第四一話 移り変わる呼び名
──図らずも咲の過去、その断片を知った。
無論、これを知ったからといって悠斗が何かをするという意味に直結するわけではない。
あくまで咲の過去を聞きたいと思ったのは同居人として把握できることは把握しておきたく、その上で何かできることがあるのならば可能な範囲でしてやりたいと思ったからだ。
決して必ずしも行動をするという意味ではない。
……だが、まぁ。
それらを考慮しても尚、少し咲と向き合う上でのスタンスも変わりつつあった。
言うほど大したことでもないが、これまでの悠斗は彼女とコミュニケーションを重ねる中であっても少々ぶっきらぼうに過ぎた。
今までならそれでも問題ないと考えていたので改善をする必要にも駆られなかったが…今後はそういうわけにもいかなくなってしまう。
…どんな過去があろうとも、どんな過程を経ていようとも。
悠斗の目の前にいる今の咲を見ると決めた以上、しっかりと彼女とも真正面から向き合う。そのためには多少なりとも態度の改善は必須である。
やることとしてはこれまでともほとんど変わらないが、そういった心構えで過ごしていくと決意したということだ。
………しかし、だ。
そうと決めた矢先。まさに決意したての現在。
咲と真摯に向き合おうと決めた悠斗の心は……早くも折れかけていた。
「…な、なぁ本羽?」
「…………」
「その…明日の買い出しのことなんだけどさ。俺が食材は買いに行ってくるから…」
「…………」
(…どうしてだ。何で本羽がいきなり…反応してくれなくなったんだ!?)
…この現状を端的にまとめるとすれば、それは気まずさの塊。
里紗が帰宅していってから悠斗も部屋へと戻り、そこにいるだろう彼女の元へと舞い戻れば……異変には即座に気が付いた。
まぁそれはそうだろう。
何せ、部屋へと戻った途端に彼の目の前に現れたのは…いつものようにソファに腰掛けつつも、己の小さな膝を抱きかかえながら見なくとも分かる不機嫌さを全開にする咲だったのだから。
普段は表情変化に乏しい顔の筋肉でさえも今ばかりは心なしかその気分が上乗せされているようで、ありありと黒いオーラが漏れ出ているのが伝わってくる。
その様子はまさしく、むっすぅ~……といった擬音がピッタリと当てはまるものでもある。
…ただ、仮にそれだけだというのであれば悠斗もここまで困惑はしなかったはずだ。
というのも、現在の二人は揃ってソファに横並びになって座っている状態なのだが……その距離間もまた少々近すぎるのである。
…いや、不機嫌だった上でかつ距離も離されているというのならまだ話は分かるのだ。
それならば悠斗の心も傷つきこそすれど、原因は自分の方にあるのだと明確に判断が出来るので即座に謝るといった行動が取れる。
だが…実はこの状況。最初は悠斗も彼女の雰囲気を察知してさりげなく距離を離していたのだが、向こうの方からススス……と音もなく近づいてきたのである。
…相変わらず、表情は不機嫌さ全開のままでだ。
要するに訳が分からない。
雰囲気を察して距離を離せば近寄られ、かといって向こうから何かを伝えてくるわけでも無くひたすらに沈黙が続く。
その空気に耐えらえず悠斗の方から一言二言話題を提供してみたものの、それだって効果は著しくない。
最低限の返答として小さく頷きこそしてくれるだけであって、普段のように携帯越しのふにゃふにゃとした空気感は完全に消え去っている。
「…本羽、俺なんかお前の機嫌を損ねるようなことやったか? だったら…すまん!」
「…………」
「……その、正直に言うと本羽がそこまで怒ってる理由が分からなくて…ただ、俺が原因だって言うならしっかり謝る。…悪い」
「………」
もうこれ以上はこの状態で停滞していることに我慢の限界も近かった。
ただでさえキツイ空間の中にあって、逃げようとしても逃げることは出来ず物理的に引き剥がすことすら不可能。
何が原因であるかも分からないため、弁明のしようもないのは言い訳も出来ないが…今の彼ではこう言うしかない。
こういった場面では誤魔化すのではなく何事も素直に白状すること。こちらが悪いと感じたのなら意地を張らずに謝っておくべき。
今までの人生経験からも悠斗はそのように学んできているため、その学びをここでも躊躇うことなく実践した。
……すると、それまでは一向に動く気配も見せなかった咲だが悠斗の発言に思うところはあったようで…久方ぶりに携帯を取り出して文字を打ち込んでくれた。
そうして、そこに示される文字列は───ある意味真意が掴めない類のもの。
『……怒ってるわけじゃ、ない。ただちょっと…嫌だっただけ』
「…嫌だった?」
「………」
「その…それって内容は聞いてもいいやつか?」
不機嫌さの原因は怒りというわけではなく、彼女曰く嫌なことがあったからこのような態度になっているとのこと。
悠斗が躊躇いがちになりながらそれを確認すれば、コクリと静かに頷いた咲の反応があったため勘違いという雰囲気でもなさそうだ。
…だが、そうなると余計に根本の原因に見当がつかなくなってしまう。
咲の言う嫌なことというのに悠斗自身は覚えがないし、先刻までの出来事を振り返っていても彼女は普段通り上機嫌で過ごしていたはずだ。
見た限り咲が機嫌を損ねるような展開など目立った箇所には無かったはずで、それゆえに悠斗はこの流れに困惑させられているわけだが………。
…されど、その疑問も悠斗が何気なく尋ねた問いによって解消されることとなる。
『……悠斗、里紗とすっごく仲が良さそうにしてた。見てたら分かるくらい』
「ん…? …まぁ、あれを単なる仲良しって言っていいのかは微妙だけど…確かに里紗は良い意味で遠慮しなくていい相手って感じだな」
「………」
「…ま、待て。何でそこで不機嫌さが強くなるんだよ」
彼女が次に言及してきたのはついさっきまでここにもいた人物、里紗に関すること。
言わんとしていることは多少ずれているものの分からないでもない。
実際、色々と腹を割って話し合ってからは里紗と悠斗も余計な気を遣わずに話せる相手になれたと彼も自負しているし、おそらくは向こうも同じだろう。
咲とは異なり、異性ではあるが…何となく男友達と語り合っているようにも思えてくる彼女を前にすると悠斗も自然と肩の力が抜けてしまう。
…なのだが、何故だか彼がそこに触れれば更に咲の顔は険しいものへと変化していってしまった。
具体的にそのタイミングを指摘すれば……そう。まさに悠斗が里紗に関する話題に触れた辺りで咲の頬は大きく膨らんでしまう。
……そんな子供らしい仕草も可愛いと内心で思ってしまったのは否定できないが、状況が状況なので流石の悠斗も口にはしなかった。
いくら何でもそこまで空気が読めない男ではない、悠斗も。
今はそこよりも咲である。
余計なことを考えていないで、彼女の不機嫌さの根本はどこにあるのかと頭を悩ませていれば…答えは意外なところにあった。
『…私は、されてない』
「……え? されてないって…何が?」
『……悠斗。里紗のことは簡単に名前で呼んでた。なのに私のことはずっと名字で呼んでる。…不公平』
「へ……もしかして、不機嫌の理由って…それ?」
「…………」
(……マジで言ってるのか? いや、この感じだと嘘なんて言ってないのは分かるけど…本羽が嫉妬してたってことだよな?)
蓋を開けてみれば、答えはシンプルにして単純。
要するに…咲がやたらと不機嫌そうに眉をひそめながら頬を膨らませていたのも、悠斗が里紗の件について触れようとしていた時にその態度を加速させていたのも。
…全ては、彼が咲を差し置いて里紗のことを名前呼びしていたからだという。
何とも可愛らしすぎる理由であるが、本人は大真面目だ。
けれど、そう考えると納得できるところもいくつか浮上してくる。
咲が不機嫌になったタイミング。あれは里紗が帰る直前だったことで…具体的には夕食が終わる辺りだった気がする。
そして、悠斗と里紗が互いに名前呼びをするようになったのもこの時。
更に言ってしまえば咲の不機嫌さが加速したのは悠斗が里紗の話題に言及した際。
もっと詳しく述べるならば、里紗を名前で呼んでいた時に限られる。
…ここまで来ればもう確定である。
(…これ、どうしたらいいんだ? まぁ要するに、本羽のことも名前で呼んだら良いって話なのは分かる……けど、本羽相手は何か…気恥ずかしい…!)
わずかに紅潮した頬から自らが望んでいたことを悟られて羞恥心が刺激されたのか、咲はプイッとそっぽを向いたっきり悠斗の方を見ようとしない。
…だが、逸らしたままの顔でほんの少しだけ頷くような仕草を見せたので肯定の意は感じ取れた。
しかしながら…これは困った状況である。
悠斗がやるべきことはもう分かる。今この場で咲のことを名前で呼べば良いのだ。
そうすれば(おそらくは)向こうも機嫌を直してくれると思うし、一番簡単な解決策は間違いなくそれなのだから。
…けれど、そうするためには悠斗の内心で湧き上がってきてしまう羞恥心が邪魔をする。
先ほど里紗を名前で呼ぶと決めた時にはこんなことは思わなかった。
あの時は場の雰囲気と他ならぬ里紗本人が気楽な様子で提案してきたため、さほど重要なことだとも思っていなかったためだ。
しかしながら…今ばかりは違う。
向こう側を見ながらもどこか期待するようにチラチラと潤んだ瞳で視線を送ってくる咲の表情は顔を赤らめているからか、いつもより艶やかに見えてしまうし…こんな中で彼女を名前呼びするというのはハードルが高すぎである。
普段なら意識せずとも出来たかもしれないこの行為が、今だけはどうも難易度の高いものに思えてならず…何とか踏み出そうとする一歩目がすくんでしまう。
無論、このままでは駄目だということも理解している。
(……自意識過剰でも無ければ、本羽がしてほしいのはこういうこと…なんだよな? …だったら、やるしかないか…)
だからこそ、悠斗は自ら動くことを決める。
たとえこれが向こうで望んでいないことだったとしても、それだけを恐れて咲を悲しませるというのは…少し違う気もしたから。
ゆえに、彼は未だそっぽを向いたままの咲めがけて口を開き───。
「───咲」
「………!」
───他でもない、彼女の名を呼んだ。
若干照れくささが反映されてしまったからか、声色がわずかに弾んだような気もするが…きっとそこに彼女の意識は向けられなかったのだろう。
悠斗が呼んだ瞬間、小さく肩を震わせながらもそっと彼の方に向き直した咲の顔は、それまでとは打って変わって真っ赤に染まっていた。
『…ゆ、悠斗? 今なんて…』
「……そっちが呼んでほしそうに見えたからな。不快だったならすぐに謝るけど…」
『い、嫌じゃない! …呼んでくれて、凄く嬉しい』
「……っ!」
…きっとその一言は、紛れもない本心からのもので。
悠斗から名前を呼ばれた咲は、一瞬何が起こったのか分からないといった様子で困惑するような素振りを見せつつも…自分の身に起きたことを理解すればその表情は一変する。
彼から放たれた言葉を頭の中で反芻するように感傷に浸り、向けられた蕩けそうな笑みは…悠斗をもってしても理性がぐらりと傾けられそうなほどに魅力的なもの。
(何を考えてるんだ俺は…! こいつのことを可愛いなんて思うとか、冗談じゃ済まなくなるぞ…!)
今も尚先刻の出来事を振り返っているのか満面の笑みでいる咲の姿は、彼の理性すらも溶かしかねないほどに美しく…愛らしい。
ふにゃふにゃと緩み切った口元。そしてそれを噛み締める目元は何よりも如実に彼女の歓喜を表していて…それを横目に見る悠斗は必死に込み上げる羞恥心を抑え込んでいた。
──彼らの呼称は移り変わり、気づかずとも距離感は更に縮められていく。
…ただ、それでも。
ふとした瞬間に、ここまで喜んでもらえるのなら自分が頑張った甲斐もあったのかもしれないと…悠斗は赤くなる頬を自覚しながら思っていた。




