもない違和感を覚えた。
しかし、今はそんなことに気を配る余裕は無い。
あんずはすぅはぁと深呼吸をし、2個目のデケェ石を投げる。
「あぶなっ!!」
……今度は避けられてしまった。
3個目。
「いっ」
男の頬を掠める。
4個目。
「ちょっ」
ノーコン。舌打ち。
5個目。
「ぐふっ」
腹部に当たった。
6個目。
「あぶっいや待ってどんだけ石持ってんだよ!!」
「くそっ余裕だな……。これでどうだ!縁石!!」
「縁石!? どこから出したいやまってガチで死ぬって待ってちょっと!!」
ぷるぷると震える両手で縁石を掲げ、思いっきり投げようとしたその時。
「本当に待って!! あんず!!」
「え」
あんずは思わず縁石を落としてしまう。
投げられた訳では無いのになぜか男は「あぶなっ!」と慌てているが、そんなことはどうだっていい。
あんず。
それは紛れもなく自分の名前だった。
……が
「……なんであたしの名前知ってるの……?」
「えっ」
男は(あ、やべ)という表情でわかりやすく動揺する。
あんずの警戒心は一気に限界突破する。
流石に警戒されていることに気付いたのか、男は慌てて弁解しようとする。
「ちっ、違うよ!? その、名前を知ってるのは、えっと……その……」
…………。
沈黙。
弁解になっていない。
あんずは男を警戒しながらも落としてしまった縁石を拾い、もう一度掲げる。
その行動を不思議そうに見つめていた男は、数秒経ってからあんずのやろうとしていることに気付き青ざめる。
深呼吸をしながらゆっくり男に近づくあんず。
あんずから距離をとるように後ずさりする男。
……これじゃあ埒が明かない。
そう思ったあんずは縁石をめいっぱいフルスイングし────
「ちょっまって!! マジで死ぬって!! 本当に死ぬからそれ!! 助けて男の人!!」
最後の一言で力が抜けてしまい、コントロールがぶれてしまう。
そのせいで縁石は下駄箱へ飛んでいく。
二人の間に気まずい空気が流れる中、ガシャーン!!という弁償確定の音が響く。
「…………」
「……男の人、俺か……」
まじでなんなんこの人。あんずは心の中で毒づいた。