第六三話 変わらない日々、変わる内心
「それじゃあ…私はこれで戻らせてもらうわね! …咲ちゃん、くれぐれも悠斗さんに迷惑かけないようにね?」
『…お母さんこそ、今度は連絡をしっかりしてから帰ってきて。でないとこっちも困惑する』
「もう、それくらいは分かってるわよ~! …じゃあ悠斗さんも、申し訳ないけど咲ちゃんの事をよろしくお願いしちゃうわ!」
「どっちかと言うと頼るのはこっち側なんですけどね…それに、もう帰られるんですか。まだ早いような気もしますけど…」
美幸と悠斗が咲の知らぬところで言葉を交わした後。
あの後、ある程度夕食の準備を終えたらしい咲がキッチンから出てくる姿を見た美幸はそれほど時間も経たぬ内に外泊先へと戻ると言い出した。
…まさかそこまで早くここを出ていくとは夢にも思っていなかったため、悠斗も咲も一瞬面食らってしまったが思い返せばそれも仕方がない。
ここに来るまでの展開の怒涛さゆえに失念しかけそうになるが、元々美幸がこの場所へと戻ってきたのは一時的な帰宅に過ぎない。
本来の目的とされていた咲の様子を確認することさえ達成してしまえば長居する理由もないため、早々と帰っていくのはむしろ当たり前のことだ。
「あまりゆっくりしている余裕も無いから…私としても残念だけどこればかりは仕方ないわね。…咲ちゃん、またしばらくは離れ離れになるけど何かあったらすぐに連絡するのよ?」
『……分かってる』
(咲が大人しい……いや、違うか。表面をどれだけ取り繕っていても、親と離れて過ごす時間が長引くことになったんだから寂しく思わないはずがないよな)
今はそんな折の瀬戸際。
美幸が自身でも語っていた仕事上のトラブル云々への対処をするために再び出張先へと舞い戻るべく玄関先にて一時の別れを告げているところ。
そうした中にあって、一見咲は何てことも無いような表情を浮かべながら母と会話を繰り広げているが…美幸から優しく頭を撫でられ、ふと見せた顔からは寂寥感にも似た感情が読み取れる。
当たり前だ。咲とてしっかりした一面を多く持っていようともまだまだ子供の域を出ない高校生の身。
その内心がどう思っていようとも…ようやく再会できた親とまた離れた時間を味わうことになると分かれば、思うところも多々あるはず。
しかしそれでも、この時間は長く続かない。
「…さて、そろそろ本当に行かないとマズいわね! 咲ちゃん、悠斗さん。二人なら大丈夫だと思うし心配もしていないけれど…あっ、そうだわ! せっかくだし悠斗さんにはこれも渡しておかないと…」
「……これは?」
「………?」
直前まで優しい手つきで撫でられていた咲の頭から美幸の手は離れ、現在の時刻を確認すればもうギリギリだということに思い至ったのだろう。
流石にこれ以上はこの場に留まっていられず、悠斗の家を去ろうとしたところで…彼は美幸から一枚の紙を手渡された。
一見すれば何の変哲もない、折り畳まれた用紙。
何故このタイミングでそのような物を渡してきたのか意図が掴めず、受け取った悠斗も首を傾げてしまいそうになるが…その正体はすぐに判明する。
「それ、私の連絡先ね! せっかくだし咲ちゃんとの生活で何かあったら報告のために使ってくれたら良いわ! あ、もちろん何もなくても遠慮せずにメッセージをくれてもいいのよ?」
「………!」
「あー…なるほど。じゃあその時になったら…連絡させてもらいます」
「えぇ、是非そうして!」
手渡された紙。そこに記されていたのは美幸の持つ連絡先を示した一文。
これを使えば今後彼女とも直接メッセージを送り合うことも可能となり、それは悠斗にとっても明確なメリットがある。
例えば…仮にこの先で咲と共同生活を続けていった時、何かしらのトラブルが発生することがあるかもしれない。
そんな時に一つでも頼れる伝手…それこそ今のように、美幸という大人への連絡手段があれば精神的にもかなり余裕が生まれる。
なのでこれは彼にしても断る理由がない。
まぁ…あえて言うなら友人の母親と連絡先を交換するという状況に多少の違和感を覚えてしまったが、そこは気にしたところで意味もないので無視だ。
よって、問題なく受け取ったということを暗に美幸へと意思表示すれば向こうも満足げに頷き返す。
「となると…もうこれ以外に忘れたことはないはずよね!」
「大丈夫だと思いますよ。もし何かあったとしてもこちらで保管しておきますから」
「そうしてもらえると助かっちゃうわ。じゃあ咲ちゃん…また今度ね。寂しくなったらすぐに連絡してくれたらいいから」
『……その時は、そうする』
「うん、それでいいわ。二人とも、出来るだけ仲良くね!」
最後の最後に名残惜しそうな表情を浮かべたように思えた美幸であったが…向こうもその辺りの感情は割り切っているのだろう。
一度だけ、自分の娘としばしの間離れることを彼女も寂しくは思いつつもその掌で髪を撫でれば気持ちにも区切りがつけられる。
二人に向けて一言を告げれば、その勢いのままに──部屋を後にしていった。
「…行っちゃったな。俺たちも戻るか」
「………」
そうして取り残された二人…悠斗と咲は美幸が立ち去った玄関を見つめながらも部屋に戻ろうと彼から提言した。
すると、咲はその瞳に何か小さな感情を揺らしつつも悠斗の言葉に頷き、共にリビングへと戻って行くのだった。
(咲は……大丈夫そうだな。ひょっとしたら美幸さんがまたいなくなって思うところも出てくるんじゃと思ったけど、杞憂だったみたいだ)
美幸がここを去ってから数分後。
あれから悠斗は何度か咲の顔色をそれとなく観察していたが…彼の懸念していたようなことは見られないので特に心配する必要もなさそうだと思い安堵する。
もしや彼女の母と再び離れることとなってしまったことで心情的に不安定になってしまうのではということも予想していたのだが、少なくとも彼の確認した限りではそのような態度は見られない。
それどころかいつもと大して変わらない態度でソファに座りながら身を縮こまらせているため、少し上機嫌なようにさえ思えるくらいだ。
(でも、思い返しても今日は激動の一日だったよな…結果的には上手くまとまったから良かったものの、一歩間違えてたらこうはならなかったんだ)
しかし咲の態度におかしなところが見られないのであれば、必然的に彼の意識も別のところへと移る。
そうして向かった悠斗の思考は自然とつい先ほどまで我が身に降りかかっていた怒涛の展開の数々であり、少しでも道を間違えていればこの日常には戻ってこれなかったのだと思うと…少し身構えそうにもなる。
だが、それは言ったところで意味もないことであることも分かっている。
いくらあの時ああなっていたらなんて考えたところで現実は今彼の置かれている状況が全てであり、過去ばかり振り返ったところで時間を浪費してしまうだけ。
だから悠斗はこれ以上は考えることをやめて…思考を少し別の場所に移動させる。
(…そういえば、今までは自然過ぎて疑問にも思ってなかったが……どうして美幸さんはあんなに俺に親密そうに話しかけてきたんだ? 考えてみればおかしい、よな…)
落ち着いた日常が戻り、ようやく身体も頭も休めることが出来る状況へと舞い戻ってきた。
となれば彼の思考にもその分だけ余裕が生まれるという事であり、そんな中で悠斗が考え付いたのは…一つの違和感。
これは最初の出会いやその後の流れにインパクトがありすぎたために特に引っ掛かりもしていなかった点であるが、今こうして冷静に考えてみると少し不可思議なこと。
というのも悠斗が考えているように、先ほどまでここにいた美幸はどういうわけか……彼と出会ったその時点から非常にフレンドリーな態度で接してくれていた。
が、これは少々おかしい。
何故なら悠斗は今まで美幸の存在など咲の発言を介して知っていただけであり、直接対面したことなどついさっきを除いて一度としてない。
だというのに…彼女は何故か、悠斗と対面した直後からとてつもなく距離感を近くした間柄のそれでずっと話しかけてくれていた。
初めて会ったばかりの相手にするにはありえないことだろう。
無論、美幸の性格なんかを顧みれば単に彼女がそういう人間だからという解釈も可能かもしれないが…それにしてもあれはその範疇を飛び越えているように思えてならない。
(うーむ……考えても分からないな。まさか昔どこかで話したことがある、なんてことは無いだろうし…それこそどっかで俺の話でも聞いてたみたいな───?)
「…ん? 咲、どうかしたか?」
『それはこっちのセリフ。…ずっと悠斗が悩んでるみたいな声出してたから、気になった』
どれだけ思考を捻ったところで悠斗一人では明確な答えなど出てこない。
八方塞がりな状況を前に流石の彼もお手上げかと思われたが、そこで…隣から突き刺さってくるような視線を感じた。
ふと横を見てみれば、そこにはいつの間にか上機嫌そうな態度から一変して何か訝しむような視線を向けている咲がいた。
発言から察するに、悠斗自身も気が付かぬ間に思案が表に出ていたようでそれを不思議に思われたらしい。
『何かあった? 気になってることでもある?』
「あぁー……あるっちゃあるんだけどな。…せっかくだし聞いてもらってもいいか?」
『もちろん。遠慮しなくていい』
「…だったら話させてもらうよ。実は───」
一瞬咲にまで話すほどの内容ではないと相談を躊躇った悠斗であったが、しかしながらこれ以上彼一人で考え込んでいたところで解決するとも思えない。
であればここは万が一の可能性に賭けて美幸の娘でもある咲にも話を聞いてもらい、一緒に考えてもらった方がまだ希望の兆しは見える。
そう思っての発言だったが、これ以降の流れは…彼にとっても思いもよらぬ形に転がっていく。
「──ってことで、ちょっと不思議に思っててな。何か心当たりみたいなものとかあれば教えてくれると助かる」
『…なるほど。それなら多分分かる…というか、多分原因は私』
「えっ、本当か?」
「………」
これまた意外なことに、悠斗から話を聞き終えた咲はどうしてか気まずそうな表情を浮かべたかと思うとその原因は自分にあると言う。
まさかそんなところに答えが転がっているなど思っていなかった悠斗は思わず確認のために質問を返してしまうが…聞き返したところで戻ってくるのは変わらず肯定の意。
首を縦に振る様子からは嘘を言っている様子が見られないため事実なのだろう。
『実は、前から少しお母さんには悠斗のことを話してた。どんな人なのかとか、どういうことをしてるのかとか』
「…なるほど?」
『多分、そうやって話してる内にお母さんも悠斗のことを信頼してたんだと思う。お母さんなら私の信用した人なら疑うことはないって言うはずだから』
「そういうことね……何となく分かったような気もするよ」
気になる内容であったが、詳しく聞いていけば日々の合間に咲の方から悠斗に関する情報は美幸へと流れていたらしい。
彼女曰く、その過程の中で受け渡された情報を見て美幸も彼のことを信頼していったのではないか…とのことだ。
言っていることは理解できる。
あの母親ならば咲のことは全面的に信頼しているだろうし、おそらくその伝えられた内容というのも咲の人柄を考えればほとんどがプラスな内容で彩られたものばかりだったはずだ。
咲が積極的に悠斗の悪口を書き連ねる姿など想像も出来ないし、そうなれば当然美幸は彼のことを信頼に値する人物だと評価する。
その結果があの初対面から見せられた態度だったというわけだ。
納得である。
「…ちなみになんだが、その話してた内容っていうのはどんなものなんだ? 言いたくなければそれでいいけど…気になるからさ」
だが、そこまで納得してしまえば残るのは些細な好奇心のみ。
会話の中でさりげなく話題に挙げられていたが、咲から美幸へと流れていた悠斗の評価云々とやらに彼の目は向けられてしまう。
しかしそれは仕方のないことだ。
日頃から近くにいる咲が自分のことをどう思っているのか、それを聞き出せる機会ともなればどうしてもそこに触れたくなってしまうのは当たり前のこと。
よもやすれば何も思っていない、という答えが返ってくる可能性もあったわけだが…そこいらのリスクを承知してでも悠斗は溢れでそうになる好奇心を抑えきれなかった。
よって咲へと質問を投げかけたわけであるが、そこで返ってくるのは…ふっと微笑むような、それでいてはにかむような愛嬌を滲ませた笑み。
見ているこちら側の方が思わず目を引き付けられるような魅力を醸し出す咲の表情を前にして、悠斗も不意に心臓が高鳴りそうになりながらも…出された文面はこのようなもの。
『…お母さんには、悠斗はちょっぴり素直じゃなくて、でも優しくて、それで…大切な人だって言ってた。それだけ』
「な……っ!?」
…まるで、悪戯が成功した子供のように。
示された文面の意味を理解した悠斗が避けようもない羞恥の込み上げを必死で抑え込んでいる様を…彼女は実に楽しそうに見つめていた。
だが、それは…その言い方は、少し卑怯だろう。
大切な人。ただの友人という括りにするにはあまりにも過小な評価であり、されど特別な相手だというには──少し決定打に欠ける。
…それでも、彼女にとって悠斗は他とは違う──ほんの少しでも先に進めているのだということを暗に示す一文だ。
「…そういう事を言うのは止めとけって前に言っただろ。勘違いされたらどうするんだよ」
『だってこれは事実。…私にとって、悠斗は大切な人。だから…嬉しかった』
「……嬉しかった?」
未だ収まる気配がない心臓の騒めきを無理やりに抑えて頭に手をやりながら、悠斗は彼女へとそんなことは言うなと忠告する。
これが悠斗だからこそ妙な勘違いはせずに済んでいるが、言葉だけを切り取ればそれこそ…彼女が悠斗に、そういった感情を抱いていると思われてもおかしくない。
ただ、その程度で怯むような咲ではない。
悠斗の言葉にも一切動じることなく、嬉しいという単語を放つ彼女の浮かべる表情は…何とも愛らしい。
『もう今日で終わっちゃうかと思ってた。…でも、今日からもまた悠斗と一緒にここで過ごせる。悠斗がいてくれるから…お母さんたちがいなくても寂しくないし、心が温かくなる。それが凄く嬉しい』
「……そうか。だったら光栄だけどな」
『うん、だから悠斗。───これからも、よろしくね?』
「それは…こちらこそ、だな」
「………!」
あの時、あの瞬間。
今思えば単なる勘違いだったとはいえ、少しでも道を誤っていれば今日限りでこの生活は終わっていても何らおかしくはなかった。
だが、現実はそうはなっていない。
悠斗と咲。二人が互いに己の内心を吐露したからこそ…今もこうして彼らは同じ空間を共有することが出来ている。
今までと同じように、穏やかな時間を過ごすことが出来ている。
それこそが、咲にとっては何よりも嬉しいことなのだと……これまでの中でも一番と言えるほどに、満面の笑みを浮かべながら咲は断言してくれる。
同時に──これからもよろしくと、期待感に輝かせた瞳を向けながら。
…そこに対する返答は決まりきっている。
今更どれだけ意見を取り繕おうとしたところで、あんな感情を露わにしてしまったのなら隠す意味もない。
だから悠斗も彼女の意見に賛同するように…こちらからも同意の言葉を返しておいた。
傍から見れば、何ら変わらない日々の持続という結末。
されど、確かに今日この瞬間──二人の心には、小さくも大きな変化があったように思えた。
それが一体何なのか。真実は……まだ分かるところではない。
これにて第二章は完結です!
波乱万丈続きだった日常を経て更に距離が縮まった悠斗と咲ですが、これだけでは終わりませんのでご安心を。
二人の日々はより甘くなっていくはずですので、第三章の方もお楽しみに!




