氷の公爵令嬢は、静かに微笑む
王立アカデミーの卒業を祝う夜会は、若さと野心、そしてほのかな熱気に満ちていた。シャンデリアの光が磨き上げられた大理石の床に反射し、着飾った貴族の子弟たちの笑い声をきらきらと乱反射させる。
その喧騒の中心から少し離れたテラスへのガラス扉のそばに、わたくし、セレスティーナ・フォン・アイゼンベルク公爵令嬢は佇んでいた。
銀糸の刺繍が施された濃紺のドレスは、夜の闇を溶かしたかのように静かで、白銀の髪は結い上げられ、一筋の後れ毛すら許していない。誰かがわたくしを「氷の令嬢」と呼んでいるのを知った。感情の読めない青い瞳と、滅多に動くことのない唇が、そう呼ばせるのだろう。
わたくしの視線の先、輪の中心で楽しげに語らっているのは、この国の第二王子であり、わたくしの婚約者であるクラウディオ殿下。そして、その殿下の腕にまるでツタのように絡みつく、ピンク色のドレスの可憐な少女。新進気鋭の男爵家の令嬢、マルティナ様。
「まあ、クラウディオ殿下とマルティナ様、本当に仲睦まじいわ」
「それに比べて、セレスティーナ様はいつもお一人で…お可哀想に」
「婚約者がいらっしゃるのに、あんな風に他の女性と…殿下もあんまりだわ」
扇の陰で交わされる囁き声が、波のように寄せては返す。同情、嘲笑、そしてわずかな侮蔑。どれも、今のわたくしの心には届かなかった。わたくしは、ただ静かに、これから起こるであろう嵐を待っていた。わたくしが主役の、茶番劇の幕が上がるのを。
案の定、クラウディオ殿下がマルティナ様を伴って、こちらへ歩みを進めてくる。その顔には若さゆえの正義感と、愚かさゆえの自己陶酔が浮かんでいた。
「セレスティーナ!」
夜会の喧騒を突き破る、張りのある声。一瞬で、周囲の視線がわたくしたち三人に突き刺さる。面白い見世物を見つけた、という好奇の視線だ。
「君との婚約を、今この時をもって破棄させてもらう!」
高らかな宣言。マルティナ様が殿下の影で、か弱く肩を震わせるのが見えた。見事な演技だわ。
「理由をお伺いしても?」
わたくしは、瞬きもせずに静かに問い返す。その態度が気に食わなかったのか、殿下は眉をつり上げた。
「まだとぼけるか!君は、その底意地の悪い嫉妬心から、私の愛するマルティナに数々の嫌がらせを行った! 彼女の教科書を魔法で燃やし、夜会のドレスを切り裂き、あまつさえ、このマルティナを階段から突き落とそうとした! その陰湿な行いの数々、マルティナからすべて聞いている!」
会場がざわめきに包まれる。公爵令嬢が男爵令嬢にそんなことやるとでも?なんともまあ、陳腐な筋書き。
「わたくしが、そのようなことを?」
「そうだ! 君の氷のような冷たい心は、太陽のように温かいマルティナの心を深く傷つけた! 君のような女に、未来の国母が務まるはずがない! 真に私の隣に立つべきは、心優しく、誰からも愛されるマルティナだ!」
殿下がマルティナ様の肩を抱き寄せ、彼女はそれに寄り添い、潤んだ瞳でわたくしを見つめる。「ひどいわ、セレスティーナ様…」と、蚊の鳴くような声で呟いて。
――ああ、馬鹿馬鹿しい。
わたくしは、アイゼンベルク公爵家に生まれ、次期公爵として、そして王妃となるべく、物心ついた時から帝王学と魔法学を叩き込まれてきた。わたくしの一挙手一投足は、常に公爵家の、ひいては国の利益のためにある。
そんなわたくしが、個人的な嫉妬ごときで、何の利益にもならない嫌がらせなどするはずがないでしょう。教科書を燃やす? それより有益な魔法書はいくらでも読める。ドレスを切り裂く? わたくしの侍女が仕立てるドレスの方が一級品だわ。階段から突き落とす? そんな不確実な方法で恨みを買うリスクを、わたくしが取るものですか。
もし、本当に彼女を排除するなら、もっと静かに、誰にも気づかれず、完璧に成し遂げる。それこそが、アイゼンベルクのやり方。
けれど、そんなことをこの愚かな王子に説明するだけ無駄というもの。
「…そうですか」
わたくしがこぼしたのは、たったそれだけの言葉だった。反論も、弁明も、嘆願もしない。ただ、事実として受け入れる。
「なっ…その態度はなんだ! 少しは反省したらどうだ!」
「反省すべきことが、ございませんので」
わたくしの静かな声に、殿下は言葉を失う。その時だった。
「ああ、なんてこと!ご自身の過ちを認めにならないなんて。わたくしが至らないばかりに、セレスティーナ様のお心を乱してしまって…!」
悲劇のヒロインを演じるマルティナ様の感情が、ついに昂りの頂点に達したらしい。彼女の足元から、淡い緑色の魔力の光が溢れ出し、制御を失ったツタや茨が、意思を持った生き物のように床や壁を走り始めたのだ。
「きゃあ!」
「なんだこれは!」
悲鳴と怒号が上がる。ツタはテーブルをなぎ倒し、客人のドレスに絡みつき、天井のシャンデリアにまで伸びていく。会場は一瞬にしてパニックに陥った。マルティナ様の専門は植物魔法。しかし、彼女の魔力では、感情に呼応して膨れ上がった植物たちを制御しきれていない。
「マルティナ!しっかりしろ!」
殿下が叫ぶが、彼女は泣きじゃくるばかり。駆けつけた王宮騎士たちの剣も、切っても切っても再生するツタの前では無力だった。
このままでは、大惨事になる。
わたくしは、小さく息を吸った。
別に、誰かを助けたいわけではない。ただ、これ以上、わたくしの卒業記念の夜会を台無しにされるのは、気分が悪い。
すっ、と右手を前に差し出す。指輪も飾りもない、白い手。
「来たれ、静寂の銀つらら。凍てつく吐息もて、その狂騒を眠らせよ――《サイレント・グレイシア》」
わたくしの唇から紡がれたのは、古式の高位魔術。詠唱と共に、指先からダイヤモンドダストのような冷気がほとばしる。それは暴力的な吹雪ではない。空気を震わせるほどの静謐な冷気が、暴れ狂う植物たちを優しく、しかし抗いがたい力で包み込んでいく。
ツタや茨は、その動きをぴたりと止め、美しい白銀の霜をまとって、まるで繊細なガラス細工のように静止した。ビリビリと空気を揺らしていた魔力の奔流が、嘘のように凪いでいく。
そして、次の瞬間。
凍てついた植物たちは、きらきらと輝く光の粒子となって、音もなく崩れ落ち、消えていった。後には、何事もなかったかのような静寂と、冷たく澄んだ空気が残されるだけ。
呆然と立ち尽くす、殿下とマルティナ様。そして、会場にいる全ての人間が、信じられないものを見る目でわたくしを見つめていた。
その沈黙を破ったのは、厳かな、それでいて芯の通った声だった。
「――見事」
人垣を割って進み出てきたのは、王宮魔術師団の頂点に立つ、大魔導師ロードリック様だった。厳しいことで知られる老魔術師は、その鷲のような鋭い瞳でわたくしを真っ直ぐに見据えていた。
「これほどの魔力制御、並大抵の術師にできる芸当ではない。暴走した魔力をただ打ち消すのではなく、完全に鎮静化させるとは…。アイゼンベルク公爵令嬢。その若さで、これほどの才を、なぜ今まで隠しておられた?」
ロードリック様の問いに、わたくしは静かにカーテシーをしてみせる。
「わたくしは、力を不必要に誇示する趣味はございませんので」
その答えを聞くと、ロードリック様は満足げに一つ頷き、今度は氷のように冷たい視線でクラウディオ殿下を振り返った。
「殿下。どうやらあなたは、とんでもない勘違いをなさっていたようだ。あなたは今、この国にとって至宝とも言うべき才能を、何の根拠もない痴話げんかのために、公衆の面前で手放そうとされたのですぞ」
老魔術師の静かだが重い叱責に、クラウディオ殿下は顔を青ざめさせる。
「そ、それは…しかし、マルティナが…」
「言い訳は結構」
ロードリック様はぴしゃりと言い放つと、再びわたくしに向き直った。
「セレスティーナ嬢。もし、このような愚かな婚約に、あなたご自身が価値を見出しておられないのであれば。我が王宮魔術師団が、あなたを歓迎いたしましょう。いや、あなたの才能は、この国に留めておくにはあまりに惜しい。……魔法大国『アークライト』への留学も、私が責任をもって推薦状を書きましょうぞ」
思いがけない申し出。しかし、わたくしの心は不思議と凪いでいた。
ああ、そうか。
わたくしが歩むべき道は、初めから王妃への道ではなかったのかもしれない。
わたくしはゆっくりと顔を上げ、この茶番劇の主役たちを見据えて、初めて、唇の端に微かな笑みを浮かべた。
「――謹んで、お受けいたします」
わたくしの宣言が、凍てついた静寂の中に凛と響く。
その言葉は、クラウディオ殿下との婚約を正式に拒絶し、王妃への道を自ら放棄する意志表示。そして、わたくしがわたくし自身の力で未来を掴み取るという、宣戦布告だった。
クラウディオ殿下は「な…」と絶句し、マルティナ様は信じられないという顔でわたくしとロードリック様を交互に見ている。周囲の貴族たちは、もはや憐れみや嘲笑ではなく、畏怖と驚嘆の入り混じった視線を注いでいた。
わたくしは、騒然とする一同に軽く一礼すると、ロードリック様に「後日、改めてご挨拶に伺います」とだけ告げ、誰に付き添われるでもなく、一人でその場を後にした。背後で、わたくしの父、アイゼンベルク公爵が苦々しい顔で何かを叫んでいたが、聞く必要もなかった。
もう、わたくしの人生の舵を、誰にも握らせはしない。
―・―・―
その夜、公爵家の自室に戻ると、案の定、父が重々しい雰囲気で待ち構えていた。書斎の革張りの椅子に深く腰掛け、組んだ指先で神経質に机を叩いている。
「セレスティーナ。一体どういうつもりだ」
低い声には、怒りと困惑が滲んでいた。
「公衆の面前で王子に恥をかかせ、王家との婚約を反故にするなど。アイゼンベルク家の人間として、あってはならない振る舞いだぞ」
「お間違いなく、お父様。婚約を破棄すると宣言なさったのは、クラウディオ殿下の方です」
わたくしは静かに言い返す。
「そしてわたくしは、謂れのない罪で断罪されました。アイゼンベルク公爵令嬢が、衆目の前で受けたあの屈辱。これを見過ごし、へりくだって謝罪することこそ、我が家の名誉を地に墜とす行為ではありませんか?」
「詭弁を弄するな! 王家との繋がりが、どれほど重要か分かっているだろう!」
「ええ、存じております。だからこそ、申し上げているのです」
わたくしは一歩前に進み、父の目を真っ直ぐに見据えた。
「クラウディオ殿下は、わたくしの持つ立場や価値をご理解いただけなかった。だからこそ、ろくに調べもせずに公にて婚約破棄を行ったのです。物事の本質を見抜くことなく、甘言を弄する者の言葉を鵜呑みにし、感情論で国の大事を決める。そのような方が、この国の次代を担うのです。わたくしが妃として隣に立ったところで、いずれ、マルティナ様のような方に取り入った奸臣によって、国政は壟断されるでしょう」
「……」
父は言葉を失う。それは、彼自身も薄々感じていた懸念だったからだ。
「ですが、道は他にもございます。わたくしが魔法大国アークライトへ渡り、魔導師として大成すれば、どうでしょう。この国の誰よりも高度な魔術体系を身につけ、唯一無二の存在となる。その力と知識は、いずれアイゼンベルク家の、ひいては王国のかけがえのない財産となりましょう。王妃という一つの椅子に縛られるより、遥かに大きな利益をもたらすとはお考えになりませんか?」
わたくしは、父の心の奥底にある、貴族としての損得勘定に直接訴えかけた。感情論では、父は動かない。動かすのは、常に利益と名誉。
「もし、お父様がそれでもわたくしの道を阻むのでしたら…」
わたくしはそこで言葉を切り、ごく微量の魔力を体に纏わせる。ぴり、と空気が張り詰め、部屋の燭台の炎がわずかに揺らぐ。
「わたくしは、この家を出て行くだけです。一介の魔術師として、大陸を渡り歩き、自由に生きるでしょう。わたくし一人を、力でこの屋敷に縛り付けておくことは、お父様にも不可能かと存じます」
それは、静かな脅迫。しかし、紛れもない事実だった。
父は、わたくしの青い瞳の奥に、かつて彼が恐れたという祖母――稀代の魔術師であった先代公爵夫人の面影を見たのだろう。彼は深く長い溜息をつくと、重々しく椅子に背を預けた。
「…好きにしろ」
それは、諦めであり、敗北宣言であり、そして、ほんのわずかな、娘への期待が込められた許可だったように見えた。
―・―・―
数日後、わたくしは王城の謁見の間にいた。
玉座には国王陛下と王妃殿下。そしてその傍らには、針の筵に座らされているかのようなクラウディオ殿下が、苦虫を噛み潰した顔で立っている。
「セレスティーナ嬢。此度のこと、王子に代わり、余が謝罪する。息子の非礼を許してはくれまいか」
国王陛下は、穏やかながらも王の威厳を保った声でそう言った。これは、懐柔策。事を荒立てず、穏便に、王家の体面を保ったまま、すべてを元通りにしようという魂胆だ。
「クラウディオ。お前からも」
促され、王子は不承不承といった体で口を開いた。
「…すまなかった。君の力を知らなかったとはいえ、公の場で恥をかかせたことは謝る。だから、その…婚約の件は、考え直してくれないか」
その言葉に、一片の誠意も感じられない。あるのは、失ったものの大きさに今更気づいた焦りと、王である父に叱責された子供の拗ねた心だけ。
わたくしは、ゆっくりと首を横に振った。
「恐れながら、陛下。そのお言葉、お受けいたしかねます」
「なんと…」
「信頼とは、一度砕けてしまえば二度と元には戻らないガラスのようなもの。殿下とわたくしの間にあったはずの信頼は、あの夜会の場で、殿下ご自身の手によって粉々に砕かれました。今、その破片を拾い集めたとて、元の形に戻ることはございません」
わたくしは懐から、ロードリック様がしたためてくださった推薦状を取り出し、恭しく侍従に差し出した。
「わたくしは、王妃の座ではなく、魔道の頂を目指すことを決意いたしました。ロードリック師団長のご推薦をいただき、魔法大国アークライトへ留学いたします。それが、わたくし自身と、ひいてはこの国にとっても最善の道であると、固く信じております」
謁見の間が、再び静寂に包まれる。王も王妃も、わたくしの揺るぎない決意に言葉を失っている。
「もし」と、わたくしは最後の一手を打つ。
「この決定を、王命をもってしてもお認めいただけない、と仰るのであれば。わたくしはただちにこの国を出奔し、アークライトへ亡命する所存です。かの国が、高位魔術の担い手を歓迎しないはずがございませんので」
亡命。その言葉の重みに、国王陛下は目を見開いた。
一人の公爵令嬢の婚約問題が、国際問題へと発展する可能性。しかも類稀なる魔術の才能を持つとお墨付きをもらっているわたくしを敵国に渡すことが、どれほどの国益の損失になるか。玉座にある王が、その計算ができないはずがない。
長い、長い沈黙の後、国王陛下は深く息を吐いた。
「…分かった。セレスティーナ嬢、君の勝ちだ。君の望み通り、クラウディオとの婚約は白紙に戻そう。アークライトへの留学も、王国として正式に認める」
その声には、王としての諦観が滲んでいた。
「陛下の叡慮、感謝いたします」
わたくしは、粛々と頭を下げた。クラウディオ殿下が、わたくしを睨みつけていたが、もうどうでもよかった。彼も、彼が選んだマルティナ様も、もはやわたくしの人生には関係ないのだから。
―・―・―
王家の許可も得て、旅立ちの準備は滞りなく進んだ。
出発までの数日間、わたくしは自室でアークライトに関する書物を読みふけっていた。そんな折、身の回りの世話をする侍女が、淹れたての紅茶を運びながら、どこか楽しそうに口を開いた。
「お嬢様、お聞きになりましたか? 社交界の噂を」
「…興味ないわ」
「まあ、そうおっしゃらずに。マルティナ様のことですもの」
その名に、わたくしは僅かに本から顔を上げた。
侍女は声を潜め、しかしその瞳は雄弁に語っていた。
「クラウディオ殿下は、お嬢様と婚約を破棄したことにより国王陛下や有力貴族の方々から大変な叱責を受け、すっかりご気色を損ねていらっしゃるそうです。そして、その怒りの矛先は、すべての原因であるマルティナ様へと向かっているとか」
「…そう」
「はい。あれほどご執心だったのが嘘のように、今や邪魔者扱いで、夜会でお顔を合わせても無視をなさる、と。マルティナ様の凡庸な才覚では、殿下のお相手は務まらないと、誰もが気づいてしまったのです。彼女をちやほやしていた令息たちも、蜘蛛の子を散らすようにいなくなり、今や男爵家は有力貴族の方々から総スカンを食らっているそうですわ」
侍女は「自業自得ですわね」と、にっこり笑った。
わたくしは何も答えず、紅茶のカップを静かに持ち上げる。彼女たちがどうなろうと、もうわたくしの知ったことではない。ただ、因果応報という言葉は、本当にあるのだと、それだけを思った。
出発の前日。がらんとした自室で、数少ない手荷物をまとめていると、静かに扉が開いた。
「…セレスティーナ」
入ってきたのは、父だった。その手には、ずしりと重そうな革袋と、アイゼンベルク家の紋章が刻まれた銀細工のブローチが握られていた。
「これを、持っていけ。アークライトでの生活の足しにするがいい。そのブローチは、高位の防御魔術が付与されている。お守りだ」
ぶっきらぼうな口調。けれど、そこに込められた父親としての不器用な情を、わたくしは感じ取っていた。
「よろしいのですか?」
「…お前の判断が、本当に正しかったのか、私にはまだ分からん」
父は、窓の外に視線を向けたまま言った。
「だが、お前が自ら選び、勝ち取った道だ。ならば、アイゼンベルクの名に恥じぬよう、励むがいい。それだけだ」
「…はい、お父様」
わたくしは静かにそれを受け取る。それは、わたくしがこの家で生まれて初めて交わした、本当の意味での父と娘の会話だったのかもしれない。
旅立ちの朝。空はどこまでも青く澄み渡っていた。
わたくしは公爵家の馬車を降り、大陸間を結ぶ大型飛空艇の乗り場で、父とロードリック様に見送られていた。
「達者でな、セレスティーナ嬢。アークライトの連中に、我が国の魔術の底力を見せてやるといい」
悪戯っぽく笑うロードリック様に、わたくしは深く一礼する。
「さようなら、退屈な日々」
小さく呟き、わたくしは一人、飛空艇へと続くタラップを上った。
―・―・―
船内は、様々な国籍の人々で賑わっていた。指定された席に座り、窓から急速に小さくなっていく王都の景色を眺めていると、不意に隣の席に誰かがどさりと腰を下ろした。
「ここ、空いてる?…っと、奇遇だね。君もアークライト行き?」
聞こえてきたのは、快活で、どこか飄々とした青年の声だった。見れば、黒髪を無造作に束ねた、同い年くらいの青年が、人懐っこい笑みをこちらに向けている。服装は質素だが、その瞳の奥には、すべてを見透かすような知性の光が宿っていた。
わたくしは無言で会釈だけを返す。馴れ馴れしい男は好きではない。
だが、青年は気にした様子もなく続けた。
「へえ…君、面白い魔力の質をしてるな。澄んでて、静かで、底が見えない。それにそのブローチ、相当な術者が作ったもんだ。アイゼンベルクの紋章か。なるほど、君が噂の…」
「…何か御用でしょうか」
わたくしが訝しげに問い返すと、青年は悪びれもせず、からりと笑った。
「いやいや、警戒しないで。ただの魔術オタクの独り言だよ。俺はクロイ。見ての通り、しがない旅の魔術師さ。よろしく、未来の大魔導師様?」
彼はそう言って、悪戯っぽく片目をつぶった。
わたくしの素性や能力を一瞬で見抜き、それでいて、その態度には貴族に対するような卑屈さも、やっかみもない。ただ、純粋な好奇心と、対等な魔術師としての敬意が感じられた。
わたくしは、知らず、ほんのわずかに口元を緩めていた。
「…セレスティーナ、と申します。よろしくお願いしますわ、しがない旅の魔術師様?」
同じく片目をつぶって私は答えた。
氷の令嬢と呼ばれた少女の物語は、ここで終わり。
ここからは、一人の魔術師、セレスティーナの物語が始まるのだ。
眼下に広がる雲海と、隣で何やら楽しげに魔術理論を語り始めた風変わりな青年を眺めながら、わたくしは、希望に満ちた未来を見つめ、静かに微笑んだ。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
よろしければ、評価してくださると励みになりますのでよろしくお願いします!
書き終わった後に主人公がちょっと我が強すぎるかもと思ったのですが、今まで国や家のことを考え殿下やマルティナのことに対して色々と我慢してきた中で、今回の婚約破棄宣言があったので、セレスティーナの限界が超えたんだなと考え、あえて修正はしませんでした!
もしかすると、あまり好まれない性格の主人公だったかもしれませんがここまでお読みいただきありがとうございました!