第八話 汚点と開錠
「待たせたな。こんなものしかないが…とりあえず身体を温めておけよ。ここまで来られて体調崩されたら元も子も無いからな」
「………」
「…何だよ」
ようやく悠斗の自宅まで来た彼らであったが、とりあえず悠斗が最初にしたのは温かい飲み物の用意である。
というのも咲はつい数分前まで寒気で満ちている外に身を置いていたわけで、ここまでそれらしき挙動は一切見せていなかったが相応に身体は冷え切っているはずだ。
そんな状態ではいつ体調を崩すか分かったものではないため、ひとまず内から温めていくためにもホットココアを用意しておいた。
偶然にも先日咲に渡した飲料と種類が被ってしまったが、今現在自宅に備蓄していた嗜好飲料がこれしかなかったので仕方ない。
手っ取り早く体温を高められる手段としてこれ以上のものもそうはなかったので別に構わないだろう。
…が、それを大人しく手渡された咲の目は相も変わらず微妙なものである。
薄々その視線の意味は察してきているが…念のためにと確認を取ってみれば、返ってくる文面は以下の通り。
『…悠斗は、こんなに散らかってる中でどうやって生活してる? 絶対人間がいられる環境じゃない』
「辛辣だな……いや、言いたいことは分かるけどさ」
その小さな見た目に反して辛口の批評を下してくる咲の言葉にはこちらの方が面食らいかけたが、言わんとしていることは残念ながら理解できてしまう。
向こうが言っているのは間違いなく部屋の中に広げられた惨状についてであり、その酷さの中で悠斗がどんな日常を送っているのという点についてだ。
ここに住んでいる身だからこそ若干感覚も麻痺しかけていたが…咲も指摘した通り、この空間はあまりにも乱雑な状況が広げられている。
リビングに設置されているダイニングテーブルの上には途中まで着手していた参考書の類が積まれており、そこから少し離れたソファには脱ぎかけのシャツが散乱している。
仮に潔癖よりな性格をしている人物がこの光景を目にすれば、ほぼ確実に怒号を上げるだろうほどに散らかった有様。
そして…性格的にはそちら寄りだったらしい咲も似たような反応をしていた。
流石に怒号を上げることこそしなかったが、見せられた文章からは相当に呆れているのだろうことが容易に想像できてしまう。
『こんなんじゃ、料理だって出来ない……普段はご飯をどうしてる?』
「夕飯とかなら基本的に出来合いのものを買って過ごしてるだけだぞ。そもそも俺、料理とかは根本的に出来ないからやらないし…設備だけは揃ってるけどさ」
『…料理はしないのに、道具はある?』
最早己の恥とも言える部分は粗方見られてしまったのでここまで来たら今更だという心境で、悠斗は自身の料理下手という欠点も晒すこととした。
これに関しては明かしたところで特にダメージもないし、料理が出来ない男子という肩書きならさして珍しくもないだろうという判断だったのだが…そこから波及して新たな疑問を呼び寄せてしまったようだ。
咲にも言ったが、悠斗の自宅には彼の性質に反するかのようにこれでもかと充実した調理設備が取り揃えられている。
悠斗だけが暮らすのであれば明らかに不要な物の数々だというのに、それでもそんなものが置いてあるのは別に大した理由があるわけでもない。
これは単に悠斗の母親が料理好きゆえに様々な道具を買い込んできたというだけであって、断じて彼が料理をするためではない。
両親が仕事に出ることが多く、家を空けることが多くなった今となっては宝の持ち腐れも良いところだが…捨てるのも忍びないので使われずに埃を被っているのが現状だ。
「うちの母親がよく料理をしてたから、その名残で色々残ってるんだよ。まぁ今となったら全く使われてないが…」
『…もったいない』
「分かってるって。…でも、俺が使ったところで意味なんてないしいつか日の目を浴びる時が来るのを待つとするさ」
料理という面において機能性や汎用性には事欠かないのが悠斗の自宅キッチンだが、結局は優れた調理者がいなければ無意味。
いつか悠斗と親しくなった者の中で、この調理場を使ってくれるような物好きでもいれば…活躍する日も再来するだろう。
そうなる可能性は遥か彼方だが、まぁ期待しないで待っているとしよう。
「…って、俺のことはいいんだよ。それよりも今は本羽の方をどうにかしないとだろ。流石に泊まらせることは出来ないからな。外聞的にも、倫理的にも…」
『それは分かってる。流石にそこまで非常識じゃない』
しかし、いつまでもそんな話題にばかり集中してもいられない。
そもそもの話として咲をここまで連れてきたのは家に帰れなくなった彼女を見捨てられなかったからであり、解決策を探すための中継地点として利用するためだ。
決して悠斗の家に宿泊することまでを許したわけではないため、とりあえずの対処法をこの短い時間に考えなければ。
いくら何でも同級生の…それも特別仲が良いというわけでも無い男女が一つ屋根の下で一晩を過ごすというのは世間的にも外聞が悪すぎるため、選択肢としてもありえない。
向こうも最低限そのことは理解してくれていたようで、この意見には賛同なのかうんうんと頷きながら同意を示していた。
「分かってるならいいさ。でもそうなると…余計に家の鍵が無いのが問題なんだよな。それさえ何とかできれば解決できるってことでもあるが…合鍵とか持ってる人もいないんだろ?」
『家の鍵を持ってるのは、私とお父さんにお母さんだけ。他にはいない』
「…だよな。本格的に手詰まりってわけだ」
どちらにしても今悠斗が考えるべきは現状への打開策であり、それが思いつけなければ一息つくことさえままならない。
なので今一度状況を振り返ってみるが…それで思い知らされるのはどうしようもない現状へのやるせなさだけだ。
念のためにと誰か咲の自宅の合鍵を持っているような人物がいないかと尋ねてみたが、そんな相手がいるのなら彼女も真っ先に頼っているはずだ。
そうしていないという以上、この条件に当てはまるような人物がいないことなど分かり切っていたが…まぁ一応の事実確認は重要だ。
これで万が一の確認し忘れでもあったらその方が悲惨なので、チェックをしておくに越したことは無い。
まぁ結果は改善に向かう気配が微塵も感じられない回答だったわけだが、それはほとんど予想できていたので驚きはしない。
(…でも、本当にどうするべきかな。本羽の家は鍵が開けられなくて、他に頼れるやつもいない。最悪もう一回公園に放り出されるような真似になる……いやいや、それは流石に避けておきたい)
いくら考えても手詰まりとしか思えない状況を前にしてしまうと自然と思考もネガティブなものへとシフトしかけそうになる。
見れば咲の方も、打開のしようがない現状には流石に頭を悩ませているようで…表面上は上手く誤魔化しもしているが、よくよく眺めていればそれとなく不安が表に出ている。
それも当然か。
ここまで何てこともないように振る舞っていたとしてもその実、咲とて一介の高校生に過ぎない。
まだ一人で生きていくだけの力も持っていない少女が準備も無しに外へ放り出されたとなれば、こんな反応になるのは当たり前だ。
…そして、そんな心細そうな姿を見せられてしまえば…元々手助けをする気が大した強くはなかった悠斗といえど、何とかしてやりたいと思ってしまうのは自然なこと。
(…だけどこのまま俺の家に泊めてやるっていうのも無理だ。そもそも本羽だって男子の家に泊まるなんて嫌だろうし、お互いの今後を考えても良い結果にならない。だから代わりの案を出さなきゃならんのに…)
思考に耽りすぎて一時的に二人が居座るリビングも無言になってしまったが、どれだけ頭を捻ろうとも現実は変わらない。
ここで奇跡か何かでも起こってくれればそれが一番楽なのだが、そうそう都合の良い事態など舞い込んでくるものでもないのだ。
(…一回、考え方を変えるか? 聞いた話を信じるなら本羽の家はこのマンションだし、やりようによっては何かできることも────あっ)
しかしそんな流れに身を任せて思考を停止させてしまえば、それこそ問題を打破することなど到底不可能となる。
だから悠斗も咲の家に関する問題をどうにかできないだろうかと考えて、考えて、考え続けて………ふと、ある可能性に思い至った。
「……本羽。もしかしたらお前の家の鍵、開けられるかもしれない」
「………!?」
溢れかえりそうになる情報の濁流から見出した活路の一点。
まだ確証もないし出来るかどうかも定かではないため、あくまで推測の域を出ないが…上手くいきさえすれば今まで彼らの頭を悩ませた問題を一気に解決できる。
そして、唐突にそのような言葉を伝えられた咲も驚愕するように目を見開いていたが、あいにくそこに触れてやるだけの余裕は悠斗には無かった。
予想通りならあまり残された時間もないので、早いところ動かなければならないと判断し…一度外に出るために準備を始めるのであった。
──結論から言ってしまうと、その後咲の自宅の鍵を開けることには成功した。