第六一話 まだまだ終わらない
「……あ、あの…美幸さん。今なんて…」
「うん? えぇだから…咲ちゃんがそう言うのなら、別に駄目なんて言わないわよ? もちろん悠斗さんに迷惑にならなければ、の話だけどね」
「………!?」
…美幸から返ってきたまさかの了承。
最初からこの展開を考えていた時にも、それだけは無いだろうという前提の下動いていただけに…予想が大きく外れてきたことによって否応にも動揺は避けられない。
それは彼の隣に座っていた咲も同じだったようで、見れば彼女もその顔には母の言葉に困惑の色が強く表れている。
そのリアクションも当たり前のものだ。
何せこの場所で咲がこれからも時間を過ごすことの許可など簡単に貰えないだろうと思っていた矢先に、その予想を遥かに上回って実にあっさりとした様子で許しが貰えてしまったのだから。
ありえないと思っていただけに驚愕の度合いも凄まじく、混乱するのも無理はない。
しかしながらその凄まじい混乱を生み出した張本人は彼らのリアクションの意味が分かっていないのか、コテンと首を傾げるばかりで向こうも何が何やらといった様子。
「えっと…美幸さん。一つだけいいですかね?」
「はいはい? 何かしら」
あまりにも予想外に過ぎるこの展開を前に戸惑いと困惑を隠せない時間が長く続いてしまったが、そこでも何とかわずかに平静を取り戻した悠斗が話を振りに行く。
彼が質問するのはもちろん、今まさに謎が謎を呼んでしまっている美幸の返答について。
というかそこを問いたださなければ話が前に進められないので、ここを言及するのは至極当然のことである。
「自分がこんなことを言うのは変な話ですけど…美幸さんは咲を迎えに来るためにここに来たんですよね?」
「そうね。その通りよ」
「…だったら咲がここで過ごすことを認めるのは矛盾しているのでは? いや、本当に自分が言う事じゃないですが…」
「うーん……? …あっ、そういうこと!」
しかし話を踏み込んだ領域に移していってもどこか噛み合わないというか、咲を迎えに来たはずの美幸はその事実を肯定したまま彼女がここで過ごしても良いと言う。
…どう考えても発言の内容が矛盾してしまっているこの状況。
加えてそれを美幸は大した問題もなさそうに断言してくるため、尚更どういうことだと悠斗は頭を捻ることになりかけるが…その反応を見ていた美幸が何やら思い至ったという様相で発言してきた。
「多分だけど、悠斗さんは私が咲ちゃんを迎えに来たっていうことを『家に連れて帰る』っていう意味で捉えてたんじゃない?」
「えぇ、そうですけど。…何か違うんですか?」
「やっぱりそうね。…ごめんなさい。それも間違ってはいないんだけど…ちょっと意味合いが違うの」
「………?」
両の掌を合わせながら言葉を向けてきた美幸は合点がいったという様子であったが、そんなことを言われてもまだ悠斗たちは納得がいかない。
…確かに彼女の言う通り、悠斗は美幸がこちらに戻ってきたことと言われたことで咲が元の自宅へと戻ることになったのだと解釈していた。
だが、美幸の今の言葉を切り取ってみれば…そこに認識の行き違いでもあったかのようにも捉えられる。
その答えは、他ならぬ彼女から語られるもので……何よりも、驚かされるもの。
「咲ちゃんのことなんだけれどね……実は、まだお家に帰してあげることが出来ないのよ。いえ、正確に言うと私たちの方が帰れないと言った方が正しいわね」
「……え!? ど、どういうことですか…?」
「……!?」
…美幸の口から語られたのは、言葉だけをまとめてしまえば何とも単純明快だ。
だがそこに含まれた意味を加味して考慮すれば、これ以上訳が分からない文面もそうそうないことも確かだろう。
何しろ、美幸から伝えられたのはそれまで悠斗たちが想定していた事実などとはまるで真逆。
これまで彼らが予想していた流れとしては、美幸がここにやってきたのは咲をこの家から連れて帰るため…そう思っていたというのに、その前提を根底から引っくり返されたのだ。
そんなことを聞かされて驚くなという方が無理な話というもの。
「あら、私まだ言ってなかったかしら…? 確か言ったような覚えがしたのだけど…悠斗さん、その辺りは聞いていなかった?」
「……何も聞いてないです。全く欠片も」
「あらら、だったら知らないのも無理はないわよねぇ……ちょっと説明するのを忘れちゃってたみたい!」
『………お母さん、そういう大事なことを言い忘れるのはやめてってずっと前から言ってる。どういうこと?』
「さ、咲ちゃんったらそんな怒らないで? お母さんもうっかりしてただけだから…!」
しかしどれだけ聞き返されたところでそのような話に聞き覚えなど無かった悠斗はそのように答えるしかなく、どうやら彼に伝えるべきことを何か美幸は失念していたらしい。
…すると、そんな母の有様を目の当たりにした咲が……どこか内心の怒りを必死で抑え込むようにしてプルプルと身を震わせながら彼女へと問い詰める。
明らかに怒りの感情を灯していることは明白であり、思わず横から眺めていただけの悠斗でさえも震え上がりそうになるほどの怒気を醸し出していた。
絶対零度と言っても差し支えないほどの圧を有した瞳は見ているだけで対峙した者の背筋を凍えさせ、美幸とて例外ではなかった模様。
流石に娘に直接怒られるともなるとたとえ彼女ほどの人物であってもペースを維持することは困難だったらしく、分かりやすくうろたえていた。
『…なら早く説明して。時間が惜しい』
「わ、分かったわ……咲ちゃんが反抗期になっちゃった」
「…後で俺の方からフォローしておきますので、こちらとしても詳しいことを聞かせてください、美幸さん」
いかに母親といえども抗おうとする気力を削がれていく咲の威圧感……こんな時に言う事ではないというのは重々承知であるが、正直自分に向けられたくはないと悠斗も思ってしまった。
それほどまでに凄まじい、有無を言わせない迫力だったということだ。
「え、えぇ! そうさせてもらうわね! まず二人に伝えておきたいんだけど…私とお父さんが出張に行ってたことは流石に知ってるわよね?」
「そこは咲から聞いてます。一か月の間、家を空けることになるというのも…」
「そう、言いたいことはそこなの!」
「……と、言いますと?」
しかしながらそこにばかり執着していてはまたもや話が進められなくなるどころか停滞しかねないために一旦切り替えることとして、美幸の側も咳払いを挟むと会話を切り出す。
そこで話されたのは…ある意味これまでの振り返り。
この場での事実確認とも言える行動に何の意味があるかとも思うが、その疑問も後ほど解消されるのだろうと信じてここは一度静観に徹することとした。
そうして勢いよく伝えられたのは…こんなことだ。
「…実はね、正直に言うと私の方のお仕事はもう終わっているの。ただ…お父さんの方で少し問題があったみたいでね…」
「咲の…お父さんですか?」
「そう! そっちで色々トラブルがあったみたいで、本当ならあと二日か三日で帰れたはずなんだけど…またしばらく出張先に留まらないといけなくなったって連絡が来たの。それで、私もお父さんのお手伝いをするためにすぐ戻らないといけなくなったのよ…」
「なるほど……事情はまぁ、分かりました」
話も段階的に聞いていけば納得は出来る。
要は本来であればこの数日のうちに咲の両親二人ともが帰れたはずの出張が何らかのアクシデントで長引いてしまい、その解決のために美幸も駆り出されるらしい。
今日ここに戻ってきたのは一時的な帰宅であって、比較的すぐにここを発たなければいけないとのことだ。
…つまり、端的に言えば───。
『…じゃあお母さん、私は…?』
「…そうなのよ。咲ちゃんには寂しい思いをさせることになっちゃうんだけど…またしばらくは、一人でここにいさせることになっちゃう。だから都合のいい話ではあるけど、悠斗さんのことは僥倖でもあったの」
「………!」
「…悠斗さん。勝手なことだというのは理解しているけれど、また咲ちゃんのことを……任せてもいいかしら?」
──二人の生活は、最初から最後まで終わることなど無かったということだ。
そして当然、そこへの返答は………。
「──分かっています。こちらこそ、色々咲には世話になっている立場ですが…よろしくお願いします」
「……えぇ、ありがとう」
…迷いなど無く、これからも続く共同生活への合意であった。




