第五九話 見据えたい選択
それまで部屋の中にいた美幸と入れ替わるようにして帰ってきた咲の姿。
ある意味タイミングが良かったとも悪かったとも捉えられるが…あいにく今の悠斗にそこを気にかける余裕はない。
そんなことよりも今は、焦ったような表情を浮かべて戻ってきた彼女の方にこそ意識が集中していたから。
…ここから先、この家に訪れることも少なくなるだろう彼女に何か言葉を投げかけようとして───咲の方が早く言葉をぶつけてくる。
『…悠斗、お母さんから帰ってきたって連絡がきた。も、もう帰って来るって…!』
「え? …あぁ、そっちにも連絡が行ってたんだな」
「……? …!」
慌てたような素振りを全開にしつつも咲が向けてきた文字列に一瞬悠斗も首を傾けかけるが、つい先ほど聞いたばかりの話を合わせればそれほど驚きもない。
彼女が言っているのはほぼ間違いなく美幸の件であり、それを悠斗にも知らせようとするために慌ててここまで帰ってきたわけだ。
美幸との会話中にもそれとなく聞いていたが…向こうは咲にも自分が帰る旨の連絡をしていたと話していた。
不幸なことに悠斗とは情報の行き違いもあり伝達されていなかったわけだが、咲の方はおそらく帰り道の道中でそれに気づいたのだろう。
そして、そこから連想される事柄についても…同様か。
しかし急いで帰ってきてくれたのに申し訳なくもあるが、残念なことに彼の方は既に詳しいことを把握してしまっている。
だから彼女が帰ってきた途端、焦ったような表情を浮かべる様子を見ておおよその事態を把握し苦笑を浮かべて…その動向だけで向こうにもここまでの流れは理解されたのだろう。
『悠斗…も、もしかして…』
「…あぁ、さっき会ったよ。咲の母親…美幸さんにな。大体の話も聞いてる」
「……!?」
恐る恐るといったように、されど真実を確認してしまうのが怖いと言わんばかりに投げかけられてきた問いの続きは…言わずとも分かってしまう。
彼女が質問してきた言葉の内容は、おそらく…というよりほぼ確実にこのことだ。
よって悠斗もその意図を汲み取りながら美幸と──彼女の母と会ったという事実と、大まかな事情は既に聞いているという事実を告げた。
それを聞かされた咲の方はというと、彼からもたらされた情報に思うところも多々あったのだろう。
瞳を大きく見開きながら衝撃を受けたかのような反応をする咲の姿は、見るからにショックを受けているのだということが何よりも如実に伝わってくる。
「美幸さん、仕事が早く終わったからこっちに戻ってきたんだとさ。それでここに来て…咲を迎えに来たんだよ」
「………!」
だがたとえ彼女が混乱の最中にあるこの瞬間であっても、悠斗は言葉を止めるわけにはいかない。
現状を整理するためという意味でも、この後に言わなければならない言葉を伝えるための準備という意味でも…起こった事実は嘘偽りなく報告しておかなければならないから。
「正直俺も驚いたし…今でも実感が湧かないって感じがしてる。でも、あれに関しては目を逸らすわけにもいかないからな」
『じゃ、じゃあ……』
「……あぁ。多分、ここで俺たちの生活はおしまいだ」
「……!?」
…こんなこと、言いたくもないし悠斗とて胸が痛む。
始めは一つ行動を起こすたびに右往左往として、やっと咲と過ごす時間にも慣れたと思って…ようやくそこまで来れたところにこれなのだ。
いつか来ると理解はしていても、実際に直面すれば否応にも心の内は掻き乱される。
それほどまでに悠斗も知らず知らずの間にこの生活をかけがえのないものだと自覚していたということであり…自覚するにはそれが遅すぎた。
だが、もうこうなってしまった以上はどうしようもないのだ。
いくら彼ら二人がこの現状をどう思っていたとしても、約束の期限が来てしまったからにはかねてより決めていた道筋を辿るしかない。
だから彼は、なるべく内心の痛みを悟られないように平静を装いながら咲に言葉を告げた。
すなわち…暗に示された別れの言葉を。
──この選択に悔いが無いのかと問われれば、きっと悠斗は即座に否定するだろう。
そんなの答えなんて決まり切っている。無いわけがないと。
だってそうだろう。
どれだけ本心を隠し通そうとしたところで、本音に蓋をしようとしたところで…一度自覚してしまった感情は容易に忘れられるものではないのだから。
…しかし、それを咲に伝えることは許されないことだ。
今まで彼女と時間を共にしてきて、全てとは言わずとも咲の人となりは大まかに理解できている自負が彼にはある。
ゆえにこそ…もし、仮に、万が一。
ここで悠斗が『この生活を続けよう』、だなんて言葉を口にしてしまえば…きっと彼女はその提案を受け入れてくれることだろう。
…自分が元の生活へと戻れる道を放棄してまで、だ。
それだけは悠斗がやってはいけないことだ。
何せ、今の生活を続けたいというのはあくまでも彼一人の我儘でしかない。
加えてまだ本人に確認を取ったわけではないが…咲だって元の生活に戻りたいと、少なからず考えているはずなのだ。
…美幸と対峙して、悠斗は強く痛感させられた。
初めてあの母親と対面した時、彼女が浮かべていた感情には…自身の娘への愛情が際限なく浮かび上がっていたから。
あぁ、この人は本当に咲のことを心の底から大切に思っているのだと…この人こそが咲にとっての家族なのだと。そう実感させられた。
だから悠斗は…自分のような部外者がこれ以上関わっていては、彼女の幸せを縛り付けることになりかねないということに思い至ってしまった。
…そこからの考えは早かった。
自分のやっていることが彼女を拘束してしまうのは彼にとっても望むことではない。
この選択肢を選ぶことで、己が後悔することは目に見えていたが…それでも彼女のことを真に思うのであれば悩むことでも無かった。
そう判断したからこそ、悠斗は咲が出来る限り気に病んでしまわぬようにとそれとなく別れを告げる道を選び───。
「………っ!」
「…お、おい!? …ど、どうしたんだよ。咲」
──悠斗から向けられた言葉を聞いたことで、その瞳に大きな涙の粒を浮かべながら力強く抱き着いてきた咲の行動に今度は困惑させられることとなった。
…そう。彼女が…咲が、その瞳から涙を流している。
これまで彼女がムッとしながら拗ねていたり、気恥ずかし気に微笑む様を見たことがある悠斗であっても…初めて目にする明確な彼女の泣き顔。
あまりにも想定外が過ぎるその動きに、流石の彼もそれまでの内心で渦巻いていたネガティブな思考は全て吹っ飛んでしまう。
だが、自らの身体へと抱き着いてきた彼女の言葉は…そんな彼の困惑など容易く打ち破るくらいに衝撃的なもの。
『…悠斗は、私といるのが嫌になった? もう私となんていられないって思ってる?』
「…っ。…そんなわけないだろ。咲のことは…一緒に過ごしてて居心地のいい相手だと思ってるよ。でも、こればかりは話が違う。咲だって本当の家族のところに戻った方が幸せなはずだ。…そうするべきなんだよ」
どうしてか大粒の涙を流しながら咲が訴えかけてきたのは、もう悠斗が自分と過ごすのが嫌になったのではないかという旨の内容。
暗にこれ以上は二人で過ごせないと、ここから先は関わることも無くなると告げられて…不安に染まってしまったのだろう彼女の偽らざる内心であった。
無論、悠斗の立場からすれば断じてそのようなことは無い。
彼が己の心の内を苦しめながらも口にした言葉は全てが咲のためを思ったからこそ出たものであって…決して彼女のことを疎ましく思ったからなどではない。
実際に口にはしていなくとも、そう思ったことに嘘はない。それだけは確かだ。
──それゆえに、悠斗には分からなかった。予想出来ていなかった。
咲のためだと、彼女のことを思うのであれば自分はそうするべきだと本心に蓋をして…目を逸らして。
そうやって本音を遠ざけてきた悠斗には、まさか咲がこのようなことを言ってくるなど…想像する方が無理だという話だった。
『…私は、そんなこと望んでない! 私は……悠斗と一緒にいたい! …悠斗は、違う?』
「え……?」
──それは傍から見れば、ただ画面に表示されただけの文字列。
されどそこには確かに眼前に佇む少女の感情が込められているようで…その言葉に嘘が無いことなど手に取るように伝わってきて。
咲もまた、悠斗と一緒の時間を共有していたいのだということを何よりも強い感情を露わにしながら叫んできていたのだ。
「…どうしてだ? 咲にとっても美幸さんの迎えに応じた方が良いのは明らかなはずだ。なのに何でそこまで……俺に…」
『……確かに、お母さんとお父さんが戻ってきてくれるのは嬉しい。でもそれは…少し前までの話』
「…前の?」
往生際が悪いと思われるかもしれない。ここまで来て女々しいと揶揄されるかもしれない。
だが、周りからどう思われようとも今の悠斗には関係なく…ただ彼の胸中には純粋な疑問だけが残されていた。
それこそ、何故咲はここまで自分との繋がりに拘ってくれているのか……と。
どれだけ考えても答えなんて出てくるわけもない疑問のみが彼の意識でぐるぐると巡り続け、尽きることのない問いだけが新たに生まれていく。
どう考えても咲はここで美幸の迎えを受け入れるべきであり、悠斗などという単なる一部外者との縁など手放してしまえばよい。
そのようにしない理由はどうしてなのかと考え続けて……全身を悲しさで身を震わせる咲の答えを目の当たりにする。
『私にとって、悠斗は大切な人。一番仲が良い人。…だから、離れてほしくない。これでおしまいなんて言われたら…悲しくて、泣いちゃう』
「……っ!」
──だからこそ、その一言は今の彼にとって致命的なものだった。
大きな瞳から溢れていく涙を拭きとりながらも絶対に目を離すまいと視線を直視し続け、そこから感じ取れる意思の強さを思わせる言葉を聞いてしまえば…悠斗も言い逃れなんて出来るわけが無くなる。
…もう、本心から逃げることなど出来なくなってしまう。
『だから悠斗とは、まだ一緒にいたい。悠斗は…そうじゃない?』
「……馬鹿。んなわけないだろ? 悪い、咲。俺も今まで…ちょっと嘘をついてた」
「………?」
ここまで彼女に言わせておきながら、今更悠斗だけが延々と言い訳をするだなんて情けない真似をするつもりはない。
…咲の口からこれ以上なく明確に、彼女にとって自分がどういう立ち位置にいるのかを聞いて…覚悟も固められた。
ゆえにこそ、自分のせいで咲を泣かせてしまったことを申し訳なく思いながら抱き着いてきている彼女の頭を優しく撫で…彼も久しくしていなかった苦笑を浮かべる。
そんな中で彼女へと伝えるのはある種の意思表明。
「さっきまで咲が言ってくれたこと……俺も同じだ。今更って思われるかもしれないけど、俺も…咲にまだここに居てほしいって思ってる」
「………!」
もうあれこれと悩むことは無い。迷いは咲のおかげで断ち切れた。
彼女のためだとか、こうした方が皆にとって良いからだとか…そんなうじうじとした思考に惑わされるのではない。
最初から最後まで単純でいいのだ。
ただ、悠斗が咲と共にいる時間をまだ共有していたいから……理由なんてそれだけで良かったのだ。
自分たちの心落ち着く時間を、日常を続けたいから…誤魔化せるはずもない本心に素直になった。分かってしまえば答えは単純明快なのだから。
「許してもらえるかなんて分からないし、認めてもらえない可能性の方が高いとは思う。でも、俺の方からも美幸さんに頼んでみるよ。…咲がここで過ごすことを許可してくれ、ってな」
「………」
「…だから、ほら。もう泣くのは勘弁してくれ。目元が真っ赤になっちまうぞ?」
『……うん。それがいい。悠斗も同じって言ってくれて…嬉しかった』
「そうか……なら、ここからだな」
そうしていれば、撫でる掌から彼の意思も伝わったのだろうか。
それまでは涙を溢れさせて悠斗へと抱き着いてきていた咲も、彼から自身の髪をふわりと傷つけないように触れられながら語られた言葉を聞いて…安堵したように微笑みを返してくれた。
…まだこの現状が改善したわけではない。問題は山積みのままだ。
しかしそれでも、不思議といつも見せてくれていた咲の笑みを見てしまえば…悠斗の中に巣くっていたはずの不安や恐れなど瞬く間に消え去ってしまう。
きっとそれはひとえに、彼らの間に積み重ねられてきた信頼感があるからこそ。
流されていた咲の涙を悠斗がそっと指で拭き取りながら、彼女を安心させるために口にした言葉。
だがそれらは今に至るまでに出してきた言葉とは全く意味合いの異なるもの。
もう迷わないと、自分がやるべきことを…やりたいことを見据えた悠斗が口にした言葉には、咲をも思わず安心させきってしまうような力が込められていたことだけは…確かな事実なのだろう。




