第六六話 未確定の勤め先
一日の疲れをのんびりとした空気感が包む部屋のソファにて休ませていた悠斗。
だがふと、彼もそんな時間の中でぼーっと弄っていた携帯の画面を見つめているとあることを思い出した。
「…あっ、そうだ咲。言い忘れるところだったけど…俺明日はバイトの予定が入ってるからさ。悪いが帰りは少し遅くなる」
「………!」
彼の思い出した用事。
それは今も尚隣に座っている少女、咲にとっても無関係なことではないため報告は怠らない。
というのも、明日は彼にとっても勝手に外すことも出来ない予定であるアルバイトが挟み込まれているからだ。
かなり今更な話にはなってしまうものの、悠斗はある場所にて週に何日かバイトをこなしている。
しかしそれは最近になって始めたわけではなく高校に入学してから比較的早めの段階でスタートさせていたものであるため、期間にすれば実に数か月は既に継続している計算だ。
無論、咲と出会ってからもその予定は止められることなく続いていたので向こうも悠斗がバイトをしていることはとっくの昔に把握済み。
なので今回も大して驚かれることなくコクコクと頷かれ、そのまま会話は終わる……かと思われた。
けれど今日は何故かそこで会話が途切れるわけではなく、咲の方からこのようなことを言われる。
『…そういえば前から気になってたけど、悠斗って何のバイトをしてる? 聞いたことない』
「え? …俺から話したことなかったっけか?」
『ない。聞こうと思っててもタイミングが無かったし、悠斗も話さないから…聞かない方が良いのかと思ってた』
「マジか…いや、そこまで面白い場所でも無いぞ? 普通のバイト先だから」
少し遠慮するような仕草を見せながらも向けられた画面に記されていたのは…かなり予想外な内容である。
悠斗自身その自覚がなかったために一瞬何を言っているのかと思ってしまったが、振り返ってみると確かに咲へ自分がどんな所で働いているのかというのを語った覚えがない。
まぁ…これに関しては語る必要を感じなかった、というのも理由の一つとしては挙げられる。
今ならばともかくとして、出会った当初の状況を思えば咲との間柄はそんなことをいちいち報告するほど近しい仲でもなかったのだから。
バイトのために長時間家を空けてしまう事こそ伝えていたものの、詳しい内容については…触れていなかったと言われればその可能性も否定は難しい。
何せ悠斗自身の記憶にそれらの身に覚えが皆無なのだ。
だが、捉えようにとってはちょうどいい頃合いでもある。
この機会だし、特段面白いものではないが咲にも悠斗のバイトについて概要だけでも教えておくのは悪くないだろう。
…決して忘れていたという現実から目を逸らしたわけではない。
「ほら、ここから少し行った駅前に飲食店があるだろ? あの賑わってる場所にさ」
『…確かにあそこにお店はたくさんある。もしかして、そこで?』
「そうだよ。高校に入った時からあそこでバイトしてるんだ」
ただ咲へと語る内容にしてもそんな深いものが飛び出してくるわけでも無く。
ようやっと明かされた悠斗のバイト事情についても特筆して喋るほどの特徴があるわけでも無いので、実にあっさりとした雰囲気でバラされた。
そんな彼の語る内容は…やはり目立った何かがあるようなものではない。
「あの通りの中に個人経営でやってる店があってな。ちょうどバイト先を探してた時に募集してたから、そこに行ってそのまま雇ってもらったんだ」
『結構意外だった。悠斗、飲食店で働いてる?』
「あぁ。…とはいっても調理には携わってないぞ? 自分で言うのも悲しいけど料理の腕は壊滅的だし、やるのはもっぱら接客と清掃だ」
悠斗が言ったように、彼は今ここから少し離れた飲食店通りの一角。
そこに並ぶ個人経営の店の一つで彼はバイトをこなしている。
さして物珍しいというわけでも無い。働いている店に関してもごくごく一般的な大衆料理を提供していると言えば分かりやすいだろう。
強いて言うなら従業員がオーナーも兼ねている女性の店長ともう一人、悠斗とは別に入っているバイトの先輩にあたる人物がいるくらいなのでかなり小規模な経営体制だということか。
だが、そこを差し引いてもあの店はこちらの贔屓目抜きでも結構な人気がある。
店の規模や従業員の人数が少ないにも関わらず、少なくとも悠斗が働いている際には客足が遠のくといった光景は滅多に目にすることがない。
まぁその原因については大体察しがつくというか……大抵はあそこの店長目当てで来る客が多いというだけだ。
働いている身でこんなことを思うのもどうかとは思うが、悠斗から見てもあの店長は美人な部類に入ると思っているのでそれを目的として来店する人がいるのも納得はする。
なお補足しておくと、悠斗自身は美人だとは思っていても店長に対して色恋沙汰に相当する感情は一切抱いていない。
それ以前の問題として何というか彼の視点から見たあの人は…美人云々という前に色々残念だという感情が先行してしまい、そういった感想はどうしても抱けないのだ。
…本人の前で言ったら締め落とされかねないので、断じて口には出来ないが。
そしてこれも…咲に伝えたら驚かれてしまったことだが、彼女にしてみれば業務内容よりも前に悠斗が飲食を取り扱う店で働くという事の方が驚きだったはずだ。
実際その事実を聞かされた瞬間は目を見開いてリアクションを返していたし、普段の彼を知っている分だけインパクトは強烈だったに違いない。
ただそこについてもさほど心配するほどではなく、悠斗も自分の不器用さに関しては嫌というほど理解しているので基本的に調理には携わらない。
彼がしている仕事はテーブルの配膳や接客、皿洗いや清掃といった料理以外の面が主であり、そのおかげもあって皿洗いのやり方だけは異様にマスターしたという副次的な効果もある。
現在も悠斗が調理は出来ないのにも関わらず、洗い物だけはこなせるのはそういった側面もあってのことだったりする。
「…ま、基本的なことはそんな感じだな。普通だろ?」
『何となくは分かった。教えてくれてありがと』
「このくらいは良いって。どちらかと言うと伝え忘れてた俺に非があるくらいだし…咲が気になるのも当然の話だ」
今までは無意識のうちに悠斗も咲にはバイトに関して既に教えていたと思い込んでいたため深く話してもこなかったが、その間彼女も気にはなりつつも尋ねることは我慢してくれていたのだ。
そう思うと何故か途端に申し訳なくなってくるため、ここで伝えられたのはちょうどよい機会でもあった。
これからも度々アルバイトのために彼が家を空けることはあるだろうから、そこでの懸念事項を一つ減らせたと考えれば悪くもない。
『…でも、あと一つだけ聞きたいことがある。いい?』
「お、どうした。堪えられる範囲内なら良いぞ」
そうやって悠斗も咲にバイト関連の話を出来たこともあって内心スッキリとした気分になっていれば、再び携帯を向けてきた咲が何やらもう一つ質問をしたいと言う。
些細な内容であるのならそれも特に構わないので、深く考えることも無く彼も許可したが…その後の展開を思うとここで断っておけば良かったかもしれない。
『悠斗、お店で接客をしてるって言ってた。どんな感じでやってる?』
「ん? どんなって言われても…まぁ冷たくはならないように意識してる感じだぞ。流石に素の態度でやるわけにもいかないからな」
彼女が尋ねてきたこととは悠斗が先ほど述べた接客に関連した話題であり、何故そこが気になったのかは置いておくとしてもその時の対応の仕方を聞きたいとのことだ。
だが、そこを突かれるのは少々…気恥ずかしさもある。
というのも、悠斗は雇ってもらっている身であるため接客時の礼儀というものを重視しており、最低限お客相手でも不快感は抱かせないようにとプライベートとは打って変わって朗らかな姿勢を維持している。
普段はぶっきらぼうな言動が目立つ悠斗ではあるものの、バイトの最中だけはそこを一変させた雰囲気で店に立つのだ。
…そのせいで周りからは『変わり身が上手すぎる』だの、『演技力がありすぎる』だの言われたりするがそこはいい。
要はそれほど仕事時と私生活では反応が別物というだけ。
それだけなのだが…正直、その事実を咲には伝えたくなかった。
これは共感してもらえるかも分からないが、赤の他人ならばともかくとして日頃の自分を知っている相手に仕事をしている際の態度を見られるというのはむず痒く思えてならないのだ。
だからあまり伝えたくはないと思いつつも、同時に言ったところで何があるわけでもないだろうと高をくくり……やけに瞳を輝かせた咲からこんなことを言われた。
『…お仕事してる悠斗、一回見てみたい』
「………え?」
『悠斗が接客してくれるの、楽しそう! 行ってみたい!』
「…いや、駄目に決まってるだろ! 何でそうなるんだよ…」
「………!?」
キラキラと眩いほどに輝きを放つ咲の瞳からは、溢れんばかりの期待感を滲ませて悠斗の接客風景を見たいなどと言われる。
無論、返答はノータイムで拒否である。慈悲はない。
ただ断られた立場にある咲は…相当ショックだったのか、目を見開いて悲しみを表現していた。
『…どうして。私が言っても問題はないはず』
「そんなの…気まずいからだよ。身内に仕事の姿を見られるとか恥以外の何者でもないだろ…」
『やだ。見に行きたい』
「だから駄目だ! …言っておくが、黙って来ようとするのも禁止だからな?」
「………」
「おいこっちを向け。絶対聞こえてるだろ!」
悠斗が咲の申し出を断った理由は他でもなく、ただただバイト最中の姿を見られるのが気恥ずかしいからだ。
既にプライベートでの彼を知り尽くしている彼女にあの態度を見られるなど…彼の羞恥心が耐えきれるかどうか分からない。
ゆえにここは同情の余地も残さず禁止を言い渡そうとして…そんな意見など聞いていないとでも言わんばかりに首をそっぽに向けた咲の反応に、何としてでも了承させようと彼もまた躍起になっていくのだった。
──遠くない未来、咲がこっそりと悠斗のバイト先にまで潜り込んでくるような事態もあるのかもしれないと…彼にとっては嫌な未来も実現しそうなやり取りであった。




