第七三話 渡したいもの
「いやー…美味かったなぁ…! 量もしっかりあったからかなり満腹になったし、満足感が半端ない…」
『満足してもらえたなら何より。でも、まだこれで終わりじゃない』
「…あぁ、まだケーキが残ってるんだよな。大丈夫だ。それを食べるくらいの余裕は残してあるから」
悠斗と咲が夕食を食べ始めてから幾ばくかの時が経ち、二人は時間が経つにつれて増していく穏やかな空気に身を包まれながらもこの夜を満喫していった。
相も変わらず料理一品一品の仕上がりに感動していく悠斗と、そんな彼を楽し気に見守る咲。
見ようによっては自らの料理に夢中になる子供を見守る母のようにも見えなくもない。
…その背丈は確実に母親などと認識されるはずがないと誰もが思うこと確実だが、そんな意見は胸の内にしまい込んでおく。
何事も言っていいことと悪いことがあるのだ。
目に見えている地雷原を踏み抜いて咲の怒りを買う必要はない。
そうなった場合の未来は…悠斗が鋭く冷徹な目をした彼女から淡々と言い負かされるだけの展開が待っていると知っているのだから。
『なら今から持ってくるけどいい? 辛そうならもう少し時間を置いておく』
「問題ないって。もう用意してくれてもいいよ。それより咲の方が調子とか無理してないよな?」
『私の方は問題無し。このためにご飯も食べる量は調節してた』
「…そっか。だったら良かった」
しかしながらそうして夕食が区切りを迎えたからと言って終わりではなく、むしろ本番はここからと言っても過言ではない。
何しろこれより先はまたもや彼女お手製のケーキを食べられると言うのである意味夕食と同等以上に期待値は高く、一体どんな物が出てくるのかと楽しみにしていたのだ。
その胸中に収めていた思いは咲がぴょこんと席から降りていき、冷蔵庫にしまっていただろうケーキを取り出しに向かってくれた。
あとは念のためにと尋ねてみたが、どうやら彼女はこのケーキを食べるために夕食の分量をセーブしていたようだ。
…思い返してみれば悠斗が手当たり次第に夕食へと感動している間にも咲は程々の量しか取り分けていなかったし、食欲が無いのかとも思ったがそういうことなのだろう。
こればかりは後先も考慮せずに出された料理を食べていた悠斗が悪かった、と言いたいところであるが…それだって彼にしてみればどうしようもないことだ。
何故なら、つい先刻も述べたように今晩の夕食はそのどれもが完璧な仕上がりでありつい食べ過ぎてしまうのが当たり前と思えてしまうくらいの美味が勢揃いしていた。
あの状況下で食欲を抑え込めと言う方が無茶な話なのは明白。
どの皿からも食材の断片すら見出せないほどに綺麗に食べ切った悠斗は正常なくらいであろう。
(いやはや…いつも咲の料理が美味いのはそうだけど、今日はまた格別だったなぁ…あいつもイベントっていうことでテンションが上がってたのかもだけど)
だがそこまでして料理を詰め込むと多少は満腹感による苦しさというのも発生するもので。
今までは他に意識が向いていたのと食事に集中していたので気にも留めなかったが、一度落ち着くと椅子の背もたれにもたれかかりながら…圧迫感にも似た感覚が襲ってくる。
しかしその感覚も悪い類のものではなく、それどころか咲の料理によってこれ以上ない満足感を得られたからなのか心地よさすらあるくらいだ。
…少し視線を動かしてみれば冷蔵庫の棚にしまっていたケーキを取り出すためにプルプルと全身を震わせて手を伸ばす咲も確認できるし、彼女の存在のありがたさを再度思い知らされた気分でもある。
当然のことだがこの環境は当たり前のものではないし、見る者からすれば特別極まりないもので…少し変わっていることも自覚している。
悠斗がこうも食事に満足感を覚えられるのもひとえに咲のおかげであり、彼女の腕があってこそ。
そこを履き違えて享受できて当然などと認識することがあってはならない。
だからこそ、こうして毎食のように飽きられようとも手料理の感想と感謝は欠かさず伝えているのだ。
(思い返せば…もう前はどうやって三食を成立させてたのかも思い出せなくなってきてる。…相当毒されたもんだよ、本当)
今の悠斗は咲という存在が欠けてしまえばほぼ確実に生活は怠惰なものへとまっしぐらになる。
そう思わせる証拠の一つとして、悠斗は好奇心から以前の自分がどんな食生活を送っていたのかと振り返ろうとして…その詳細が全く思い出せないことに思い至った。
…時間にしてみれば遥か昔のことというわけではない。
咲と関わり始めたのはせいぜいが一か月と少し前のことなのだから思い出せて当然のはずなのに、どうしてかパッとイメージとして浮かび上がってこないのだ。
まぁ…その理由は自分の事なので概ね察せる。
おそらくはこの一か月近く続けてきた生活と比べてしまえば前の暮らしは彼にとってさほど価値の無い物だと無意識に割り切ってしまったのだろう。
期間に直せば数年と一か月という差があるにも関わらず、それでもなお悠斗にとって…咲と過ごしてきたこの時間の方が重要だと判断していたのだ
…我ながら呆れるほどに染め上げられてきている。
が、そこを嫌だとは思わなかった。
(つまり俺にとっては、咲のいる今の方が落ち着くし愛着も湧いてるってことだ。…こんなこと咲に言ったら揶揄われそうだな。これはこっちの胸にしまっておこう───?)
その事実に気が付いてしまえば不思議と苦笑が浮かんでしまい、意識したわけではなくとも愛着を持ちつつあるこの生活は確実に悠斗のパーソナルにも入り込みつつある。
咲へと言ってしまえばどんな反応をされるか不明瞭なので流石に彼女にも言えないことだが、そう思ったのは事実なため呆れつつも視界を咲から逸らす。
──だが、そうやって悠斗が目を動かした先。
これに関しては本当に単なる偶然に過ぎないが、家の外の景色を映し出している窓を視界に捉えたところでふと悠斗は違和感を覚えた。
具体的に何があったのかを理解したわけではない。
ただひたすらに何となく、そこに映っている物の正体にもしや…という程度の疑念を感じ取ったために席を外し、窓へ近づいてその光景を視認した。
そこに映っていたのは………。
「…あぁ、雪か。どうりで寒いと思ってたら…そりゃ気温も低くなるわけだよ。しかし随分とタイミングよく降ってきたもんだな…」
見やすいようにとカーテンを開き、視界一面に飛び込んできた景色に映っていたのは…そこらに降り注ぐ雪の結晶。
朝に確認した天気予報では雪が降るなど言っていなかったというのに、何とも運命的な頃合いでホワイトクリスマスイブに変貌してくれたらしい。
辺りを見回してみれば結構な量が降っているのか少しずつ積もり始めているようだし、この分だと朝には銀世界が広がっていてもおかしくはなさそうだ。
頭の中でそんなことを考えながら悠斗も久方ぶりに目にした雪景色に意識を奪われ…そこで、不意に横から気配を感じたのでそちらに目をやる。
するとそこにいたのは…お察しの通り。
「………」
「…何だ、咲か。音もなく現れるからビビったぞ? …まぁほら、見てみろよ。さっきまで気が付かなかったけど雪が降ってきてたらしいぞ」
「…………!」
いつの間にやら一切の音を立てることなく隠密性抜群の足取りでやってきていた咲が立っていたために少し驚かされた。
ただ一瞬机の方を見ると先ほどまでは無かった小さめの箱のような物が置かれていたため、おそらくはケーキを運び終えたのと同時に悠斗があそこからいなくなっていたことに気が付いたのだろう。
そして彼にケーキの用意が整ったことを伝えるべく、そろりそろりと近づいてきてくれた…といったところか。
…別に音までも消して近寄る必要は無かったとも思うが、そこに関してはツッコミも入れない。
言うだけ野暮だ。
『…綺麗。全く気付かなかった』
「だよな。…窓も締め切ってたからっていうのもあるんだろうが、それにしても…こうも降るのは久しぶりに見た気がするよ」
『同感。でも、こういう景色は好き。それに…悠斗が隣にいるから、雪景色もいつもより綺麗に見える』
「…っ!」
されど眼前の景色に夢中にはなりつつも、舞い落ちていく雪をキラキラと瞳を輝かせながら見つめていた咲が自然と放った一言は悠斗の理性をも揺らがせる。
…今までに悠斗も大して意識はしていなかったが、クリスマスイブという否応にも男女の距離感を縮ませるのに最適なこの日。
不思議なことに、この瞬間まではそれほど意識もしていなかったというのに…ほんのわずかに頬を赤らめながらそう告げてくる咲の顔は、何とも甘さを含んだもので。
場の雰囲気もシチュエーションも、ここにいるのが彼らの二人きりということも相まって急激に彼女の……咲の有する魅力を強く捉えてしまいそうになる。
……だが、そうなりかけたところで悠斗は熱くなっていった思考の片隅でとあることを思い出した。
「…あ。そういえばこんな時に言い出すのも何なんだけど…ちょっといいか?」
「………?」
「少し渡しておきたいものがあってさ。忘れないうちに取ってくるよ」
「………」
彼の方から言いだしたのは具体的な中身を伴わない言葉であり、肝心の用件をすっぽかしたので咲は要領を得ない顔で首を傾げていた。
ただこればかりは中身を明かしてしまうと意味が無いので、申し訳なく思いはしつつも悠斗は返答を聞く前に少し場を離れる。
そして悠斗は自分の部屋へと一時的に戻って行くと、事前に用意していたある物を手に取り…再び彼女の下へと近づいていく。
「悪い、待たせた。これを咲に渡そうと思っててな…忘れなくて良かったよ」
『……これは?』
しばしの間ここを離れ、戻ってきた悠斗が手にしていたのは…一つの箱。
それも少しのラッピングと包装がされた物であり、今現在の状況を顧みればただの箱に過ぎないという可能性がありえないことは明白。
では、これが何かと問われれば……答えは単純。
「せっかくのクリスマスイブだしこういうのがあっても良いかと思ってな。クリスマスプレゼントだよ。貰ってくれるとありがたい」
「………!」
悠斗から手渡された箱状の何かを訝し気に眺めていた咲へともたらされた回答は、彼女へのクリスマスプレゼントという何とも単純明快なものだ。
そう、悠斗も咲には何も言っていなかったが…実は彼の考えでこっそりと今日の数日前に彼女へのプレゼントになりそうな物を見繕っていたのだ。
これにはその選び抜いてきたプレゼントが入っており、ラッピングなんかはクリスマスということもあって店側の厚意で飾ってもらったものだ。
本当に咲には何も伝えずに用意したものだったので良いサプライズになるかと想い、今日この瞬間に出してきた、が……向こうのリアクションは想定を超えていた。
『…これ、私が貰ってもいい?』
「当たり前だろ? むしろそのために持ってきたんだから貰ってくれないと困るぞ」
『……凄く、すっごく嬉しい! ありがと!』
「…どういたしまして。そこまで喜んでもらえたのなら渡した甲斐もあるってもんだ」
「…………!」
まさか悠斗からクリスマスプレゼントを貰えるなど想定外も良いところだったようで、咲の歓喜ぶりもまた半端なものではない。
明らかに先ほどまでとは一線を画した様子で嬉しさを全開にしながら箱を両手で大切に抱え込み、それでもなお内心の喜びが表しきれていないのか綻んだ笑みまでも蕩け切っている。
悠斗にしてもそこまで喜んでもらえるとは思っていなかったので多少予想外ではあったものの、まぁ…無反応よりは余程こちらの方が良い。
むしろ自分の渡した物で微妙な反応をされた時にはそちらの方がショックになるので人知れず安堵の息を吐く。
──そうして、彼女へと渡すことに成功したプレゼントの一つ。
雪に囲まれた部屋の中で溢れ出そうになる喜びを全力で表現する少女と、それを微笑まし気に見つめる少年の二人がいる空間は…何とも温かい。
ある意味、二人だけの世界とも呼べる熱がそこらに振りまかれていた。




