第五六話 生活の終わり
──何てこともない、ある日の昼下がり。
「…うん、美味い」
静まり返ったリビングの中で一人佇んでいた悠斗は、自分以外に誰もいない状況下でぽつりと独り言を呟く。
今の彼はソファへと腰掛けながらこの前咲から貰ったばかりのチョコブラウニーを味わっている真っ最中であり、これはここ最近の日課でもあった。
というのも…あの時は咲からああいった形でプレゼントを貰えたことの嬉しさから考えが至っていなかったが、いざ冷静に見てみると受け取ったスイーツはかなりの量があるのだ。
端的に言ってしまえばこの数日間、ちょこちょこと食べているというのにまだ半分も消費できていない。
…もちろん、咲からこれを貰えたこと自体は嬉しいし迷惑だなんてことは微塵も思っていない。それは断言できる。
しかし、こうも量が多いとなるとそれ相応の苦労もあるわけで…悠斗一人では全て消費するのにはあと数日は要するに違いない。
「…まぁ、少しずつ食べていけばいいだけだな。保存も出来ないことはないし、気長に食べさせてもらおう」
だがそれは特に大した問題でもなく、しっかり保存しておけば日持ちもさせられるのでのんびりと味わわせてもらえばいい。
幸いそれだけの日数はあるため、咲から貰ったこれはありがたく感謝して今後も楽しませてもらう。
「にしても咲のやつ、今日は帰るの遅いな……買い物に行ってくるって言ってたし、こんなもんだろうけどさ」
それに現在の状況と照らし合わせて考えれば意識を向けるべき点はむしろそこではなく、今も尚この場にはいない少女へと焦点が当たる。
悠斗も思わず口からこぼしていたことだが、今のここに咲の姿はない。
されどそれは特筆して何かトラブルがあったというわけではなく、単に今日が彼女の買い出し担当日であるためそのための買い物に行っているという事情があるだけ。
悠斗が持つ咲の連絡先にも、帰る途中でスーパーに寄っていくから少し遅くなるという旨の報告は受けているので心配もしていない。
…強いて言うならば静けさに満ちた我が家の状況にどことなく違和感を覚えてしまい、どこか落ち着かない気分になっている程度のことだ。
「ま、それだけ咲がいることが当たり前になってるってことか。…咲に聞かれたら揶揄われそうだな」
悠斗の家にあの無口ではあれど感情表現が豊かに過ぎる少女がいて、穏やかではありつつも確かな温かみを感じさせる時間を共有する。
最初は驚きと困惑が入り混じり、同級生とは言っても女子と一つ屋根の下を共にすることなど考えられないと思っていたというのに、人の適応能力は末恐ろしい。
もはや咲がいなかった頃は自分がどう生活をしていたのかを思い出すことすら困難であり、どこからどう見ても悠斗が咲に心開いているのは自明の理である。
…万が一にも咲にそれを伝えたりすれば、やたらと嬉しそうなオーラとニヨニヨとした笑み満載で揶揄われること間違いなしなのでこれは彼だけの秘密だが。
まぁこんな柄ではない思考が巡ってしまうのも、久方ぶりに悠斗一人だけで家の中にいるからだろう。
今までは大半の時間を咲が近くにいる中で時間を過ごしてきたため、彼女がいなくなると途端に違和感を覚えてしまうだけだ。
「…これ以上は止めておこう。女々しくなったところで情けないだけで───ん、何だ?」
──そして悠斗がそんな情けない思考へと意識がシフトしかけている時に、突然家のインターホンが鳴らされた。
彼の自宅へと訪れてきた来訪者の存在を告げる音。
もしや咲が帰ってきたのかと悠斗も一瞬頭に浮かべて…その可能性はありえないと即座に否定する。
何故ならば咲に限ってはこの家の合鍵を所有しているために、わざわざインターホンを鳴らしてまでするだけの理由がないからだ。
既にこの家へと自由に出入りする権利も渡している今となっては向こうも遠慮することなく上がり込むのでインターホンなど久しく鳴らされていないのだ。
よって、あの先にいるのは彼女ではない。それは確かとなった。
…だが、どうしてだろうか。
これは何の根拠もなく、単なる悠斗の直感に過ぎない虫の予感だ。
しかしどうしても…あのインターホンの向こう側に待ち受けていることに、理由も定かではない嫌な予感を覚えてならなかった。
「………よし」
それでも居留守を決め込むという選択肢も選べない。
もし仮に、万が一にもこの来訪が急を要するものであれば取り返しのつかない事態にもなりかねず、よもやすればただ宅配便か何かが来ただけという線もまだ残っている。
…薄氷ですらない淡い希望というのは誰よりも悠斗が無意識下で自覚していることだが、たとえそうだとしてもその可能性に賭けるしかないのだ。
だから悠斗はいつの間にやら緊張のせいか強張っていた身体をソファから立ち上がらせ、不穏な気配の元凶でもあるインターホンの傍へと赴き…そこに映されていたモニターを見た。
そして、表示されたモニター映像の先に立っていたのは……一人の女性だ。
あくまで映像越しであるため断定はまだ出来ないが、濃紺色のショートボブの髪を揺らしながら覗いてくる顔は大人らしさを思わせながらも愛嬌を感じさせる整ったもの。
加えてスーツを身に纏っているからか印象としてはキャリアウーマンといった様相であり、間違いなく悠斗はこの人物とは初対面のはず。
……いや、初対面どころか記憶にも残っていない人物のはずなのだが…どことなく、見覚えがあるようにも思える。
その違和感がどこからやってくるのかは想像もつかないが、いずれにしてもただの来客というわけではなさそうだ。
「…あの、どちら様ですか?」
『あっ、突然すみませんねぇ! 確認させていただきたいんですけど…ここは水上さんのお宅で合っていますか?』
「はぁ…その通りですが、何か御用ですかね?」
インターホンの通話ボタンを押し、外部との会話が出来るようにすればそこから響いてくるのは柔らかくも穏やかな印象を与えてくる声音。
…だが、向こうから届くのはそんな明るい声だというのに…それに比例して高まっていくのは、悠斗の胸騒ぎにも近い嫌な予感。
根拠は何もなく、これから何が起こるのかさえ分かっていないというのにざわつく胸中が何を暗示しているのかは…皮肉にも今から判明することだ。
『なら良かったわ! あ、それと娘から聞いているかもですけど…私は美幸と言います。ご存じかしらね?』
「いえ、そちらとはお会いしたこともないはずですが……ん、娘…?」
画面越しに両の掌を合わせ、唐突な自己紹介を挟んできた美幸と名乗った女性。
だがそう名乗られたところで悠斗と互いに面識がないという事実は変わらず、まるで以前からの知り合いのように語り掛けてくる向こうの姿には疑問を抱いてしまう。
……が、そんな中で美幸という女性から飛ばされてきた娘という言葉に引っ掛かりを覚えた。
『あら、もしかしたら聞いていなかった? てっきり知っているものだとばかり…』
「あの…失礼は承知なんですが、もしかしてあなたって───」
どうやら向こうにしても認識の行き違いか何かがあったのか、首を傾げて自分のことを知らなかった悠斗のリアクションも想定外だったようだ。
多少困惑するような素振りを見せて状況を飲み込むようにし…ふむふむと考え込んでいる。
…それでも、悠斗はそんな反応を前にして一つの可能性が浮かび上がってきてしまう。
モニター越しに佇む女性が口にした、娘という一言。
本来ならここにいるのは悠斗だけという環境で、そんな言葉を口にしてくる人物がいるとすれば…それが指し示す意味はたった一つしかない。
『うーん……そうなると、私がここにいる意味も伝わってないのかしら? だとしたらごめんなさいね。久しぶりに帰ってきたからテンションも上がっちゃったみたいだわ! それで、用件の方だけれど───』
しかし今まさに困惑の只中にある悠斗の感情などよそに、眼前の女性は言葉を続けてくる。
そうして放たれた言葉は……積み重ねられた疑問など容易く吹き飛ばしうるほどに突然のもので。
『──咲ちゃんをお迎えに来ました!』
──満面の笑みを浮かべられながら告げられた一言は、彼らの生活の終わりを何よりも雄弁に物語っていた。




