第五四話 程よい甘み
……心底疲れた。今の悠斗の心情を表すのであればまさにその一言に尽きる。
(いやはや…まさかあそこまで問い詰められるとは思ってなかった。里紗もこっちを疑いすぎじゃないか…?)
ソファにてようやく里紗の詰め寄りから解放されたことの疲弊感から項垂れてしまいそうになるが、その一方で用件を済ませた里紗は咲と一緒に既にキッチンでお菓子作りに励んでいる。
…それにしても、本当に体力を消耗させられた。
聞かれたことと問い詰められたことといえばひたすらについこの間の外出に関してであり、とにかくその内容を深掘りされまくる始末。
誇張抜きに二人で出かけた際の顛末を最初から最後まで明かすこととなった上に、一つ話題を進めるごとに里紗が大げさに反応を返してくるのだから対応にも手を焼かされる。
特に咲へとヘアピンを贈ったことに話が差し掛かったところは今思い出しても苛烈な感情を爆発させていたものだ。
具体的にその時の里紗の言葉を再現してみると、『く…っ! こうなったら、今度私も咲に何かプレゼントするしかないわね。アクセサリー……ペアリング…ッ!?』といった感じになる。
なので今後、もしかすれば咲は里紗からのプレゼント爆撃を味わうことになるやもしれない。
(…それに、サラッと言われたけど学校のやつらにも見られてたんだよな。一応そこも考えてなかったわけではないけど…特定まではされなかったのは不幸中の幸いだな)
そしてこれは…ある意味目前の里紗よりも悠斗にとっては重要な情報だったかもしれない。
というのも、彼女から非常にサラリと告げられたことゆえに耳に入ったばかりの時点では何かを思うことも無かったが…何とあの日の事が同級生に目撃されていたらしい。
聞いた限りでは、悠斗も所属するクラスの中で『咲が見知らぬ相手と出かけていた』という噂が流されていたようで、おそらくあの人混みの中で誰かに見られてしまったのだろう。
されど救いだったのは、咲と出かけていた人物と悠斗が紐づけされなかったことである。
…これも特に意図したわけではなく偶然噛み合っただけでしかないが、あの時の悠斗は普段の装いとは異なり髪をかき上げていた。
それによって日頃の地味なイメージは払拭され、それなりに爽やかな印象で出歩いていたことで悠斗とは別人だとでも思われたのだろう。
そもそも彼の場合、学校では特別距離を近くして付き合っている者もそう多くはないので結び付けられることもあるまい。
まぁ咲の方は噂が飛び交ってしまったからかいつもより注目の視線が集中していたようだったが…直接確かめるような勇気を持った者までは現れなかったようなのでそれも誤差の範囲といったところか。
結論、一部の生徒の間では関係を疑われているものの咲と悠斗を繋ぐだけの証拠はないため気にせずとも問題はない。
学校で下手に関わりを持てば怪しまれるだろうが、逆に言えばそれさえ留意していたら今後もリスクは回避が可能ということだ。
よって、そう締めた悠斗は未だ身体に蓄積している疲れを癒すためにもソファに体重を預けながら…我が家のキッチンにて楽し気に調理をしている女子二人の姿を視界に収める。
「咲ー? これってもうオーブンに入れちゃっても大丈夫?」
「………」
「あら、もう入れてくれてたのね。ありがと!」
ワイワイとした盛り上がりを感じさせる声を響かせている里紗と、声は聞こえず背丈の小ささゆえに姿はあまり確認出来ないがそこにいるだろう咲のコンビも作業は順調なようだ。
いつの間にか甘い香りが漂い始めているリビングにいる悠斗にもその事実が伝わってくるため、この分ならそう時間を待たずとも良い区切りを迎えるはずだ。
(…とりあえず、向こうが一段落するまでは俺も適当に過ごしてるか)
それならば悠斗の方も、彼女らの邪魔をするつもりは毛頭ないのでここからは好きにさせてもらう。
どうせあちらの動きを気にしていたところで彼に出来ることなどあるわけもなく、それどころか向こうの気を散らしてしまったりなどすれば咲と里紗の妨害にもなりかねないので大人しくしておくに限る。
なのでここは悠斗も自分の携帯を手に取るとやることも無い時間の暇を潰すためにも、漫然とした感情で画面を動かしていった。
悠斗が自分の世界に没頭し始めてから数十分後。
もはやこの場に咲と里紗がいることすら半ば忘れかけ始め、暇つぶしになるものがないかとあてもなく探していた頃。
「……ん? 咲か、どうした」
「………」
不意に背後から背中をつつかれるような感触がしたために振り返ってみれば、そこにはいつの間にやらエプロンも外していつもの装いに戻っていた咲が立っている。
しかしその表情からは何を言いたいのか読み取れず、彼女自身も言い出すのを躊躇しているような空気が感じられた。
『…これ、私たちで作ってたお菓子。よかったら味見してみてほしい』
「え、いいのか?」
『もちろん。できれば感想も教えて』
「そりゃ当然言うけど…って、おぉ。これはまた凄いな…!」
だがいつまでも話題を進めないわけにもいかないと思ったのか、おずおずと示された文字と共に悠斗へと差し出されたのは一つの皿。
そしてそこに乗せられた……小さく切り分けられたチョコレートケーキのようなスイーツだった。
サイズはそこまで大きなものではないが、見ただけで分かるそのフォルムは素晴らしいの一言。
黒く彩られた全体像と少量のまぶされているナッツと思われるトッピングによって食べずとも美味を予感させてくるし、何よりも漂ってくる香りからして最高のクオリティは間違いない。
「これって…ガトーショコラってやつか? 合ってるか分かんないけど…」
『ちょっと違う。これはチョコブラウニーだから、フォークを使わないでも食べられる』
「へぇ、そうなのか…早速食べさせてもらってもいいか? 正直美味そう過ぎて、我慢の限界なんだ」
「………!」
パッと見の印象から悠斗は彼の知識内にある情報と照らし合わせ、これはガトーショコラではないかと予想したが…残念ながら外れ。
咲が提示した答えを聞けばこのスイーツはチョコブラウニーとのことだったので、少し予想を外して恥ずかしくもなりそうになる。
…しかしそれ以上に、味見という役割であっても咲が作ったスイーツともなれば彼が食らいつくのを耐えるのはそろそろ限界も近い。
こうして目の前に出されているだけでもすぐさまかぶりつきたくなる様相を呈しているチョコレートを用いたスイーツ。
念のためにと咲にも食べていいか否かの確認を取ってみれば強く頷き返されたため、出来る限り冷静であることを意識しながら口へと運び───その瞬間、悠斗は強く感動した。
「…! 美味いな、これ…!」
「………!」
自身の口へと運び入れた瞬間、彼が感じ取ったのは口いっぱいに広がった強いチョコレートの風味だ。
生地の外側はサクッと、されど内側はしっとりとした食感を実現させている中で感じられる確かな甘み。
…だが、それもただ甘いというわけではない。
バランスがちょうどいいと言うべきか、チョコレートの中にある甘みと苦味の塩梅が絶妙なところで調整されているので、実を言うと甘すぎるものは苦手な傾向にある悠斗でもこれはいくらでも食べられてしまいそうだと思うくらいに美味であった。
そして思わずこぼれ出た感想……悠斗直々に伝えられた味の評価を聞いた咲は、全身からパアァッ!と歓喜の感情を滲ませていた。
「流石だな…甘さもこっちの所感だけどちょうどいいバランスだし、これならいくらでも食べられそうだよ。…俺の感想だと、こんなものか?」
『…大丈夫。聞かせてくれてありがと』
「いやいや、こっちこそこんな美味いものを分けてもらえてありがたい限りだよ。…そっちはまだ作業するんだろ?」
『うん。これからもうちょっと調整して、ちゃんとした完成品にする』
「そうか…なら月並みだけど、美味かったよ。ありがとうな」
「………!」
求められた期待に沿えたかどうかは不明だが、思ったことは全て事実なのでしっかりと感想は伝えておく。
すると幸いなことに向こうから及第点はもらえたようで、ゆるゆると緩んだ口元を見せながら感謝を述べられた。
そうすれば咲は再びキッチンに戻ろうとしたので…その直前。
悠斗から改めて感謝の言葉を伝えれば、彼女から満面の笑みを返してもらえた。
(…美味かったな。咲が料理上手なことは知ってたけど、まさかスイーツ作りまで完璧だったとは…ほんと、家事に関しては隙なしだな)
彼女が来てから立ち去るまでの時間こそあっという間であったが、そのわずかな時間で与えられたものは悠斗の退屈だった感情すらも吹き飛ばす。
心機一転。彼女に求められた味見役という立場の責任を果たすことが出来たことへの安堵と、与えられた至福の味わいによる幸福感が今の彼を包んでいるのであった。
──なお、余談だが同時刻。
悠斗へと咲がチョコブラウニーを味見させてからキッチンへと戻り…そこで交わされた会話の一部始終。
「…あら、咲。もう悠斗に食べさせてきたの?」
「………」
「そっ。それで結果の方は……って、聞くまでもないわね」
「………!」
悠斗の元へと向かっていた咲とは違い、律儀に調理を続けていた里紗が彼女へと声をかければ咲は見るからに嬉しそうな空気を溢れさせている。
聞くまでもなく、結果が上々のものだったことは明白だ。
(全く…こんなにふにゃふにゃになっちゃって。まぁ目的が果たせたんだから嬉しく思うのは当然なんでしょうけど)
そんな彼女を見て里紗は内心親友のことをここまで蕩けさせてみせた悠斗に敗北感を覚えるが、今回ばかりは譲ろうと考えを改める。
何せ今ばかりは…悠斗本人には言っていない、咲から告げられた一つの目的があったのだから。
しかも、その目的というのが────。
(『悠斗にお菓子を食べさせてあげたい』、だなんて…咲から口止めされてるから言えないけど、こうなるとなんかやきもきするものだわ)
──悠斗には知りえない、何とも可愛らしい理由を携えた菓子作りの開催経緯だったのだから。




