第六二話 隠したいもの
…紆余曲折がありつつも、最終的には双方が納得させられる形でまとまった今回の一件。
悠斗と咲もほぼ確実に失うだろうと思っていたこの生活はひとまず維持という結果となり、怪我の功名とも言えるが…今回の件を通して図らずもお互いの本音を知れた。
その辺りの成果を考えれば一概に悪いことばかりではなかったとも言えるだろう。
「それにしても…そういうことだったらどうして美幸さんは咲を家に帰らせようとしてたんですか? 単に報告だけなら迎えなんて言わなくても良かった気が…」
「あ、それに関してはねぇ~……実は元々、咲ちゃんには近くのホテルに泊まってもらおうかと思っていたのよ。ほら、最近の世間は物騒じゃない? ここもセキュリティはしっかりしているけど、それでも娘がずっと一人っていうのも心配だから…そのための荷物をまとめようと思っていたのね」
「…あぁ、だから『迎えに来た』って言ってたんですか。手荷物をまとめるために」
「そういうこと!」
そして今……現在悠斗たちはテーブルを囲みながら話している真っ最中であり、彼の方から抱えていた疑問をぶつけていた。
これは美幸と邂逅した瞬間から思っていたことであるし、悠斗たちが誤解をする要因の発端とも言えるが…最初、彼女は咲のことを迎えに来たと言っていた。
その発言によってこちらは様々な憶測が飛び交う結果となり、勘違いが加速していったわけだ。
しかしそれも落ち着いた今になって考えると少しおかしく、妙な点が多々あるのだ。
それこそが今も悠斗が指摘した箇所。
仮にあの時点で美幸が咲へと伝える事項が出張の延長だけだとするのならわざわざ『迎え』なんて単語を使う必要はなく、ただその事実を口にすればよかっただけ。
ではどうしてあんなことを言ったのか問えば…真実は大したことも無かった。
向こうの言い分として、どうやらあの時に言っていたことは彼らの意図していたことからは外れていたいらしく、正しい内容としては『外泊するための荷物をまとめさせるために迎えに来た』というのが正確だということ。
「どれだけの期間長引くかもまだ分からないし、こういうのはしっかり準備しておいた方が良いと思ったからああ言ったの! …でも、そのせいで悠斗さんにも勘違いをさせちゃったのよね…」
「まぁ…あの時はともかくとして、今は気にしてませんよ。美幸さんにとってもそれは必要なことだったんでしょうし」
だがそうした経緯があったと知れたならば、それらの過去も今となっては笑い話へと形を変じる。
同じ状況に立たされたあの時こそ訳の分からないことだらけで内心は困惑の嵐だったわけだが、そこにもしっかりとした理由があるのだと把握できれば納得するのは難しいことじゃない。
現に美幸の発言云々に関してもあちらなりに事情はあったようだし責めるつもりだって皆無だ。
「そう言ってもらえると助かるわ。けれどそうなると…持ってきた荷物もちょっと無駄になっちゃったかしら?」
「ん…? 美幸さん、何か持ち運んできたんですか?」
「………?」
一通り事の流れを確認していけばそれは十分に納得ができるもので、最初こそ様々な感情が掻き立てられたが落ち着いた今になれば冷静に振り返れるもの。
出会いは何が何やらといった様子で対面することになった美幸とさえも、こうしてテーブルを挟みながらも話せるくらいには誤解も解けたので、まさに雨降って地固まるというやつだろう。
そんなことを考えながら悠斗も軽く息を吐いていれば…不意に向こうがぽつりとつぶやいた一言に反応してしまう。
美幸の口ぶりからするに何やら手持ちの荷物をここまで運んできたような言い草だが、ここまでの動向を思い返しても彼女がそれらしき物を手にしていたような記憶はない。
彼女が今までに持っていたのは今現在も部屋の片隅に置かれている少し大きめの鞄くらいであって、それ以外には何もないので…もしや、あの中に何か入っているとでも言うのか?
そんな彼の内心に湧きあがった疑問に対する答えは…困ったような顔を浮かべていた美幸から語られた。
「あら、咲ちゃん覚えてないの? この前欲しがっていたから持ってきてあげたのよ。あの新しい水色のした──「………!?」──んむっ!?」
……が、その直後。
まさに悠斗の疑問に対する答えとして明かされかけた答えは…彼よりも数瞬早く内容を予感したらしい咲の手によって物理的に封じられていた。
…まぁ、その塞がれた内容というのがどのようなものだったのかは推して知るべし。
強いて言うなら、美幸が話そうとしていた事項が咲にとってはプライベート的なものであって…ひどく羞恥心を刺激されるような事柄だったということだ。
『…お母さん、悠斗の前でそれを言うのは禁止! 破ったらもう口は聞かない!』
「えぇ~…ちょっとくらいなら大丈夫だと思うけど?」
『駄目! …悠斗も、今のは何でも無いから』
「…大丈夫だ。何も聞こえてなかったから」
「………」
目にも止まらぬ速さというのはあのようなことを言うのだろう。
傍観していた悠斗でさえ思わずそう考えてしまう程、今の咲の動きは俊敏なんて度合いを優に超えていた。
それほどまでに今の話題を聞いてほしくなかったということでもあるのだろうから、こういった時の対応としては…自分は何も聞いていなかったと宣言しておくのが正しいはず。
状況を考えれば聞いていないなどあり得ないのでその場しのぎの嘘なことは一発でバレること間違いなしだが…咲にとってはそれでも十分だったらしい。
明らかにホッとしていることが分かるほどに深く溜め息を吐いていたので、どうやらリアクションは間違っていなかったようだ。
…一応、今のやり取りは記憶からも抹消できるように努力しておこう。
『…私は夜ご飯の準備するから行ってくる。お母さん、変なこと言ったら…許さない』
「も、もうそんな怖い顔しなくてもいいのに~…さっきのあれはちょっとした出来心なのよ?」
『だから余計に質が悪い。…悠斗、変なこと言われても信じなくていいから』
「あ、あぁ……了解した」
すると今度は咲が不意に己の席を立ち、そろそろ夕食の準備をし始めると言うのでキッチンに移動していった。
…その際に美幸へと冷徹な瞳を向けて忠告していたが、それに効果があったのかどうかは…判断が分かれるところだ。
まぁどちらにせよ、そう言い残せば向こうも彼女も気が済んだようで背後を気にしながらもいつものようにキッチンへと足を進める。
普段通りエプロンを身に纏い、長い髪をまとめ、そして…前髪を留める。
この一か月、毎日のように見ていた光景だ。
されど、それも今日の選択肢によっては…もう見れなくなってしまっていたかもしれない景色。
そう思うとこうして穏やかに過ごせているのが奇跡のようにも思えてきて、何だか不思議な気分になってくる。
「…話には聞いていたから驚きはないけれど、咲ちゃんは本当にここでいつも過ごしているのね。何だか不思議な感じだわ」
「あ、何というか…すみません。そんなつもりはありませんが、娘さんに頼りきりになってしまっていて…」
だが、悠斗がそう思っている矢先に声を掛けてくるのは…同じくこの場にいるもう一人の人物。
彼と向かい合わせになりながらも今に至るまで賑やかな雰囲気を絶やすことがなかった美幸が…ほんの少しだけ、感慨深そうな声色で呟いていた。
「いいのよ。咲ちゃんを見ていれば…あの子があんなに嬉しそうにここで過ごしているのを見れば、駄目なんて言えるわけもないわ」
「……そうですか」
そう呟きながら咲を見つめる美幸の横顔は…どこか寂しげでもあって。
しかし、頭の片隅では実の娘に訪れた小さくない変化を喜んでいるようにも見える。
真意は悠斗のような少年如きには分かるところではない。
何せそれは…本人にしか分からぬことでしかないのだから。
ゆえに悠斗は、そこへと踏み込むことは無く話題を終わらせようとして───美幸から、このようなことを問われた。
「…ねぇ、悠斗さん。咲ちゃんと関わっていて…大変だと思ったことは無い?」
「──え?」
…その時の心情は、なんと言い表したらよいのか悠斗では説明がつけられない。
そのくらいに美幸から語り掛けられた質問は予想外のもので…これまでの柔らかな雰囲気を滲ませた彼女から飛んでくるなど考えられなかったからこその驚愕。
されど彼の驚きに構うことなく、彼女は言葉を続けていく。
「ほら、自分の娘にこんなことを言うのはあれだけど咲ちゃんって…自分から喋ることはないじゃない? もちろん私たちはそれでも大切な存在に変わりはないわ。でも…悠斗さんにとって、そういう子は接するのに躊躇してしまうことがあるんじゃないか、って…」
「………」
…向こうが言いたいことは、何となく分かる。
これまで咲を誰よりも近くで見てきたことで分かった彼女の姿…その一端。
クラスメイトや里紗という友人知人が、彼女の言葉を発しないという特徴すらも魅力に変換してくる相手が彼女の周囲には多くいる。
だからこそ忘れかけそうになるが…本来あの特徴は公にするようなものではないのだ。
それこそ、あの咲の親ともなれば…娘の事情について悩んだ回数は一度や二度で収まるはずもないことは察せる。
「本当はこんなこと話すべきではないのかもだけど…昔にね。咲ちゃんが小学生の時にお友達とちょっと色々あって……それからあの子が話さなくなっちゃったの」
「…そう、だったんですね」
…咲が話せないという過去。その原因が彼女の小学生時代にあるということは里紗から断片的に聞かされていた。
だが、それ以上のことは…さしもの悠斗であっても初耳であった。
「別に悠斗さんのことを疑ったりしているわけじゃないのよ? ただ、その…私の勝手なお願いとして、あの子とはこれからも仲良くしてあげてほしいの。もちろん無理強いなんてことはしないけれど───」
「───そんなこと、言われるまでもありません」
「……悠斗さん?」
咲が無口となった要因は過去の人間関係にある。
そう明かしてくれた美幸の表情は…どことなく不安げな色を隠しきれていない。
ただ、それは至極当然の反応だ。
もし仮に今の話が事実だとするならば、咲を今のような状態へと変えたのは彼女と関わってきた者達によるもの。
内容から推察するならば…おそらくは身近な相手によるものだったのだろう。
だから美幸は、今も尚良好な関係を維持できている悠斗に頼んできた。
叶う事なら咲から理由もなく距離を離すことなく、そのまま良好な間柄でいてほしい…と。
……だが、そんな話を聞かされて………いや。
そのような話を聞かされる前から、悠斗の心など最初から決まりきっているのだ。
ゆえにこそ彼は、己の内心から即答する。
「美幸さんにとって望むような答えではないかもしれませんが、昔も今も自分にとって咲は…信頼できる隣人みたいなものです。それに俺は、あいつの無口な特徴を欠点なんて思っていない。あれは紛れもなく咲の魅力の一つだし、向こうから嫌だと言われない限りは…近くにいるつもりです」
「…! …そうなのね」
これも一つの意味では、今回の件を通じた彼の決意だったのかもしれない。
たとえ誰に何を言われようとも、それは彼にとって知ったことではなく…そもそも悠斗は他人の評価など気にも留めない。
美幸が言うように、確かに咲の姿は見る者からすれば不安要素の一因ともなり得る可能性を有している。
だが、その程度のことなど…悠斗はとっくの昔に飲み込んでいるのだ。
出会ったばかりの頃に咲へと伝えたように、悠斗は咲が言葉を発しようが無口であろうが大して気にしない。
それもまた彼女が有する魅力であるがゆえに、彼にとって彼女は昔も今も変わらず信頼できる友人だ。
そう伝えれば…美幸にとっても何か伝えられることはあったのだろうか。
「なら、不甲斐ない話だけど…これからも咲ちゃんと仲良くしてくれると嬉しいわ。悠斗さん!」
「…もちろんです」
娘の交友関係に深入りするわけにもいかず、しかし咲がこの関係を維持することで傷ついてしまわないかどうかを思案する。
その行動の一つ一つはどれもが自らの娘の身を案じるもの。
だからこそ、目の前にいる女性が放つ穏やかな微笑みは───紛れもない、『母親』のものだった。




