第五八話 別れの前兆
「まさか咲ちゃんとの間に何も無かったなんて…これは予想外だったわぁ…」
「えぇと…美幸さん。今度はこっちからいいですかね?」
「あ、はいはい? 何かしら!」
依然としてこの場の空気を飲み込みつつある美幸は何かショックを受けたようにぶつぶつと独り言を呟いていたが、悠斗から話しかければ意識はこちらに戻ってきたようだ。
朗らかな笑みを浮かべて言葉を返してくる彼女の姿からは、彼の胸中にある複雑な感情と…この現状に対する疑問もさほど気にしているといった雰囲気は感じられない。
「自分も咲から聞いた範囲の話になるんですが、美幸さん達は確か…仕事で遠方に行かれていたんですよね?」
「えぇ、そうね。だから咲ちゃんを一人残していくのは心配だったし案の定トラブルがあったみたいだけど……悠斗さんがあの子を助けてくれたって聞いて、本当に感謝してるわ!」
「…そこに関しては、礼を言われるようなことじゃないです。自己満足みたいなものですから。ただこっちが聞きたいのは…美幸さんが帰ってくるのはもう少し先のことだったはずでは?」
…そう、これこそが悠斗が抱えていた最大の疑問。
美幸がここへとやってきた瞬間から感じ…そして、まだここにいるはずもない人物が戻った事への問いかけである。
悠斗も言っていたが、以前咲から聞いた話では彼女の両親は出張のために一か月家を空けるとのことだった。
だから彼女の親が帰ってくるまでの間は咲が悠斗の家で時間を過ごし、その代わりとして彼の夕食を作る。
そういう約束だった。
だが、今……美幸がここにいるのはどう考えてもおかしい。
何せ二人の共同生活が始まってから、今に至るまでの時間を総合して考えれば…まだ一か月は経っていないのだから。
正確に計算をすれば彼女の両親が帰るまでにはあと数日の猶予があるはずで、実際に咲からもそう聞かされていた。
ゆえにこそ…このサプライズじみた美幸の訪問に心底驚かされたのだ。
だがしかし、そんな彼の問いにも美幸は何てことも無さげに答えを教えてくれる。
「あっ、そのことね! …咲ちゃんに連絡しておいたはずだけど、直前だから行き違いになっちゃったのかしら?」
「と、いうと…?」
「簡単に言っちゃうと、私の方のお仕事は早い段階で終わったから一旦先に戻ることになったのね。だからこうして咲ちゃんのお迎えに来たというわけ!」
「……っ!」
…戻ってきた返答には、複雑な事情も経緯もない。
美幸の口から語られた答えは至極単純で、端的に言ってしまえば彼女の仕事が早期に一段落したためにこうしてやってこれたとのこと。
要するに……咲を元の暮らしへと迎えに来させるために。
それは何よりも強く、悠斗と咲の生活が終わってしまうことを示していた。
「…あの、それは今すぐでないと駄目ですかね?」
「うん? どういうこと?」
だが、これに関しては悠斗も…自分で自分がどうしてこんなことを口走ったのかは分からない。
咲の実の母である美幸がやってきて、突然すぎる事態に困惑していたからか…はたまた別の理由があったからなのかは不明だ。
けれど、どうしてもここで咲との繋がりが途絶えてしまうことを恐れたのは誤魔化しようもない事実である。
だからこそ、こんな未練がましくも。
彼女をここに引き留めるような言動を繰り返してしまったのだろう。
それが失敗であったと悟るのはそう遠くないことの話だ。
「その…咲も今すぐにというのは混乱するでしょうし、あいつにも説明をしてからだったら…」
「うーん……私もそうしたいのは山々なんだけれど、咲ちゃんには一回すぐに帰ってもらわないと困っちゃうことになるのよね。だから悠斗さんには申し訳ないけど…」
「…っ、そうですよね。すみません、差し出がましいことを言って」
「こっちこそごめんなさいね。それにあまり時間も無いから───あら?」
正直、今の発言は一見咲のことを案じたように見せかけた悠斗の我儘に過ぎなかった。
口では彼女を混乱させないためだ何だと言っていようとも、結局その中身は…本人が自覚しているかどうかは別として、異なる意図があったことは明白なのだから。
そのような卑しき意味を内包した言葉に力などあるわけもなく、当然美幸にも認められず…突如としてその場に響き渡った電話を告げるコール音に彼女の目は向かった。
「…あっ、会社の方からみたいだわ! 悠斗さん、ちょっと席を外させてもらってもいいかしら? 出来るだけすぐ戻ってくるから…お話の続きはその後でも大丈夫?」
「は、はい……大丈夫です。こっちのことは気にしないでください」
「本当にごめんなさい! 少しだけお暇させてもらうわね!」
どうやらこのタイミングでかかってきた電話は美幸の勤め先でもある会社からのものだったようで、おそらくは向こうの仕事関係で何か伝達事項があったのだろう。
そういうことなら悠斗としても無理に引き留めるわけにはいかず、一旦話は中断ということで美幸は申し訳なさを全開にしつつもそのままの勢いに彼の家を一時後にした。
……残された部屋の中で、これからのことを思う悠斗は頭を抱えたまま。
◆
──理解はしていたし、分かり切っていたことだ。
「…いつかは、こうなるって分かってたはずなのにな。何で今更…」
美幸が立ち去った後の部屋にただ一人取り残された悠斗であったが、現在の彼の胸中を占める大半の感情は…疑いようもないくらいに強烈な動揺。
加えて、こんな状況に至って初めて気が付いた己の本心だった。
…決して忘れていたわけじゃないし、今日までそうなる可能性は常にあるのだと頭の片隅にその認識があった。
何せ本来、今まで続けられてきた彼らの関係性は…その大元を辿ってみれば咲の親が帰ってくるまでの期間を共に過ごすという内容の約束だったのだから。
ゆえにこそ、こうして偶発的な出会いだったとは言っても美幸がこちらへと戻ってきた以上、もう二人が同じ家で過ごす理由は消滅する。
それは同時に、もう悠斗と咲が関わるだけの言い分が消えることも意味していた。
…最初にその事実に思い至った瞬間、悠斗は間違いなく動揺させられた。
情けない話だ。
あれだけ始めの頃は咲と何があるわけでもないと考えていたというのに、それが今となっては彼女に心を許すまでに至り…そして、引き剥がされることを惜しいと思ってしまっている自分がいる。
ただ、それをどうにかしようとしたところで無駄だというのも重々承知の上。
「受け入れるしかない、よな……元々これは無かったものだったんだ。だから今更咲との繋がりが無くなっても、今まで通りになるだけだ。…あいつだって、それを望むはずだ」
悠斗一人の身勝手な主張を口にしてしまえば、この関係が途絶えることを惜しむ気持ちは確かにある。そこは否定できない。
しかし…それは全て彼個人の勝手な我儘に過ぎない。
思い返せば答えなんてとっくに出ているはずなのだ。
咲とて、この一か月のように悠斗と時間を共にするよりも元の家で家族と過ごした方が良いに決まっているし、彼女のことを思うのなら身を引くべきだ。
……この胸の内で痛む情感になど惑わされず、そうするのが今の彼に出来る唯一の選択肢。
怒涛の展開によって起こった出来事の数々を前に、さしもの悠斗であっても自分がやるべきことは理性で判断出来ている。
迷うべきではなく、きっと彼がそうすることを…咲だって望んでいるはずだ。
もとより交わしていた約束を違えてまで彼と過ごすことをあの少女は望まないだろうし、自分たちの関係はどれだけ親密だろうとただの友人でしかないのだから己が彼女の道を狭めることなどあってはならない。
ゆえに悠斗は、そうしなければならないと意識下で覚悟を固めて………。
──だからこそ、廊下から伝わってくる小さな足音には気が付けなかった。
リビングの扉越しに響くパタパタという床を擦るような足音。
それはゆっくりと、しかしどこか焦りを持ったような意識を感じさせるペースでリビングへと近づき……そして、思い切り扉を開け放つ。
「………っ!?」
「──咲?」
そこに現れたのは、もはや見慣れ切った少女の姿。
どうしてか息を切らせながらもその手には買い物に行ってきた事が窺える袋を下げ、この現状における当事者の一人──咲がやってきたのだった。




