第七六話 いきなりの邂逅
予想だにしない方向から羞恥を味わわされることとなった悠斗ではあるが、それからの行動について語れば概ねは順調だった。
咲もある程度悠斗を揶揄えばそれで満足してくれたのか、彼の羞恥心と引き換えにやけにツヤツヤとした笑顔で外出の用意を整えた。
悠斗の方も彼女の手から解放されたことを皮切りに何故か疲弊した精神を持ち直して手荷物をまとめる。
しかし彼の今回の役割は荷物持ちであるため、最初から大荷物となると後々購入した物を持てないなんて間抜けな事態になりかねないので持っていく物は本当に最低限だ。
軽く携帯や財布といった貴重品だけあれば十分と判断し、それから髪のセット…とはいってもヘアピンでまとめるだけだが、それも済んでしまえば準備は完了。
そうして用意が出来た二人はそれぞれ家の玄関を出ていき、近所にある小売店を巡っていき………。
「随分買い込んだな。…しかしこの量、本当に年末年始で全部消費するのか?」
『もちろん。年明けはお料理もたくさんしなくちゃいけないから、その分は今のうちに揃えておく』
「なるほど……俺には分からない世界の話だ」
…今、その買い物を一通り終えた二人は自宅へと帰る真っ最中であった。
咲と悠斗。二人が並んで歩きながらも彼の両手には満杯に購入した物が詰め込まれた袋がある。
一目見ただけでも余程の荷物があると分かる物量であるが、その実中身の内訳はほぼ全てが料理に使う食材である。
より具体的に言えば咲があれこれと必要だと判断した物を買い物かごに放り込んでいったため、正直悠斗から見たらどれを何に使うのかといったことすら分からない。
こればかりは彼女との経験値の差だろう。
普段からまともに料理もしてこなかった悠斗では通常の食材すら扱えないというのに、年末年始特有の奇抜な食材の知識なんてあるわけがない。
なので今日は買い物の役目は全面的に咲へと一任し、彼はひたすらに付き添いに徹した。
時折咲から『何が食べたいか』といった旨の質問が飛んできたためそれには答えつつ、食材の調達に関してはこちらから口出しをしても大した手助けにはならない。
ゆえにあの場では余計なお節介はせず、買い出しを終えた後の荷物持ちという役割を全うしているわけだ。
『これで年末のお蕎麦も作れるし、お正月も大丈夫。その前にいっぱい作らなきゃだけど』
「あれだけの量があれば、気の済むまで作れるだろうしな。…でも大丈夫か? これだけあると咲の負担も凄まじいものになりそうだが…」
しかしそうして荷物持ちの役目を果たしている間にも、交わされていた会話の最中にあって悠斗は彼女が無理をしているのではと不安の感情が湧き上がってきてしまう。
今まさに彼の手にある荷物はかなりの重さがあり、その内訳はほぼ全てが咲の扱う食材である。
…なのでこれら全てを彼女が調理していくとなると相応の時間と労力が必要になり、自然と彼女の負担も増してしまう。
その辺りを悠斗は懸念したわけだが、彼女の返答はサラッとしたもの。
『平気。料理をしてる時は楽しいし、大変なんて思ってないから』
「…咲って本当に料理好きだよなぁ。その根性は見習いたいところだよ」
『そう? …でも確かに、私の料理で誰かが美味しいって言ってくれるのを見るのは好き』
これくらいの量なら労力に大した差はないと断言してくる彼女の言葉はそれだけの実績があるだけに、かなりの説得力を思わせる。
実際咲がそう言うのなら強がりというわけでもなく実行可能なのだろうし、悠斗がとやかく言う事でもないはず。
ただ、そこまでの作業を楽しいから疲れることも無いと言い切ってしまう咲の凄まじさも中々のものだとは思うが。
『いつも悠斗が私のご飯を美味しいって言ってくれるから、それは嬉しいしやる気も出る。それがあるから辛いとは思わない』
「俺の感想ねぇ…別に思ったことを素直に言ってるだけなんだけどな。本当に美味い以外の言葉も見つからないし」
『…悠斗は、そういうところだから』
「え?」
歩いていく道中ではありつつも、隣にいる悠斗を見つめながら携帯に文字を向けてくる咲はその言葉に嘘など無いように料理は苦ではないと言ってくる。
そしてその言葉の理由の一端が…悠斗にもあるということまで含めて。
だとしたら嬉しい限りだ。
正直悠斗からすれば咲の料理は毎度の如く最高の料理を提供してくれるためにその感想を言葉にしているだけなのだが、それが彼女のモチベーションに繋がっていたなら思わぬ副産物である。
なお、その習慣を何てことも無いように捉えている彼に対して咲は…どうしてかやきもきとしたような感情を醸し出していた。
その理由は定かではない。追及したところで教えてくれるとも思えない。
「…にしても、やっぱりこの前髪は慣れないな。ここまで来たら誰も見ないだろうし下ろしても大丈夫だろ」
「………!」
その辺りを考えながら咲と他愛もない会話は続いていき、ようやっと自宅が近づいてきた地点で…悠斗は不意にそれまでまとめていた前髪を下ろし始めた。
ここに来るまで変装代わりだと上にまとめていた髪の束だが、ここいらまで来てしまえば人通りも少ないので顔見知りと遭遇する可能性はほぼゼロに等しい。
ゆえに彼も一息吐いてから慣れない髪型はここで止めることとして、落ち着く普段通りのヘアスタイルへと戻しておく。
『悠斗、もう髪型戻しちゃう? まだ家ついてない』
「ん? …あぁ。さっきの髪は前が見やすいから良いんだけど、その分落ち着かない感じだからな。ここまで来たら戻すさ」
『…もったいない。格好良かったのに』
「…っ、…そう言ってくれるのは嬉しいけどさ。俺程度が髪を上げたところで下ろしたところで印象なんて大差ないって」
「………」
「……何だ、その言いたげな顔は」
『…………別に』
だがそこに不満を申し出る者がこの場には一人おり、ちょこちょことした足取りで横を歩く咲は唐突に髪のスタイルを戻した悠斗を見て目を丸くしていた。
その反応はまさかここで元に戻すなどとは思ってもみなかったという言葉が当てはまるような形相であり、驚きという表現がこれ以上なく適合する。
しかし咲が言う分には数秒前までの悠斗もそれなりに見れたものだったようで、それを崩してしまったことを惜しく思ってくれたらしい。
…彼にすれば自分の顔など多少髪をまとめたところで見れるようなものではないという認識ゆえに何を言っているのかという感じであるが。
されどそのことを素直に伝えてしまえば彼女から返ってくるのは意味が分からない仏頂面。
言いたいことはあれど、その一言を必死に我慢しているといった風貌からは不満気なオーラがひしひしと実感できてしまう。
「…まぁいいや。とにかくほれ、早く帰ろう。あまり常温で放置するのも良くない食材だってあるだろ」
『…分かった。今はそれでいい』
何故そのようなリアクションを取るのか非常に気になるところではある。
…しかしながら残念なことに、いつまでもそんなことで時間を食っていては今も手元にある荷物たちが悪影響を受けてしまいかねない。
なので咲の突発的な不機嫌さに意識は向きながらも…足早に帰ることを伝えれば彼女も渋々ながら同意してくれる。
よって、それからは幾分か進むスピードを速めた彼らの足によって数分も経てば悠斗の家に到着するのであった。
「……よし、何とか誰にも気が付かれずに帰れたな」
「………」
数十分ぶりに自宅の玄関前に戻ってきた悠斗はここに来るまで誰にも咲と己が歩く姿を把握されなかったことに安堵の息を吐く。
彼女の方はそんな彼の姿を見ておかしく思ったのか薄っすらと微笑んでいたが、どちらにしてもここまで来てしまえば安心なことに変わりはない。
先ほどまでは不特定多数の人物がそこかしこにいる状況だったがゆえに少なからず警戒しておかなければいけなかったし、帰りの道中でもそれは同様。
…しかしこのマンション内なら鉢合わせをしても二人のことなど気にも留めない相手がほとんどであり、咲と悠斗以外にあの高校に通っている者がいないことは把握済み。
だからこそ、悠斗もここであれば安心できると気を抜いた。
……抜いてしまった。
「───悠斗? あんた、何やってんの?」
「………え?」
「……?」
──その時、今まさに玄関を潜ろうとした瞬間に彼らの横から響いてきた声。
悠斗の名を呼ぶやたらと懐かしい声色が聞こえてきたために、半ば無意識の領域で振り返れば…そこには一人の女が立っている。
恰好は何ともラフなもので、上は白無地のシャツに多少の上着。下はシンプルなジーンズを纏うのみ。
毛先に紺のグラデーションが加えられたウルフカットの髪型を揺らす彼女。
全体的にスレンダーなスタイルをした女はその顔立ちも中々のものであり、印象としては可愛さや綺麗さというよりもイケメン風の美人と言った方が当てはまる。
だが…悠斗と咲のリアクションは全くもって別のもの。
…突如として現れた正体不明の女性に咲はというと困惑を露わにしているが、悠斗の方は…どうしてここにこの人がいるのかと内心は混乱が渦巻いてしまう。
ただそれは当然のリアクションだ。
何故なら、唐突なんて言葉では言い表しきれないくらいの勢いでやってきた彼女の正体は、他でもない───。
「──母さん!? 何でここにいるんだよ!?」
「………!?」
──滅多に帰ってくることもないはずの、悠斗の母だったのだから。
「……ふむ、なるほど?」
心の準備も何も出来ていない中でいきなりやってきた母の来訪に悠斗は疑問をぶつけるようにして叫ぶが、その一方で咲もまた彼の言葉を聞いて目を大きく見開いている。
けれどもそんな二人の反応をよそに、悠斗の母は未だ困惑の渦中にある彼とその横にいる咲のことを交互に見つめると………。
「………なに、あんた彼女できたの?」
「…違うわ!」
…実にあっさりとした様子で見当違いなことを告げてくる母の発言に、悠斗は全力で否定のツッコミを入れることになるのであった。




