第九五話 過去
その少女は───咲は、昔からほんの少しだけ周りよりも特別だった。
親から譲り受けた整った容姿は周囲の視線を否応なしに惹きつけ、幼さを残しながらも確かに美少女だと誰もが断言する見た目は明らかに一般的なレベルを逸脱している。
ただ、小学生の頃の彼女はそんな目立つ特徴を持っていながらもクラスの中心に立っていたかと問われれば…そのようなことは無かった。
特徴的な容姿とは裏腹に、生来彼女が生まれ持った性格として人付き合いがそれほど得意な方ではなく、今と比べればコミュニケーションも取っていたが口数は確実に少ない。
そんな子供だった。
しかしそれでも、彼女が抜群の愛らしさを誇る事実は変わらない。
クラスの中心には立っていなくとも同学年の中で注目も噂も一身に集めていたのは間違いなく咲であったし、それに伴って彼女に声を掛ける者達も増えていった。
……そうした折に、彼女らは現れたのだ。
「…ねーねー、本羽さん! そんな隅にいないで一緒に遊ばない? 絶対楽しいよ!」
「そうそう! あっ、そうだ! あたしたちとお友達になろうよ!」
そうやって子供らしい活力に溢れた声を投げかけてきたのは、同級生でありながら話したことも無かった女子二人組。
咲とは違い、いつも元気よく周りと接していたのでクラス内でも中心的な人物として認識されていた者達。
宮野由莉と、有瀬冬華との…初めての会話だった。
普段は立場も過ごす場所も全く違うのにいきなり話しかけられたことで咲は驚いてしまったが…その内容自体は嘘偽りなく嬉しかった。
こんな話すことも下手な自分と、友達になりたい。
そう言ってくれた二人の誘いを内心で喜んだのは疑いようもない事実であり、戸惑いながらも…ほんの少しだけ恥ずかしくなりながらも、咲は二人に誘われるがまま友達となった。
──だが、今になって思う。
思えばあの時から…あるいは最初から。
自分と彼女らの間には絆など無かったのだと。
それからの日々は楽しかった。
休み時間になる度に二人に引っ張られながらも、慣れないながらも咲は普通の小学生のようにくたくたになるまで遊ぶ。
放課後は由莉と冬華の家が遠いとのことだったので、一緒に帰ることは出来なかったがそれでも十分すぎるくらいに充実していた日々。
しかし、そんな日常に一つの影が差す。
一人の少年が、咲のことを好いてきたのだ。
元々言うまでも無きことだが、咲はその抜群に整った容姿がゆえに多くの者に好かれやすかった。
それはまだ幼い小学生と言えど例外はなく、幼い心だからこそ淡い恋心を彼女に抱く相手は少なくない。
ただ残念なことに、その時の咲にとって恋というのが何なのかは分からなかった。
他者から好意を寄せられようとも当人にとってはそれらに値する感情がまだ理解出来ず、必然的にそういった感情を向けられても断ることがいつもの流れ。
…そう、いつものことだった。
その後の出来事にさえ、遭遇してしまわなければ……だったが。
「………?」
…その日、咲は普段通り授業が終わった学校から帰路に着くために昇降口へと向かっていた。
しかしその途中で教室に忘れ物をしてしまっていたことを思い出し、辿ってきた道を遡って荷物を取るために戻っていたのだ。
道のりにしても大した時間はかからず、すぐに到着して扉を開けようとした……ところで。
他の誰もいないはずの教室から、話し声が聞こえてきたのだ。
「…でもさー、由莉。何で本羽さんとずっと絡むわけ? 私あの子とあんまり一緒に居たくないんだけど」
「だーかーらー…前にも言ったじゃん! そっちの方が都合が良いからだって」
(……えっ?)
…それは、聞き間違えようもない声。
誰もいないはずの教室から響いてきたのは…友人だと思っていた由莉と冬華の会話。
けれどもその内容は…あまりにも信じられないもので。
ここに彼女がいるなんて知らないがゆえに、遠慮なくぶつけられてくる悪意を彼女は全て受け止めてしまうことになる。
「あの子、いつも教室の隅にいるくせに注目されて調子に乗ってるじゃん? うちたちがクラスの中心のはずなのに、いっつも話題に上がるのは本羽さんばっかり。だからうちの仲間みたいになってもらえば…こっちの人気も上がりそうじゃん?」
「ふーん…でもそれ、本羽さんにバレたりしないの?」
「大丈夫でしょ。あの子、馬鹿みたいに純粋だから疑いなんてしないし」
……そこから明かされた実情は、とてもではないが受け止めたくもない現実。
いっそのこと夢であってくれたらと願わずにはいられずとも…聞こえてくる声色が全て真実なのだと彼女に伝えてくる。
「それにほら。この前隣のクラスの男子に告白されたのに断ったらしいよ?」
「あ、それあたしも聞いたー。勇樹君でしょ? …ほんと、何であたしたちじゃなくてあの子なんかがモテるんだろうね。あんな子が可愛いとか馬鹿みたい」
…やめて、それ以上は言わないで。
そう言いたいのに、まるで凍り付いてしまったかのように動かせなくなった手足は友人の…いや。
友人だと思っていた相手の言動を全て拾ってしまう。
「黙ってれば男子が勝手に好きになってくれるんだから、あの子も内心では男選んで遊んでるんじゃない? ずっと喋らなくて何考えてるのかも分からないし、どうせそんな感じでしょ」
「うおっ、言うねぇ」
「だってそうじゃん? 自分から何かを言うわけでも無いのに……たまに喋ったかと思ったら声も気持ち悪いしさ!」
……その後のことを、咲はよく覚えていない。
教室の前で立っていたはずの自分は気が付けば家に帰ってきていて、どうやって帰ったのかは記憶が曖昧だが帰宅した彼女を見た母にひどく心配されていたような覚えがある。
けれど、この時の彼女に表面を取り繕うような余裕はなくて…友人だと思っていた相手の本音を知ってしまったショックから、数日間学校を休むことになった。
そして、これはその時のショック由来なのか。
はたまた最後に言われた気がする悪口による弊害なのかは不明だが…それ以来、元々少なかった咲の口数は完全にゼロとなってしまった。
加えて学校に戻ってからも、咲は周囲との関わりを極力減らした。
もう今までのように接することが不可能となった由莉と冬華は当然として、その他の相手ともコミュニケーションを取らない。
…そうしなければ、怖かったから。
無いとは頭では理解していても、もう一度裏切られるのではないかと思考のどこかでよぎってしまうリスクが彼女に友人を作ることに恐怖心を抱かせ、一種のトラウマとなって心にしこりを残した。
その恐怖は小学校を卒業するまで続いていき、結局最後まで由莉と冬華とまた話すことは無かったが…おそらく向こうも何らかの事情は察していたのだろう。
無理もない。ある時期を境に表面的だけとはいえ仲良く過ごしていた相手が急激に距離を引き剥がしたのだから、本心を悟られたと考えるのが自然だ。
しかし幸いなことに、そう考えてくれたからか向こうも距離を離してからは無理やりな接触をしてくることは無かった。
…そうして、悪夢のような思い出だけが残ったまま彼女は中学校へと進学する。
ここでも幸運なことにあの二人とは家の所在地が離れていたためか、中学はバラバラの場所に行くことになったので新たな気持ちで生活を始めることができた。
……彼女の心は、傷を負ったままであったことも変わらないが。
ともかく、咲が抱え続けていた過去はそれが全て。
信じていた相手に裏切られ、利用され、折れてしまった彼女の──嘘偽りない、過去であった。




