第六〇話 頼み事
咲から他ならぬ彼女の本心を聞き、それに伴って悠斗も覚悟を固めた。
もう他の誰のためだとか、そんな理由で本心を押し潰しはしない。
少なくとも今だけは…自分自身の意思を何よりも優先するべき場面だと理解した。
…おそらくこれは間違っていることなんだろう。
客観的に状況を俯瞰して見ればここで悠斗は咲と縁を切ることが正解で、当初の約束を守り通すことが正しいことのはずなのだ。
でも、それは…正解であって、最善ではない。
何といわれようとも悠斗はこの判断を曲げるつもりは無く、認められることは容易ではないだろうがそれでもそのために全力を尽くす。
未だこの家を出て行ったまま姿を見せていない美幸に頼み込み、こちらに譲歩できることがあればそれら全てを飲み込んででも…この生活を続けることを認めてもらう。
厳しい条件であることは否めないし、向こうからすればようやく実の娘と再会できたというタイミングでこのような提案を易々と受け入れてもらえるなんてはなから思ってもいない。
だが、やるしかないのだ。
少なくとも咲と悠斗自身は二人ともそうすることを望んでいるのだから、これ以外の道など選ぶ意思は欠片として持っていない。
そう思って話をつけた彼らは、一度動転してしまったテンションを元に戻すためにも一息つくこととして…彼女が再び戻ってくる瞬間を今かと待つ。
そしてどれだけ時間が経ったのか。正確に数えていないために分かることでもないが、悠斗が落ち着かない時間の中で過ごしていると…不意に玄関先からインターホンが鳴り響く。
当然、このタイミングで彼の家を訪ねてくる者など一人しかいない。
念のためにと確認をすれば予想通りそこには目的通りの人物がいたために鍵を開けて招き入れ、彼らが言葉を交わしていたリビングへと案内していく。
そうすれば………。
「…ほんっとうにごめんなさいね! 突然お話を中断してしまったりして…悠斗さんにもご迷惑をおかけしちゃったでしょう?」
「気にしないでください。まぁ驚かされたのは否定できませんけど…自分の方も考えがまとめられたので」
「あら、そうなの? …って、咲ちゃん! もう帰っていたのね! 私たちがいない間にトラブルに巻き込まれたりしなかった? 大丈夫?」
「……! …~~っ!!」
「え? 『息が出来なくて苦しい』って……あっ、ごめんね? ついお母さん、久しぶりに咲ちゃんと会えてテンション上がっちゃったわ!」
「……随分仲が良さそうなことで」
…実に十数分ぶり。
変わらずスーツに身を包みながら二人の下へと姿を現したのは、独特なのほほんとした雰囲気を振りまく美女と言って差し支えない容姿を持った咲の母、美幸である。
そんな彼女は悠斗に部屋へと案内されるなり彼へと突然この場所を後にしてしまったことを律儀に謝罪し……そして、その向こう側にいた咲を見た途端。
全身から感情を露わにしたとでも言うような振る舞いで娘との再会を喜び…また、全力で彼女をその身に抱き留めていた。
…その情報だけを聞けば、単なる仲の良い親子のコミュニケーションとして解釈することも出来るだろう。
事実、美幸の方は久方ぶりに会った娘の無事な姿に喜んだからこそそうしたのだろうから。
ただ…それが双方にとって同じ結果とは限らない。
というのも、抱きしめられた側にある咲は言わずもがな身長が小柄な部類だ。
そこに背丈が平均的だと思われる美幸が彼女を抱き留めればどうなるか…結果は見ての通り。
力強く密着されたことで咲は完全に美幸の形の良い胸に顔を埋もれさせてしまっており、これまた不幸なことに両者の位置関係があるからこそ抜け出せなくなっている。
もがもがと、何とも苦しそうな呼吸音を繰り返している咲は窒息しかけている己の現状を知らせようとしているが、美幸は娘を抱きしめるのに夢中で気が付かず。
ようやっとの思いでバシバシと自らの母の肩を手で叩き、そこでようやく彼女の危機的状況に気づかれるという有様であった。
それを傍観していた悠斗も眼前で繰り広げられた親子のやり取りを前に『仲が良い』という評価を下していたものの…正直、その言葉が当てはまるかどうかは微妙なところである。
「………」
「さ、咲ちゃんごめんね? お母さんもちょっと嬉しくて舞い上がっちゃっただけだから…許して?」
『……言いたいことはいっぱいあるけど、今はそれどころじゃないから許す。お母さんに…言いたいこともあるから』
「言いたいこと? 咲ちゃんがそんなこと言うなんて珍しいわね…あっ! もしかしてさっき悠斗さんが言ってたことと関係あるのかしら!」
「…まぁそんなところですね。とりあえず美幸さんも、こっちに来てもらっていいですか? そこでお話させてください」
「えぇ、分かったわ! ここに座ればいいのね…」
咲のことを抱きしめつつ圧迫感を生み出していた美幸が娘を窒息させかけているという状況に思い至り、何とか彼女の身体から脱出を果たした直後。
咲は息も絶え絶えといった様子で美幸にジト目を送っていたが…今はそんなことをしている場合ではないと思ったのだろう。
上手くこの場の流れを彼女との会話に持って行ってくれたので、悠斗もその意図を汲み取りそれとなくリビングのテーブルへと話を移らせてもらった。
そうすれば特に断られるような様子もなくそそくさと移動してもらえたため、人知れず彼らもホッと息を吐いた。
…だが、本題はあくまでもここから。
久しぶりの親子の対面ということもあってこれまではほんわかとした雰囲気が場を包み込んでいたが、それはひとえに緊張感を表に出さないように意識していたからだ。
話題の中心点へと入る前に余計な張り詰めた空気を押し出してしまえば、美幸にもいらぬ警戒心を抱かせてしまい交渉も難航することになりかねない。
ここに至るまでに見て来た美幸の人柄を思えばそんなことはほぼありえないと分かっていても、わずかでも可能性があるのなら注意するに越したこともない。
そう考え、悠斗も咲もここまでは可能な限り自然体の様子で話題を進めてきたのだ。
しかしそれらの配慮も…ここまで来れば不要となる。
「さて! それで? お話っていうのは何の事かしら。ちょっとワクワクしてきちゃうわね~!」
「…ここで遠回しに言ったところで時間を無駄にするだけですし、単刀直入に言わせてもらいます。内容としては主に咲に関係することですが…」
「………」
「ふんふん……というと?」
全員が静かに席へと着席したことを皮切りに、相変わらず己のマイペースさを維持しながらテンションが高めの美幸へと悠斗は話を始める。
…すると、気づかぬ間に場の空気が入れ替わりでもしたのだろうか。
悠斗はいつの間にか強く握りしめていた自分の拳に意識を向け…咲も同様に、緊張からか強張ったような顔を浮かべてしまっていた。
されど、このままでは上手くいくものも上手くいかなくなってしまう。
適度な緊張感は程よいプレッシャーを人に与えてくれるが、過度な緊迫感は重荷となってしまう。
だから悠斗は、本題を切り出す前に一度胸の内へと蓄積されていた不安感を粋と共に吐き出し……ふと、隣の彼女を見た。
そうすればそこには…一体いつから見ていたのやら。
身体こそ正面を向けていながらも、今も尚隣へと腰掛ける悠斗に向けて見えるように…咲は小さな笑みを向けてくれていた。
言葉など無くとも、その顔はまるで『大丈夫だ』と彼に伝えんばかり。
…それを見てしまえば、悠斗も不思議と緊張感が消え失せる。
もう自分は大丈夫。結果がどうなろうと、今の行動を恐れることだけはないのだと言い聞かせ…とうとう話題を切り出した。
「…これは、自分の身勝手な我儘でしかありません。ただそうだとしても…言わせてほしいんです。…美幸さん、今後も咲がここで時間を過ごすことを…認めてはもらえませんか? …お願いします!」
『…お母さん、私からもお願い。私はこれからもここに居たい。お母さんたちと過ごす時間も大切だけど…悠斗の家で過ごすことを許してほしい』
「………」
いよいよ切り出された本題を前に、さしもの美幸でも即答は難しかったのだろう。
長い、長い沈黙が場を支配し…いや、実際のところはそれほど経っていないのかもしれない。
もしかしたら必死さのあまり時間の感覚が抜け落ちた悠斗たちにとって長く感じられたというだけであって、実のところ数秒だって経過していない可能性も十分にある。
…それでも、少なくとも二人にとって今までのどんな時間よりも長く思えた重苦しい静寂はいつまでも続けられたように思われ───しかし、唐突に終わりがやってくる。
当然、その静けさに終止符を打ってきたのは今まさに口を開こうとしている美幸その人。
一体どのような答えを返そうとしているのか。
内容によってはとてつもない苦境に追い込まれることが確定する瞬間を目前に、思わず悠斗も掌を握りしめそうになって………。
…次の瞬間、美幸がその言葉を放ってくる。
「──えぇ、いいわよ?」
「………えっ?」
「………?」
──その瞬間、悠斗の意識を支配したのは少しの困惑と空白。
場の流れや雰囲気、緊迫しきった空気とは裏腹に何ともあっさりとした声色で戻ってきた返事は…明確な了承であった。




